30 さよならとこんにちは
鏡に向かって思う。
俺って本当に目つき悪いな、と。
少し離れて姿見を覗く。少しだけキラリと表情を作る。それくらいは許されるだろう。
長身と鍛えられた体にスーツはよく似合っている。よく似合っているが、別の意味でだ。
「何でだ? カタギに見えねぇよ……」
鏡の中で肩を落とす俺は、シノギに失敗した筋者だ。これから小指を詰めさせられる、そんな風に見えた。
「用意できた?」
ノックもなしに管理人室の扉が開かれると、サキが顔を覗かせる。
「ぷすー遅れるぷすーわよ!」
「何だよぷすーわよって……」
うなだれる俺の姿を見てサキは管理人室を転がった。腹まで抱えて転がるものだから、ヒラヒラしたドレスの裾がめくれて目のやり場に困る。
アルルーシュカの夢から帰還して二日目。今日は一色兄さんの結婚式だった。そして俺が俺でいる最後の日でもある。
サキにはすべてを告げた。
サキだけに告げた。
卑怯な気もするが、それしかできない俺はやはり未熟者だ。一色兄さんなら格好のつく別れの言葉でも言って、颯爽と消えるのかもしれない。
でも俺には無理だった。
家族を残して病死する父親はこんな気分なのだろうか。マオの相変わらず賢しい顔が引きつるのを見たくない。
いや……ちょっと待ってほしい。
そもそも俺がいなくなっても、奴は「あー、これでゆっくり寝れますね」くらいにしか思わないのではないだろうか。
いや、さすがに、それは……。神のみぞ知る、か。
それと、やはりアルルーシュカの泣き顔を見たくなかったのだ。
彼女がすべてを知ったなら、それは肉親を二度失うことに等しい。あの子はそれに耐えられるだろうか。下手な説明は彼女自身を追い詰める。自分のせいで二度も、などと曲解するかもしれない。
「成瀬! これからお祝いの席なんだよ」
サキが俺の顔をショール越しに両手で挟む。
憂だ深海色の瞳が俺を見上げる。
「あ、ああ。すまん」
それは何に対しての謝罪か。
俺は少し垂れている彼女の瞳を真摯に見つめ返すことができなかった。
ことが終わり、すべての説明責任を俺はサキに丸投げすることになる。
まだ少女と呼べるような彼女に重石を背負わせることになる。なんて卑怯なのだろう。
「ううん。行こ!」
俺の罪悪感を知ってか知らずか、サキは歯を見せて笑うと俺の袖を引っ張った。
美観地区での結婚式は珍しいことではない。
アルルーシュカと散歩していると何度か目にした。決まって和装の出で立ちをカメラに収めようと外国人旅行者が群がる。
歴史ある街並みに伝統ある衣装。これほど日本人にマッチしたシュチュエーションもないだろう。
神前式を終えた一色兄さんの周りにも人だかりができていた。ベンガラ色の傘をさす兄さんは、まるで雑誌から飛び出てきたモデルのようだ。絵になる。
「わぁ。綺麗」
サキが感嘆の声を上げる。その視線の先にはよく知った顔があった。角隠しと無垢の姿はまるで別人のようにも映るが、まぎれもない。
「あの人でしょ。成瀬の初恋の相手」
爪先立ちになって俺の耳元に囁くサキの声に、俺は曖昧に笑って見せた。
好きな人の前で初恋の相手と再会するとか、マジでどんな罰ゲームだよ。
施設で育った頃の記憶が蘇る。
昼寝の時間に暴れてあのひとに尻打たれたよなぁ……
とか
年少の子のおもちゃを横取りしたいじめっ子を、汲み取り便所に突き落として尻打たれたなぁ……
とか
あれ? ちょっと待て。
俺、叩かれた記憶しかねぇぞ。
思わず顎をつまんでうつむく。俺……Mなのか?
「やあやあ成瀬じゃないか! 元気そうで何よりだよ」
やたら溌剌とした声に顔を上げる。
どうやら俺をMの道に引きずり込んだらしい張本人がニヤニヤと笑っていた。
「あ、どもっす海音さん」
「やぁーだぁー。海音とか他人行儀ぃぃ! あの頃みたいにお母さんって呼んでくれてもいいんだぞ」
「ちょっ! 何言ってんすか!? マジ何言っちゃってくれてんすか!?」
慌てて両手を振るうが言葉は消せない。
見るとサキは屈みこんで腹を抱えて震えていた。
「おいおい。成瀬を虐めんのもそれくらいにしとけよ」
見かねた兄さんが割って入る。
「あぁ? 何て?」
「あっ、はい。それくらいにしてあげてください」
海音さんが紋付を引っ張ると、途端に低姿勢になる。無敵の兄さんもどうやら姉さん女房には敵わないらしい。
「そんなこと言ってっけど、おか……海音さんもすぐに本当にお母さんになるんじゃね? ほら腹が出てるゴフッ!?」
少しはやり返そうと思ったのだが、全て言い終わる前にボディーブローが突き刺さる。
強烈だ。そして何だか懐かしい。
「まだ妊娠してねぇっつーの!」
「さ、さいですか……」
それからサキを交え、公開処刑的に昔話に花が咲いた。ほとんど針の筵だ。
でも兄さんや海音さんなら、俺がいなくなってもサキたちのことを見守ってくれるに違いない。それはほとんど確信に近かった。
「まぁアレだ。私も三十路半ばだしな、早く子供は欲しいと思っているよ。なぁ?」
逃げ出そうとしていた兄さんの襟首を掴む。
「なぁ?」
「は、はい。頑張ります」
小さくなる兄さんを尻目に海音さんが思いついたように手を叩く。
「そうだ! 良かったら成瀬が名付け親になってみない? これも縁だよ縁!」
「なんで俺が……。それに取らぬ狸の皮算……あ、はい。つけさせてもらいます!」
少し考えていると注文が煩い。私の名前の一部をつけろとか、男の子でも女の子でもいいように考えろとか無理難題だろ。
「私は成瀬って響き好きだけどな」とサキが言うと「だよねー。響きだけはね。本人はアレだけど」とか好き勝手言われる。
「あー、あの。俺の一文字と海音さんの一文字をとって、こんなのはどうすか?」
俺が告げた名前の候補を反芻するように何度も呟く。
「うむ。確かに男の子でも女の子でもいけそうだな。私の名前も入ってるし」
「あのぉ。俺の名前は……」
すごすごと口を挟む兄さんに「あんたは苗字で主張してんだから控えなさいよ」と一蹴する。
「うん、いいね! それいただいちゃうわ」
弾けるように笑うと、二人は運営に呼ばれて離れていく。その先でも笑いが花を咲かせていた。騒々しいにもほどがある。
「素敵ね。私もいつかは……」
そこまで言うと、サキはハッとしたようにうつむいた。
ごめん、サキ。
俺は心の中で呟いた。
別れもあれば出会いもある。
その逆も必然だ。
俺は今日でみんなとお別れだ。
それでもいつか、サキにも新たな出会いが訪れる。きっと訪れる。願わくばその出会いが幸福でありますように。
そして一色兄さん。海音さん。さようなら。
生まれてくる子供にこんにちはできないのは名残惜しいが、それはサキに任せよう。
異世界荘に戻った俺は大掃除に取り掛かった。
どうせ俺がいなくなったら大変なことになる。そう思ってマオとアルルーシュカ、それにトンさんに掃除の極意を伝授しようと思ったのだが、あえなくお断りされた。
マオは部屋に閉じこもり「今は実験中なのです」とつれない。トンさんは街に繰り出しているらしく愛用のスケキヨマスクも見当たらなかった。
アルルーシュカはサキと買い出しに行くと言っていて、結局俺一人でする羽目となった。
これがいけなかった。
異世界荘は思い出の宝庫だ。たった一年しかいなかったこの老朽化した建物は、いたるところにその記憶が刻まれている。
サキが蹴りぬいて大穴を開けた場所は、俺とアルルーシュカで漆喰を塗って塞いだ。そこだけが今も白く真新しい。
梁のいくつかはマオが断末魔弾で消失させ、ホームセンターで買ってきた杉で補強している。嫌がるマオに無理やり手伝わせたが、奴はトンカチで派手に自分の手を叩いていた。
何度言ってもトンさんはトイレに本を放置するし、廊下の壁にはカフカの這った後がこびりつく。
どこを掃除しても思い出しかなかった。
どうにも感傷的になり、お気に入りのグラスを片手に縁側に転がる。
「何だかなぁ……」
何も告げてない俺が悪いわけだが、少し寂しい。まるで庭の葉桜のようだ。すでに散ってしまった花のように感じた。
あとは散乱する花びらのように、雨に流され側溝に溜まるゴミクズにならないよう心がけよう。
一度死ぬとはいえ、アルルーシュカの父親として生きることになるのだ。そう悲観的になる必要もないだろう。
そんなことを思いながら、晩春にしては冷える縁側でグラスを傾けた。
「さてっと、最期の晩餐でも作るかねぇ」
重い腰を上げ時計を見る。
残された時間はあと5時間だった。




