136 光の帝国へ 17
セヴァーナは行く。
どの道が剣闘士たちのいる地下に通じているのかわからなかったが、これまで地下迷宮や大要塞や母国の城など、大規模な建築物を歩いた経験と勘にたよって移動していると、意外にすんなりと辿り着くことができた。
日向は肌を刺すほどに暑いが、日陰はむしろ涼しい。それは湿度が低いからなのだが、牢というよりは檻の並ぶ地下に辿り着いたとき、久方ぶりの淀んだ湿気を感じた。
それはただの水分ではない。
血から蒸発した湿気だ。
瞬く間に肌が血脂に塗れたような気分は主戦場に立ったときと同じだ。拒否反応が胸を刺し吐き気を呼ぶが、セヴァーナは堪えて檻の前を進んでいく。
胸焼けに体内を侵蝕されながら進んでいくと、地下で淀む血臭の源泉がそこにあるのだと、はっきりとわかった。
他の檻は全てが新しい剣闘士を入れられたかのように綺麗なのに、その檻の周辺だけはまるで無数の桶をぶちまけたかのように血で汚れていた。
そんな檻にいる者は中心で胡座を掻くように座っている。
「アスト!」
ここ数日の戦いで、彼がただ一人だけ汚れたままでいるのはわかっていたが、間近で見たその凄惨さにセヴァーナは叫んだきり言葉を失ってしまった。
「うん? ああ……セヴァーナか」
胡座を掻いたまま眠っていたのか、アストは目を開けるとそんな問いかけをしてくる。
「だ、大丈夫なのか?」
「とりあえずは死なない程度ってとこかな。水際の戦い、背水の陣だったか? そんな感じだ」
「そんな感じって……」
セヴァーナは地面を見る。
アストのいる檻は入退場口のすぐ近くだ。その前にある道は風で流されてきた砂が層を作っており、それを多くの剣闘士が、あるいは魔物たちが踏み荒らしていく。
ならば多少は薄れていてもいいはずだ。
そのはずなのに、染みこんだ半乾きの血は周辺の砂を取り込んで粘ついた赤い泥となってそこにとどまっている。
檻の中にいるアストの周辺などさらにひどい。
何十人もの人間がそこで殺され、解体でもされたかのように血が飛び散り、血だまりを作っている。
「治療は受けているのか? おいっ! そこの兵士!」
「無駄だ」
入退場口に立つ兵士を呼ぼうとしたのだが、彼は微動だにせず、アストにも止められた。
「あいつらは決められたことしかしない。選手を檻から出して送り出し、そして戻ってきたのを檻に戻す。それしかできない」
「そんな……」
「気付いてるだろ? ここは普通の場所じゃない」
「どうしてこんなことに? お前なら、もっと簡単に戦えるのではないのか?」
大要塞での彼を見ていれば、あの程度の敵たちに苦戦しているのなんて信じられない。
いまのセヴァーナでも全力で戦えばなんとかなっている敵たちだったはずだ。
「うん? 気付いていないか? 魔法が使えないだろ?」
「え!?」
「はっはっ……隙だらけだな、セヴァーナ」
「う、うるさい。……なにかうまく、思考がまとまらなかったんだ」
「催眠状態みたいな感じになってたか。で、隣のユーリッヒはどうなんだ?」
「あれも……いや、そんなことより、お前だ」
魔法が使えない状態で戦っていただと?
しかも裸同然の格好で武器も粗末なものばかり。
そんな条件では……セヴァーナでは生きていけない。三日目……あるいはもっと早くに死んでいたかもしれない。
「それで、どうなんた? 魔法は使えるか? 試してみてくれ」
「え? あ、そうだな」
セヴァーナだって回復魔法を覚えている。
そのことに気付いて、慌てて詠唱を唱えた。
【中位回復】
セヴァーナの魔力は詠唱に応じて形をなし、アストに絡みつく。その体に刻まれていた傷がゆっくりと塞がっていく。
「……使えるぞ?」
アストは使えないと言っていたのに。
だが、驚いているのはセヴァーナだけで、アストは「なるほどな」と呟くだけだった。
「なるほどな。これはただの身びいきなのか。……それとも陽が昇っているからか」
「陽……?」
「まぁ……まだただの予測だ。それにしてもまだ【中位回復】までしか使えないのか?」
「う、うるさいな」
「『勇者』の特典は聖霊の加護と全称号・全魔法・全技能への適応力だぞ? 剣を使うぐらいに魔法も使えるようになれよ」
「そ、そうなのか?」
初めて知った。
聖霊の加護はわかっている。そして加護を得た聖霊の属性に関係した魔法や技能には強力な後押しがあることも。
だから、氷の聖霊に認められたセヴァーナは氷の魔法を身につけ、先頭に立つ勇気がないことを誤魔化すために、陣形という特殊な技能を身につけることを目指した。
「知らなかったか? ああ、そういえばラランシア様も雷属性の魔法が強くなるぐらいしか教えてくれなかったな。後は自分で見つけろってことかと思ってたが、違ったか」
違う。
ラランシアが言っていることは、おそらく『勇者』を知っている者の共通認識だ。
そしてその認識の下、自分の得意分野を極めようと日々を過ごす。
だからこそ、アストの言っているようなことには気付けない。
「しかしそれだと、『勇者』とはなんでもできるということなのか?」
いや、そう考えてみれば主戦場でのアストの活躍にも納得のいく部分はある。それぞれの結果は尋常ではないが、彼は一人で戦い、一人で魔法を使い、一人で癒していた。
その全てを高水準という言葉すら置いていくような性能で使いこなしていた。
「あるいは、ここから先にへ進め……ってことなのかもな。知らんけど」
「ここから先……」
セヴァーナには意味の読めない言葉を呟き、アストは目を閉じる。
眠ったわけではなく、回復魔法を黙って受け入れているだけなのか。
血まみれだが、アストの姿に絶望はない。疲労はあっても憔悴はない。
魔法を封じられ、実力の半分も出せていない状況で、自分で背水の陣だと言っているような苦境の中で、それでもアストは戦う意思をその身に満たしている。
わずかに開いた唇から覗く歯の白さが血まみれな姿と反していて目に付く。
その口が犬歯を剥き出しにするような笑みを浮かべていることも。
楽しそうにしている?
あるいは本当に楽しいの?
どうして?
男の子だから?
わからない。
セヴァーナにはわからない。
ユーリッヒの狂った驕りも、アストの戦闘狂も……理解できない。
だけどもしも……もしもいまの彼があのとき落とし穴に落ちたことから始まっているのだとしたら?
あの戦神の試練場での出来事が二人の生き方をこうも変えてしまっているのだとしたら。
「……ごめんなさい」
もう、セヴァーナから出せる言葉はこれしかない。
「うん?」
再び目を開けたアストが首を傾げる。
「あの日のこと。何度謝ってもそれでどうなるものでもない。わたしとユーリッヒが苦しむことがあなたの望みなのかもしれない。それでも、わたしからはこの言葉しか出ない」
「……疲れてるなぁ、セヴァーナ」
「そうだ。その通りだ。わたしは疲れた。『勇者』があるからとしたくもない戦闘訓練をさせられ、行きたくもない戦場に行き、見たくもない殺し合いを見せられる。その上、望みもしない貴族社会の驕りが一人の人生をここまで狂わせた。わたしになにができる! わたしにはなにもできないのに!」
ああ、いけない。
こんなのはただの八つ当たりだ。
自分の苦しみとアストの苦しみは関係ないではないか。
こんなことが言いたいわけではないのに。
どうしてこんなにも、アストに自分の弱みを見せてしまうのか。
「……たった一杯」
「え?」
「飢えて乾いて死にそうなとき、たった一杯の水があれば、そいつは死ぬ前に渇きを癒す感覚を思い出して死ねるだろう。見捨てられて絶望のまま死ぬのと、癒しをくれた者がいるとわかって死ぬのと、果たしてどちらが幸せか?」
「それは……」
「たしかにあの十五層の戦いで、おれたちはほんの少し共闘した。それはおれにとって最高に愚かな勘違いの時間だった。このまま仲間になれるのかと思った。たかだか一日にも満たないような共闘でいままでのことを全部チャラにしそうになったんだ。おれもなかなか、追いつめられていたんだろうな」
「…………」
「……まぁ、結局おれは生きてたんだから、死に行く者のことを本当の意味で理解してるかってなると理解してないんだろうが、それでもおれはあの瞬間のことは覚えている」
あの瞬間……。
落とし穴に落ちたあのときのことか。
わたしを助けるために自らを落とし穴に落としたあのとき……。
落ちかけたアストを置いてユーリッヒに連れ去られようとしたあのとき……。
わたし、彼に手を伸ばしていた?
ような気がする。
だがそれは、自己弁護のための都合の良い記憶改竄かもしれない。
「あのとき伸ばした手の意味をもう一度考えてみる気があるなら、それを見せてみろ」
しかしそれを、アストが認めた。
その後のアストは目を閉じ沈黙を保つ。
ここから逃げるという考えは彼にはないのだと気付くと、セヴァーナは戻ることにした。
だけどもう……ただ玉座に座っているだけではいられない。
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