31 すべてがめぐる
最後の晩餐といっても食卓に並べた料理は家庭的なものだ。フランス料理のコースを作れるわけでもないし、満漢全席をこしらえる知識もない。
唐揚げにビーフシチュー、グラタンに少し豪華なサラダ。マオ用にわらじくらいの大きさのハンバーグも用意した。子供舌と笑われそうだが、俺の好きな豪華な料理なんてそんなものだ。
そしていつもと同じ顔ぶれで、いつもと変わらず馬鹿を言い合い、じゃれながら、笑顔でちゃぶ台を囲んだ。
心配したようなお通夜にならなかったのはサキのおかげか。
ただ、少しだけいつもよりはしゃぐサキの横顔を、俺はやはり直視できなかった。
食後に談笑し俺はバカラのグラスを手に縁側に出た。
珍しくサキが隣に座る。その手にもペアで頂いたバカラのグラスが光っていた。
「私にも少しだけ飲ませてよ」
「おま、未成年だろうが」
俺が言うとサキは「戸籍上よ。女性に年齢の話って禁句よ」と頬を膨らませた。
とっておきのシングルモルトを少しだけ注いでやる。琥珀色の命の水を珍しそうにグラスの中で回すと、僅かだけ口に含む。その途端サキはむせて咳き込んだ。
「な。それは大人の飲み物なの。お前にゃまだ早いよ」
「もう大人だよ。十六歳って結婚だってできる年齢なんだから」
「バカヤロー。青少年保護条例でお縄になるし」
俺が手を振るとサキは「でも私魔族だし」と笑った。
「そろそろ夏が来るな」
何を言っていいかわからなかった。人が季節の話や天候の話をするときなんてそんなもんだ。
「そうね……」
それは魔族も同じらしい。
月を見上げるサキの横顔を眺める。眺めると言うより、瞳に焼き付ける。この先彼女はこの世界でどう生きて、誰と出会うのだろうか。
そう思うと全てを投げ出してサキを抱きしめたくなる。その衝動はとても魅力的で抗いがたい。
胸の奥がつまるように痛む。
だから、俺は、彼女から目をそらした。
「アルルーシュカは?」
「寝かせたわ。食べながら船を漕いでいたしね」
「そうか。すまんな」
言葉少なに返す俺の肩に、サキは頭を預けてくる。
重くて暖かい。
俺は奥歯を噛み締めながらグラスを少し上げる。その底にサキは自分のグラスを重ねた。水晶のぶつかる澄んだ音が広がる。
まるで口づけのようだった。
丸くなるアルルーシュカを残し俺は布団を出た。晩春とはいえ夜は冷える。できるだけ温もりを逃さないように、そっと這い出る。
寝返りをうってこちらに白い顔が向く。そっとまるい頬を撫でると桃のような産毛がやわらかい。
「じゃあ、またな。アルルーシュカ」
未来の俺が命を賭して護ろうとしたもの。それが何なのか今の俺にはわかる。そして次は俺の番だった。そこに迷いはなかった。
「さて、いきますか」
脳内で、行きますかと逝きますか、そして生きますかが変換対象として浮かぶ。
たぶん全部だ。
文章を書くトンさんならどう書くだろうか。そんなことを思いながら準備をした。
特に必要なものはない。引き出しにしまっておいた緑色の石だけをポケットに入れ、俺は異世界荘を出た。
そろそろ午前0時。
少しだけ感傷的になって住み慣れたボロ宿を仰ぎ見る。
何とも人をコケにしたような建物だ。
でもここが俺の故郷と言えるのかもしれない。汚くて、軋んでいて、あとは倒壊を待つだけのこの宿は、俺に全てを与えてくれた。
たった一年だったけれど、ほんの僅かだったけれど、それでも俺は忘れない。ここに刻まれた傷のひとつひとつが、俺の心にも刻まれている。
あとは俺のいなくなった形跡をつけないようにするだけだ。
あと数分後に何が起きるか想像もできない。この場所を巻き込むわけにはいかなかった。
俺は玄関アプローチに敷き詰められた砂利道を、できるだけ音を鳴らさずに歩くと、もう一度だけ振り返ってから門を出た。
「定番すぎなのですよ」
門塀の暗がりから声が上がる。
「漫画の読みすぎなのでござる。少しは小説を読むでござるよ」
同時に闇からぬっと骸骨が浮かび上がった。
「お、お前ら……」
マオとトンさんが月明かりの中、呆れたように立っていた。
「なんで……」
「なんでもクソもないですよ。わかりやすすぎですよ。どこの少年漫画の主人公ですか」
「何も言わず立ち去る俺カッコイイ! とでも思っているのでござるか? 嗚呼情けなや」
酷い言われようだ。
それでも少しだけ嬉しい。口元がにやけるのを自覚する。
「お別れを言いにきてくれたのか……ありが」
「何を馬鹿なこと言ってんのよ!」
背中にサキの声がぶつかる。
とても刺々しい。
肩をすくめて振り返ると、サキはアルルーシュカの手を引いていた。アルルーシュカの眠そうな目は相変わらずだが、口元をキュッと引き締めて俺を睨んでいる。
「ナルセ行くの?」
「サキ……お前言ったのか?」
「こたえてナルセ。アルルをおいて行っちゃうの?」
強い言葉に声を失った。
「あぁ……」
それでもようやく絞り出した声は掠れて消えそうだった。
「でも仕方ないんだよ」
理由をせがむ子供に言い聞かせる言葉はあまり多くない。
それにもう時間も残されていなかった。
「みんなそろそろ離れてくれ。何が起きるか想像もできん」
巻き込みたくない。そう思ったが、アルルーシュカが俺の腰に抱きつく。
あぁ……やめてくれよ。決意が鈍るじゃないか。俺はもう一度君に会うために行くんだ。
何かをこらえようと夜空を仰ぐ。
瞬く星はーー
見えなかった
「来たわよ! みんな準備して!」
サキの叫びと周囲の変化は同時だった。
辺りに重苦しい読経が木霊する。二重にも三重にも重なり空気を震わせる。
「派手な登場ですね!」
夜空は消え去った。黄金色の曼荼羅が布を広げるように景色を消してゆく。飲み込んでゆく。
目が絡み思考が揺れる。加えて大地も揺らぐ。
「おいおい……冗談だろ?」
俺たちは大きな手のひらの上にいた。
球技のひと試合でもできそうなほどの金色の掌。
「成瀬涼。君の魂を預ろう」
腹の底まで震わせる声は頭上から響く。
お釈迦様の慈悲に満ちた表情が俺たちを見下ろす。
ここは……お釈迦様の掌の上というわけだ。
確かに派手な登場だ。ご好意痛み入る。
「行くわよ! アルルーシュカお願い!」
「うん!」
戸惑う俺の手をアルルーシュカが握る。
「行かせないからっ!」
強い瞳でそう言うとアルルーシュカは「父様お願い!」と目をつぶった。
俺とアルルーシュカの周囲をエメラルドグリーンの光が半球体となって覆う。
「待て! 何を!? おいお前らやめろ!」
慌てて手を伸ばすとアルルーシュカの展開した鉄壁の妖精に阻まれる。
中にいる者を護るための究極魔法。その対価として内側からのベクトルをも遮断する。
「アルルーシュカはそのまま成瀬を護ってて! あとは私たちがなんとかする!」
「バカヤロー! もうどうにもできないんだよ!」
お釈迦様の指がボロボロと掌に落ちると、とたんに観音の姿に変わる。俺の魂を刈り取るための眷属だろうか。
再生しては崩れる指先は、無数の観音を生み出していた。
サキは黒い翼を広げると、たおやかに微笑む観音の一体を蹴りつけた。
「あきらめるなっ! そんなの成瀬じゃない!」
「そうですよ! 食らいついたら離さないスッポンみたいなナルセが何を言っているんですか!」
賢しげにマオは笑うと、手にしていた大きな風呂敷を広げる。中には聖剣が鎮座していた。
「実験は成功です。まぁ見てて下さい」
青白く光る聖剣は聖なる力がフル充電だろう。その聖剣にマオは地獄の門から引き寄せた黒い魔力を注ぎ込む。
マオの額に玉のような汗が浮かび、顎を伝って落ちる。
その隙を突くように観音の一体が剣を振り上げた。
「甘いでござる! 鍛え直した小生のサーベルの鯖にしてくれよう!」
頭蓋骨を低くして駆け寄る。
いっきに距離を詰めると燦めくように鞘から刃が走った。
一刀両断。
胸から腰にかけて斜めに切り落とされた観音はグズグズと崩れて土塊となる。
「ダメだ! やめろ! そんな事しても意味がないんだ。俺が行かないとアルルーシュカが……」
両手で鉄壁の妖精を叩く。ビクともしない。距離をとって全力で蹴り上げてもヒビすら入らない。
「今までなんとかやって来た! これからだってどうにかなる! みんながいたら、家族みんながいたからどうにかできたの! ひとりだって欠けさせないんだから!」
サキュバスとしての膂力を解放し、あたりの観音をあらかた屠ると「マオ!」と叫んだ。
「了解ですよ! 聖なる力と魔の力。なんでも接着剤で錬成済みです! これがこの世界で最強の出力です!」
青と黒のスパークをあげる聖剣をサキに投げる。
翼を広げて受け取ると、サキは聖剣を構えてお釈迦様の顔に向けて飛翔する。
「お願い! 成瀬とアルルーシュカを返して!」
強烈な閃光が走った
全ての音が俺の耳から消える
まるでスローモーションで流れる無音の世界の中
サキは翼をもがれ叩きつけられた
「やめてくれ……」
駆け寄るマオは無数の観音に抑えつけられ
「頼むよ。もうやめてくれよ」
銀色の斬撃をくりだすトンさんも、いつしかバラバラにされてしまった
「お願いだ……」
それを俺はただ見ていた
これまでと同じように
何もできず
ただ見ていた
頬を流れる涙が熱かった
また大切なものを失う
そんなのはもうごめんだ
俺にできること……
グチャグチャの頭の中、俺は無自覚でポケットの中の小石を握っていた。
手のひらを開くと美しい緑色に光っている。
『きっと君はそうする』
業弾の言葉が浮かぶ。
ああ、そうだな。お前はなんでもお見通しだ。
俺は命のカケラを握りしめた。
「未来の俺、力貸してくれよな」
俺の声に頷いたように感じた。
握りしめた右手に甲冑が具現化する。
「だめ! 行っちゃやだっ!」
察してかアルルーシュカが叫んだ。
「大丈夫。またアルルーシュカとは会えるよ。なんせ俺は、今も、これからも、来世でも君を愛してる」
そっと彼女の頬を撫でて流れる雫を拭うと、俺はもう振り返らなかった。
「頼むぜ未来の俺さんよ!」
鉄壁の妖精でもって鉄壁の妖精を打てばどうなるか。
言わなくてもわかる。
軽い衝撃とともに、淡い光は結晶となって砕けた。
二人ぶんの鉄壁は思いの外薄かったようで、ありがたいことに俺の右手の甲冑は健在だ。
駆ける
走る
つんのめりそうなほど体を低くして風になる。
悪い気分じゃない。
マオにたかる観音たちをなぎ払うように右腕を振る。
豆腐を削る感覚に近い。
俺は目を丸くするマオの手を引いてアルルーシュカの元に投げ飛ばした。
「アルルーシュカ頼む!」
アルルーシュカは理解したのか、マオの身体を抱きしめながら鉄壁の妖精を展開する。
それを確認すると、俺はお釈迦様の顔の下に倒れこむサキに向かって走った。
「サキーーッ!」
声にならない叫びをあげる俺に、おびただしい数の観音が殺到する。
右腕を払い、突き上げ、叩きつける。
倒れた観音を踏み台にして次の観音を土塊に変える。
それでも次から次に、あいも変わらずたおやかな微笑みで観音は俺に集ってくる。
大丈夫だ。別に逃げやしねぇよ。
少しだけ時間をくれと言ってるだけだ。
振るった右腕に衝撃が走った。
コマ送りのように流れる景色の中で、俺の腕が赤い液体を撒き散らしながら持ち主の体から切り離されていた。
ゆっくりと、くるくると宙を飛ぶ
その度に血液が飛び散る
はっ!
だからどうした!
俺は身体を回転させながら左手で俺の右腕だったものを掴むと、頭上から押し寄せる観音たちを薙ぎ払う。
「サキーーッ!」
視界は回転し傾き、自分の態勢すらよくわからない中、転がった先に彼女の姿を確認した。
「サキ!」
残った腕でサキを抱きしめる。
「成瀬痛いよ」
弱々しい声が上がる。
「大丈夫か!?」
言ってみたものの、とてもそうは思えなかった。
引きちぎられた翼の付け根からおびただしい量の血が流れ、彼女はその中心にいた。
「バカ……。なんで出てきちゃうのよ」
「バカはお前だ! お前が死んだら意味がねぇんだよ!」
俺の声にサキは困ったように目を細めた。
「それは私の言葉だよ」
「クッ……すまん」
「あやまらないでよ」
俺は別に犠牲になろうってんじゃない。世界が滅ぶとして、誰かひとりが犠牲になれば救われるとしても、俺は手を上げない。そんな崇高な思いなんて俺にはない。
ただ大切なものを守りたいだけだ。他の誰かなんて知ったことじゃねぇ。ただ命に代えても家族だけは守りたかった。守ってもらうことも、守ることもできなかった俺の自己満足だ。
俺がいなくなって、それで悲しむ人もいるかもしれない。
だからどうした。
それよりも俺は俺のために俺の大切なものを守る。そんなクズ男なんだ。
「サキ……」
白くなりつつあるサキの顔に触れようとした時、背中に激痛が走る。
チラリと見ると、奴らが剣を振り下ろしていた。
ほんと……空気読めよな。
「お釈迦様よぉ! 俺は魂を預けるとは言ったけどな、命までくれてやるとは一言も言ってねぇぞ!」
俺は残された力で右手だったものを握ると、ありがたい慈愛の表情で見つめるお釈迦様に全力で投げつけた。
「もう少し待ってろや!」
くるくると空を舞うと、硬質な音を立てて緑色のベールが俺たちを包む。
「サキ!」
「ナルセ……」
「サキ! 聞こえるか!?」
膝をついて抱き上げると薄く目を開ける。
「うん……聞こえるよ」
「ならよく聞け! 一度しか言わねぇからな!」
ちょっと小首を傾けるサキの耳元に唇を当てる。
「あの日、俺たちが出会った時のこと覚えているか?」
走馬灯のようにかつての記憶が蘇る。
ファーストコンタクトはワーストコンタクトだった。
笑ってしまうほどだ。
サキは小さく頷いた。
「なら、あの時の返事を聞かせてくれ」
耳から口を離し、サキの顔を見つめる。
ほんの少しだけ頬が赤い。
「バカ……」
苦しそうに、それでも微笑むとサキは言った。
「そんなの……決まってるじゃない」
その一言で満たされた。
俺はもう満たされたよ。
偽物の妹なんかじゃなく、本当の家族になれた気がした。
それすら人は偽物というかもしれない。
別に構いやしねぇさ。
「ありがとう」
俺はサキの頭を抱き寄せて
くちびるにふれた
それが何を意味するのか俺は知っている。
サキは目を見開いて両手で俺を押し退けようとする。
させるかよ。
もう俺の命はお前のもんだ。
魂はあいつらに預けるから、今はそれで勘弁してくれ。
俺に残されたもんなんて、そんなもんしかねぇんだよ。
急速に流れ出てゆく命の灯火を感じる
とても幸せだ
その命は俺の大切な人の命と結びつく
永遠に離してやらねぇ
他の出会い?
そんなのは欺瞞だ。他の誰かになんてやるかよ!
頼むぜ俺の命
また出会う時まで……