27 傾きの先に2
「ナルセ……吐きそう」
頭上でマオの悲痛な嗚咽が漏れる。
「吐くなよコノヤロー! 俺の頭をゲロまみれにしたら飯抜きだからな!」
マオを背負ってスレイプニルで駆ける。振動がそのままマオの三半規管をディープインパクトしている。それは分かっちゃいる。分かっちゃいるが、んなこと気にしている暇はない。
異世界荘からはドラゴンの出現地は近く見えたが、実際走ると結構な距離があった。
それもそのはずで、郊外にある異世界荘からさらに南下した小高い山の頂上が震源地だった。夜の闇が距離感を曖昧にしていたのだ。
確かあそこには神社があったはず。無事だとは思えないが。それでも……。
「それでも街中よりはずいぶんマシだろぅ? 感謝してほしいね」
「あっ業弾。お前の仕業か!?」
ズシリと後輪に重みが加わる。異世界荘に残ったと思っていたのだが、どこからともなく現れてバックステップに飛び乗ってきたのだ。
「クッソ燃えてんだぞ! すぐに大ごとになるのにマシもクソもねぇよバカヤロー」
「なぁに。当分は大丈夫だよぉ。燃えちゃいるが、見えてはいないさ。君みたいな例は特殊だからね。それより、さあ走った走った!」
「クソッ! 後で全部説明してもらうからな!」
「いいとも。僕は君には甘いんだ。それに、もうそろそろ限界だからね」
どことなく寂しげに響いた業弾の言葉が、どうしようもなく不安にさせる。俺はその苛立ちをペダルにぶつけるように踏み込んだ。
麓にある駐車場にスレイプニルを投げ捨て参拝道を駆け上る。途中なぎ倒された木々や燃えさかる山肌をマオの魔弾で吹き飛ばす。自然保護とか今は無理。そうしながら視界を覆い尽くすドラゴンに向かった。
しかしだ、近づいて見たものの、こんなのどうすりゃいいんだ。
そう思えるほどドラゴンはデカかった。二階建ての一軒家ほどだろうか。巨大な爬虫類くらいに思っていたが、その認識は近いようで遠い。
煤で薄汚れた鉄色の鱗は筋肉の動きで脈動し、ひとつひとつが生きているようだ。どう見ても人間の手でどうにかできるようには見えない。
それに明らかに気が立っている。知らない世界に突然転移させられ、きっと荒ぶっているのだろう。炎のブレスを夜空に向けて放つのは、仲間でも呼んでいるのかもしれない。その度に肝が冷えるような咆哮を上げやがる。
正直おっかねぇ……。
「マオ! 世界を七回滅ぼすとかいう自慢の魔法の出番だぞコノヤロー!」
「ごめんなさい無理です。嘘つきましたごめんなさい。今の力では無理ですごめんなさい。あと本調子でも二、三回滅ぼすのが限度ですごめんなさい」
俺からすごすごと離れてペコリと頭を下げる。
「そりゃそうだよね。そのままの力でこっちの世界に連れてくるわけないじゃん?」
「なら! あのドラゴンも弱まっててアレなの? アホなの?」
汗ひとつかかず涼しい顔の業弾に詰め寄る。
ちなみに俺は緊張と恐怖でワキ汗がやばい。脇毛が薄いから肘まで垂れてきやがる。
「いや。アレは呼んで出てきたわけじゃないからね! 流れてきたやつだからね!」
ウインクしながら親指を立てる業弾の顔を殴りつけても、お釈迦様は許してくれるだろうか。あ、こいつがお釈迦様だった。
「殴られたくはないね。仏の顔は三度まで、なんていうけれど、三回殴れるという意味ではないよ」
「だから、さっきからお前は思考を読むなよ気持ち悪りぃ」
「読んでやしないさ。僕はどこにでもいて、どこにもいないのさね。そもそも信仰心と一緒さ。どこにでもあって、されどどこにも無い。よく南無阿弥陀南無阿弥陀と唱えるけれどね、アレは赤児が母親の名前を呼ぶのと……」
「あーもう。そういうのはいい」
説法など聞きたくない。むしろ説教したいくらいだ。
俺は手のひらで遮りマオを振り返る。
「とりあえずやれる事をやろうぜ。戦術的にはお前の魔力頼みだ。山火事に水鉄砲ぶっかける程度であっても、やらないよりはマシだろ?」
「ずいぶん低く見られたものですね! いいでしょうやりましょうそうしましょう」
あるいはアルルーシュカの精霊魔法なら。確かにそんな思いもあったが、転移の原因を知った今、どうにも気が進まなかった。
俺の思惑は筒抜けなのか、それとも安い挑発に乗ってくれたのかは分からない。マオはいつものように不敵な(と本人は思っている)笑みを浮かべながら詠唱を始める。
途端に空間が捻じ曲げられ、幾度か見たように地獄の門が開かれる。6畳半では禍々しく思えた魔法陣も、巨体を揺らすドラゴンの前ではいくぶんかと弱々しく見える。
「行きますよ! 地獄の業火をもって敵を薙ぎ払え!」
「たーまやー!」
業弾の呑気な声に断末魔弾の叫びが重なる。昼行灯を打ち消すような苦悶に満ちた絶叫は、しかしドラゴンの硬い鱗に命中するやいなや硬質な響きを残りして消え去った。
「くそっ! やはり魔力が不足して……」
「危ないマオッ!」
ドラゴンにとっては蚊に刺された程度だったかもしれない。しかしむず痒そうに巨体を震わせると、奴にとって蚊に等しい俺たちに向かって長大な尾を振り上げる。
とっさに俺はマオを抱えて真横に飛び退く。
1ステップ、そして2ステップ。
最後には炭化した始めた雑木林に突っ込む。
肩から背中にかけて衝撃が襲うが、痛みは感じなかった。それよりも爆風に飛ばされた石飛礫が顔面を叩き視界がぶれる。
ゾッとした。
1秒にも満たない過去に俺たちがいた場所は、まるでナパームでも落とされたかのようにえぐれ、地形を変えていた。
「なんだよこれ。絶望的じゃないか」
思わず笑ってしまっていた。荒唐無稽な創作物を見たときのように、乾いて乾ききって干からびたような笑いだった。
案外恐怖心というものは水のようなものなのかもしれない。じわじわと温められると水蒸気のように立ち上がるが、強烈な熱量を伴う恐怖心は、水を一瞬で蒸発させ、枯渇させ、乾ききってしまう。
「ナルセ! 次が来ますよ!」
腕の中でマオがもがく。
地形を変えてしまったドラゴンの尾は、そのままの宙を翻してまるでブーメランのように戻ってくる。
第二撃だ。
「成瀬君忘れ物だよ!」
ヘッドライトに照らされた猫のように竦む俺に、業弾が見慣れたものを投げよこす。
くるくると回転しながら俺の手に収まったのは、持ち主不在の聖剣だった。
「こんなものでどうしろと!」
それでも、それにしても暇はなかった。
受けとった聖剣の刃を真横にして盾のように両手で構える。
それでどうにかなるのかと、思考を巡らせる時間も与えられない。
眼前に迫った尾は、まさに視界の全てだった。
その瞬間。聖剣から青白い閃光が走る。
「聖なる力はフル充電だよ! 死にはしないさ」
そんな業弾の声を聞いた気がするが、その時には後方に吹っ飛ばされ、俺とマオはおろし金の上を走る大根さながらに地面を転がった。
「痛っ!」
なんとか息はできているようだ。隣ではマオが仰向けに倒れている。揺らしても反応がなく青ざめたが、どうやら気を失っているようだった。
「これは……ヤバイかもしれん」
打つ手なしだ。
普通に考えて、普通の人間が普通にドラゴンと戦えるなんて、普通に無理な話だ。
業弾はこれを俺たちがどうにか打開できると思っているのだろうか。もしそうなら極めて自己中心的な期待と盲信だ。
「大丈夫。死にはしないさ。そろそろさ。そろそろ来る頃合いだからね。最後のピースが」
業弾は俺たちの頭上にぷかぷかと浮かんで胡座をかいていた。もうそんな事で驚きはしないが呆れはする。
「何がだ!?」
真実のまわりを廻り続けるのはごめんだ。
「お前は何を考えている!?」
「この世界に存在してはいけない。そんな人間を待っているのさ。君を救う最後のピースなのさ。ああ、来たね」
業弾が顎をあげる。
「あはっ! やっぱりだ! この辺りだと思っていたんだ!」
嬉々とした少年の声が聞こえた。燃焼の音と怪物の咆哮をかき分ける甲高い声だった。
つられて見上げた夜空にほのかに浮かぶ月の光。その丸い月のシルエットの中に小さな影が見える。その影は万有引力の法則を無視したように弧を描くと、今にもブレスを吐き出そうとしていたドラゴンの鼻面を蹴り上げた。
強烈な不発弾がドラゴンの口内で炸裂する。
苦悶のためか怒りのためか。もんどりを打ちながら怪物はひときわ大きな叫びをあげた。
「ちょっと借りるよ、おっさん」
俺の脇に着地したあどけない顔をした少年は、不名誉な呼称に反論する余地もないほど、鮮やかに俺の手から聖剣を奪うと再び飛翔する。
「やれやれ。間に合ったようだね」
業弾が息を吐き、俺は言葉を失った。
これは現実か。
俺は半歩ほど幻想に足を踏み入れてしまっていたことは理解していたが、どうやら気付かないうちに片足どころか首まで浸かってしまったらしい。
目の前で少年がドラゴンを圧倒していた。
圧倒的だった。
聖剣で尾を断ち切り、素手で鱗を剥ぎ取る。
目玉を握りつぶし、舌を引っこ抜く。
少年のけたたましい笑い声は、歓喜に満ちて、狂気に満ちていた。
「……あれは何だ?」
「知っているだろぅ? そこで伸びている魔王のお坊ちゃんの言った通りさ。転移は一人では起きない。君の言は言い得て妙だ。アレは交換留学から帰って来た人間さね」
「アレが人間だと?」
俺は狂ってしまったのだろうか、それとも常識の方が狂ってしまったのかは分からない。もしかしたらその両方かもしれない。
しかし、ドラゴンの命をまるで使い捨てのおもちゃのように弄ぶ者を、俺は人間とは呼べない。
「……そうだね。元、とつけた方がいいかもしれないね。何せ他の世界ではそういう力を与えてしまう阿呆で困った神もいるのでね。だからこそ、僕はこの世界に置いておかない」
たいした時間はかからなかった。
いっときの享楽を終えた少年が、聖剣にこびりついた体液を振るい落とす。その背後では水晶を砕いたように、かつてドラゴンだったものは鋭い光を放ちながら姿を消した。
「消えた……のか?」
「いや違うね。元の世界に戻っただけさ。だだし死体でね」
業弾が懐から数珠を取り出しながら言う。
その数珠を指先でつまみ、銃を構えるように手を伸ばした。
「え!?」
俺は目をつむっていたわけではない。
しかしまるでフィルムを断ち切って繋げたような光景だった。
業弾の数珠に、聖剣の切っ先が突きつけられていた。
少年は目にまとまらない速度で業弾を突き、業弾は数珠で防いだのだ。
「やっぱりだ。ドレッドのおっさん、あんたが神様ってわけだな?」
「神じゃないけどさ。でも僕に用があるんだろ?」
「ボクを異世界に戻してくれ! こんな現実の世界なんて求めてないんだ」
少年は興奮したように違う世界での生活を語った。清々しいほど戯言で、バカバカしいほど戯言であった。
そして最後にはとっておきの痴れ事を言ってのけた。
「じゃないと、ボクはこの退屈な世界を滅ぼしちゃうから」
爛々と輝く瞳に嘘の気配はなかった。
「ああそうだね。利害は一致だ。僕も君には戻ってもらうつもりさ」
「いいね! そうこないと!」
「だだし、今すぐじゃない。それまで寝ていろ」
耳を疑うような冷めた言葉だった。
少年の顔に疑問の色が浮かぶと同時。切っ先を突きつけられていた数珠が輝き、俺の視界を奪う。
そして白黒になった世界の中で、少年は姿を消した。
「何をしたんだ!?」
「なぁに、この中で眠ってもらっているだけさ。それより早く帰った方がいい。今頃サキュバスの娘が慌てている頃だよ」
言われて気付く。
何も言わずに出て来たのだ。異世界荘からでもこちらの惨状は見れるはずだから、心配しているかもしれない。
「ああ、そうじゃないそうじゃない。世界は傾いている。そして傾きはドラゴンが現れるほど顕著になった。もう限界だ。僕でも現状維持は不可能なんだよ」
「だからこうやって退治して……」
「君は迂闊だ」
業弾が俺の言葉を手で制す。
「傾きの原因は分かっているんだろ? そこが重しだ。そしてそこに向かって世界は傾いている。傾き続けている。そんな重さが加われば……」
言葉を切ると困ったように業弾は笑った。
「すべて潰れる」
全てとはなんだ?
この世界のことか?
それとも……
アルルーシュカ
「そん……な」
俺は痺れる体に鞭を入れ立ち上がる。そしてマオを担ぐと悲鳴をあげる足腰を奮い立たした。
始まりは終わりのたもと
終わりは始まりの軌跡
輪廻は巡り
また繰り返す
どこかで聞いた唄
走りながら振り返ると業弾が手を振っていた。
その顔はお釈迦様のように慈愛に満ちているように感じた。
「僕たちは夢の中で待っているよ。僕はね、君には甘いんだ」
揺れる視界の中で、業弾は静かに消えた。