28 アルルーシュカの夢
業弾と別れ、異世界荘にたどり着いた後のことは正直あまり覚えていない。
アルルーシュカは鉄壁の妖精に覆われ、意識を失っていた。その傍らには、事態が飲み込めずアルルーシュカの名前を呼び続けるサキの姿があった。
これまであったこと、世界の傾きのこと、そしてアルルーシュカのこと。説明することは山ほどあったが、うまく説明できたか自信はない。俺自身あまり正確には把握しきれていないどころか、分からないことも多かった。
そして一番、これからのことが分からなかった。
そうした騒乱につつまれたまま数日が経過した。
アルルーシュカは鉄壁の妖精に覆われたまま、管理人室の俺のベッドで眠り続けている。ぼんやりと幻想的に光を灯す様は、まるで蛹のようだと俺は思った。
アルルーシュカの身体を窺い知れないので、本当にドロドロに溶けているのではないかと心配になる。しかし寝息とともに時折父親を呼ぶ声で、胸の奥の硬いしこりがいくらか和らいだ。
「どう? 変わったこと、あった?」
そろりと扉が開きサキが顔を見せる。
できるだけ物音を立てないように、細心の注意を払っているようだった。
「いや。父様、父様ってたまに寝言を言っているくらいだな。多分夢でも見てるんだろうな」
この返しも、もう何度目になるのかわからない。情けのないことに、それくらいしか今の俺たちにはできないのだ。
サキは髪を耳にかけながらアルルーシュカの顔を覗き込む。本当ならばそっと顔でも撫でてあげたいのだろうが、それも叶わない。
「でもさ、たまには俺の名前を呼んでくれてもいいと思わんか?」
「無理しなくていいよ」
おどけて見せる俺に、サキは首を振った。
「無理しなくていい。あんた凄く辛そうだもん。こんな時に私たちのこと心配してさ。無理に明るく振る舞われたら、なんかね、うん、なんか悲しい」
「だって私たち家族なんだから」と、ほとんど消えそうな声で囁く。
心の硬くなった部分を優しく撫でられたような気がした。サキの気遣いは、嬉しさと同時に、不甲斐ない自分を否応なしに自覚させる。感謝の気持ちと不安を吐露してしまいたい衝動とが、グチャグチャとないまぜになってうまく言葉が出てこない。
「すまん。家長として失格だな、こりゃ」
ようやっと絞り出した台詞はひどく滑稽に響いた。
家長だ長兄だと言ったところで、結局俺はたかだか二十七歳の青二才だ。むざむざと部下を死なせ、激情のままに上司を殴りつけた頃と何も変わっちゃいなかった。
あの頃と変わらず、俺は誰一人守れていない。守るはずのサキたちに、逆に心配をさせている体たらくだ。
「『お前は馬鹿ですかコノヤロー。兄の心配する妹がいても、全然おかしかねぇだろ!』って、一年前の成瀬なら言ったと思うけどね」
「へっ。誰のモノマネだよそりゃ。俺なら『バカヤローですかー』だ」
「ホント馬鹿よ。一方通行の愛情の押し売りってさ、それほとんどストーカーよ」
眉間にしわを寄せて悪態を吐くサキに、思わず吹き出しそうになった。そしてサキの言う通りだとも思った。家族とは、きっとそういうものなのだろう。お互いに助け合い、無条件で手を差し伸べる存在。
でも。
「家族なんていなかったから、わかんねぇよ」
「今はいるじゃない」
「偽物でもか?」
「偽物でもよ」
サキの指先が俺の袖を引く。まるで拗ねた子供をあやすように優しい。
その手をいつかしっかりと握れるだろうか。
「早いな。そろそろ一年が経つのか」
内心の動揺を隠すように宙を仰ぐ。
「そうね。こうしてアルルーシュカが甲冑に包まって寝ていると、この子が異世界荘に来たのも、なんだかついさっきなような気がするわ」
「あの時もアルルーシュカは父親の夢を見ていたんだよな。確か」
正体不明の甲冑の夢を覗こうとして、サキの意識体が弾かれたことを思い出す。
「うん。森が燃えるイメージしか掴めなかったのよね」
「今やっても同じだと思うか?」
一年前は確かに父親の夢を見ていたはずだ。しかし今のこの状況はどうなのだろうか。
意味深なことを言って姿を消した業弾の言葉が蘇る。
『始まりは終わりのたもと。終わりは始まりの軌跡。輪廻は巡り、また繰り返す。僕たちは夢の中で待っているよ』
夢とは何を指しているのか。
あの日から浅くなった俺の夢に業弾は現れていない。それならば夢とは目標とか、そう言った指標を指しているのか?
そう思ったがすぐに否定した。
あり得ないしますます意味がわからない。俺の夢は家族たちと笑って生活することだ。それはある意味においては実現している。そしてその夢の中に業弾の姿はない。
残った可能性は……
「お願いがあるんだがサキ。もう一度アルルーシュカの夢の中に入れないか? あの業弾の言葉が引っかかるんだ」
「ごめん。無理だと思う。今この子に触れられるのは成瀬だけよ」
「そっか。俺が夢に入れればいいんだけどな」
地球人の俺にはどだい無理な話だ。いっそサキと合体でもするか、能力の移譲ができればいいのだが。
「……ちょっと待てよ。俺とサキの意識体を一時的にでも統合できれば可能なんじゃねぇか?」
「何それキモい。そもそも意識体を合体って……あっ!」
「そうだよ、そうだ! ったく、何で忘れてたんだろうバカヤローは俺だ」
「業弾の『何でも接着剤』!」
タチの悪いオモチャを頻繁に持ち込んでいたのは業弾だった。
コンドームがわりの指サックから始まって、くだらねぇ物に俺は振り回され続けていた。人が騒動に巻き込まれるのを楽しむ様は、笑うセールスマンの喪黒福造のようだと思っていたが、もしかすると全てこのための布石だったのだろうか。
『あっはっは。君はいつだって迂闊だよ。でも僕は君には甘いんだ』
人を食ったように笑う業弾のつるりとした顔が脳裏に浮かぶ。
『言っただろう? 核心の周りをグルグルと廻るのは、僕の悪い癖だって』
ああ。確かに言っていた。まったく心底うんざりだよコノヤロー。
いつもの様に悪し様に心中で罵ると、自然と口角が上がるのを自覚する。やっぱり俺はこうでなくちゃいけない。
どれだけ悩んだところで、立ち止まってちゃ解決なんて無理な話だ。考えて上手くいくなら、幾らでも考えてやる。そうじゃないなら動くしかないのだ。その先が行き止まりだろうと、崖っぷちだろうとだ。その時にまた考えればいいだけの話。いつだってそうしてきたし、今更生き方変えられるほど器用にできていない。
そうだ。上司の顔面に拳をブチ込んだ頃と変わらない。変わるはずもないのだから。
「待ってろ業弾。その横っ面殴ってでも全て吐かせてやるからな!」
◇
管理人室の押入れにねじ込んでいた『何でも接着剤』は姿を消していた。業弾が持ち込んだ危険な代物は、大概がここに隠していたのだが、いくら探しても見つからない。
「あったよ成瀬」
「お、マジか!? どこに……あーー」
サキが引きずって来たものを見れば聞かなくてもわかる。
「ちょっと借りただけではないですか!」
悲鳴を上げて言い訳しているのはマオだ。耳たぶをサキに捩じ上げられて涙目になっている。
「『何でも接着剤』でお前は何しようとしてたんだよ。どうせロクでもねぇ事だろ?」
「違う! 余はそれで……えぇと、あ、そうだ! 先代と余の仲をですね、接着しようと」
「そうだって何だよ。そうだって。嘘くせぇぇぇ。正直言ってみ。カフカに逃げられないように悪巧みしてたんだろが」
「う!? ち、ちげーよ。アホーボケーカスー。痛ッ!」
言い終わるより早くサキの指先に力がこもる。
だんだん口悪くなるなってるな、こいつ。
「口が悪い奴なんて成瀬だけで十分よ。変なところ似てくるんだから……」
「えぇ……。俺のせいですかね」
「犬だって飼い主に似るんだから、長兄に弟が似るなんて当然でしょ」
「そうだそうだ! ナルセのせいなのですよ」
逃げ道ができたと思ったのだろうか、マオはキリリとした顔で俺を指差す。
自分が犬と同等と言われているのが分かってないのだろう。
「まぁアレだぞ。裏技で人心を掴もうとしても意味ねぇからな」
「う、うるさいです。それで何でも接着剤を使って何にを企んでいるのですか?」
分かりやすく話をそらそうとする様はまだまだ少年だ。こいつが魔族を纏め上げられる器になるには、はたして何万年かかるのだろうか。ふと心配なるが、その頃には俺もいない。俺が死ぬまでには何とか独り立ちさせたいものだ。
「理屈的には可能なのです」
ひとしきり経緯を説明すると、しばらく考えてマオは重い口を開いた。
「どういう理屈かは分からないけれど、ナルセに対してのみ、鉄壁の妖精は拒絶をしない。おそらく融合した意識体だと、多少の衝撃はあっても侵入は可能ですね」
慎重な物言いが気になるところだが、道はひらけた。
「ならさっそく!」
「いや待つのですよ。侵入はできるけど、出てこられるとは言っていないのです」
「ちょっとぉ。はっきり言いなさいよ」
マオの歯切れの悪さにサキが噛み付く。
「これも可能性の問題なのですよ。この甲冑は内側にいる保護対象を護るのが絶対的使命なのです。その為には、危険が去るまでは対象者を能力のエリア外へ出すことを拒む。かもしれない」
「んなこと知らねぇよ。そうなったらそうなったで考えればいいさ」
最悪そうなったとしても、統合を解除すれば少なくともサキは弾き出されるだろう。
手前ぇのことなら、手前ぇでなんとかするさ。
もう重い腰は上げたんだ。後は走り出すことしか今の俺にはできない。
「……まったく。少しはしおらしくなったと思ったのですが。分かったのです。余が何でも接着剤をふりかけるから、二人共並んでください」
サキと互いに顔を見合わせる。
力強く頷いたサキの目に迷いはない。
「目を瞑るのです。暫くは酔いに似た感覚に襲われるけれど、しっかりとお互いの手を握るイメージをするのです」
言うが早いか、マオは接着剤を勢いよく振りかけた。
「とっとと行って、引きこもりの姫を連れ出してくるのですよ!」
お前が言うな。そう返す間も無く意識が混沌とし始める。
ドロドロに溶けて混ざり合う。
ジューサーにでもかけられた後、まるで砂時計に捻じ込まれたような感覚の中、俺はサキの手をしっかりと握った。
◇
「成瀬聴こえる?」
「うえっ。気持ちわりー」
俺の声に反応するように、温もりが胸の中に広がる。サキの安堵した気持ちまで丸わかりだ。下手に下衆いことでも考えたら後が怖い。
「見て。一応アルルーシュカの夢の中に入れたみたいよ」
俺たちはひとつの意識体となって暗闇を漂っていた。辺りを見渡すと、空間のあちらこちらで扉が不規則に漂っている。
見るからに頑丈な作りの鉄製のものもあれば、木でしつらえた粗末なものもある。それらが無軌道に、そして数えるのも馬鹿らしくなるほど、見渡す限りの空間を埋め尽くしていた。
「これが……夢の中なのか?」
「ううん。これはまだ表層なの。扉の先に無数の夢と経験が広がってるわ」
そう言うと「こっち!」と意識体が流れ始める。飛ぶと言うよりは泳いでいる感覚に近かった。
サキュバスのサキには確信があるのだろう。無数の扉をすり抜け、かわし、意識は奥へ奥へと、深く深く沈んで行く。
「……ここよ。間違いないわ」
時間の感覚がなくなった頃、俺たちは小さな扉の前で立ち止まった。
それはとても小さく、ほとんど子供に合わせてしつらえたと言っても良さそうな、華奢で、素朴な扉だった。
辺りには扉のひとつも見えない。
特別に仕舞っておきたいのか。それとも忘れてしまいたいのか。とにかく他の夢の扉と隔離された場所だった。
「いい? 開けるわよ」
俺は強く手を握り返すことで、無言の肯定した。
今更引き返す気がないことなど、サキには言わなくても分かるはずだ。
そして
夢の扉は開かれた
哀しくて
切なくて
あたたかい
アルルーシュカの過去と
起きるかもしれない真実へと
残り4話