24 尾行せよ!2
眼が覚めるとすでに障子が仄かな光を受けていた。
太陽が怠惰となり、空気が涼しさを増す季節だ。時計を見るまでもなく寝過ごしたらしい。
「日曜日くらいいいよな」
掛け布団を頭まで引っ張り上げる。それだけの動作で、俺とアルルーシュカの体温で温まった布団内に、涼やかな風が舞い込む。少し乾燥した空気は、アルルーシュカの甘い香りを際立たせた。
「成瀬……。もう7時よ」
控えめなノックの向こうからサキの声が聞こえた。
「ああ。起きてる。適当に何か食べてくれ」
「……なんか怒ってる?」
愛想のない俺に、顔色を伺うように聞いてくる。
昨晩の飯もストライキしたので当然か。
「なんかごめんね。食人鬼の件も任せきりで」
申し訳なさそうな声が胸に突き刺さる。
そんなことじゃないんだ。
サキのせいじゃない。俺の中の問題だ。
ギュッと目を瞑る。こんなことじゃダメだ。やることをやらないで職場放棄とは笑える。今までだって辛いことがあっても、笑顔で仕事をしていたはずだ。
そうだ。これは仕事だ。割り切れ。
「すまん。すぐ起きるからダイニングで待っててくれ」
「……うん。トーストと目玉焼きくらいなら準備しておくから」
気遣うような声の後、少し沈黙が流れ。
そしてスリッパの床を擦る音が遠ざかった。
アルルーシュカに顔を洗わせてダイニングに入ると、少し焦げたトーストの香りが鼻をつく。
見るとちゃぶ台の上には一部炭化した目玉焼きも用意されていた。目玉は潰れて土石流のように流れている。
結婚するなら、少しは料理くらいできないと。
そう思うと奥歯のあたりがキュッと痛んだ。
「文句は言わないでよね! 寝坊した成瀬が悪いんだから」
俺の視線に気づいたのか、サキは目を瞑って顎をあげると、ツンとした表情を浮かべた。
少し耳が赤い。言葉とは裏腹に、自分の料理の出来に恥じらっているのだろうか。
「いや、ありがとう」
「何よ。気味が悪いくらい素直じゃない」
おずおずと俺の顔を見る。
しかし俺は無言でトーストをかじった。なんと声をかけていいのか分からないのだ。
沢木琴音の時は心から祝福の言葉が出てきたのに、だ。
トーストは、口の中の粘膜を傷つけて、そして少し苦かった。
「今日は晩御飯いらないから」
俺の気を知ってか知らずかサキは言った。
「友達と外食するのか?」
嫌な聞き方だ。
サキは少し困ったように眉毛をハの字にすると、少し言い淀む。
「あの人に食事に誘われてるの」
あの人!
クッ。なんだかすでに愛する人を呼ぶような呼称だ。
「あ、あー、一色さんよ。一色さん。成瀬の兄貴分の。あの人すごいモテそうだよね。いかにもなイケメン」
イケメンッ!
ウグッ。肯定しか言葉が見つからねぇ。
「……け、結婚、するのか?」
ためらったが、聞きたくもなかったが、それでも俺は聞いてしまった。
なのに俺ときたら膝を見つめて答えを拒絶している。
恐ろしい。あっさり頷かれたらどうしよう。
そんな思いと裏腹に、出会ったばかりでそんな訳あるものか、と淡い期待もあった。
「え!? なんで知ってるの?」
サキは驚いたように声を上げた。
途端に足元がガラガラと音を立てて崩れていく。
「だ、駄目だ! 晩飯はみんな揃って食べると決めてるだろうが!」
意図せずちゃぶ台を叩いていた。
アルルーシュカが隣でビクッと肩を揺らす。
「な、何よぉ。そんな大きな声あげて。別に成瀬の知らない人でもないし……」
「駄目だ!」
後には引き下がれなかった。悪い癖が暴走し始める。自覚はあった。
「なんでよ! トンさんだってバイトの都合でいないこと多いじゃない! なんか成瀬の言っていることおかしいよ!」
困惑した表情でサキは立ち上がった。
分かっている。俺がおかしいのはよく分かっている。
でも……。
「いきなり結婚だなんて……あんまりじゃないか」
「なんでよ! 祝福できないの!? もういい! 成瀬なんか放っておいてアルルーシュカも行こ!」
そう言うと、心配そうにオロオロとするアルルーシュカの手を取って出て行ってしまった。
「おやおや。修羅場ですか。そうですか」
沈黙が面倒臭そうに横たわるダイニングに、マオの声が白々しく響く。
見るとドアの隙間からニタリとした顔が覗く。
「うっせ」
「なんともまぁ。張り合いがないですね」
呆れ顔で隣に座り、マオは目玉焼きの姿に眉をひそめた。
「今日は一日付き合ってあげますから、元気出すのですよ」
そんな言葉をかけられて肩を叩かれる。
まさかマオに慰められる日が来るとは夢にも思わなかった。
◇
闇に紛れるにはちょうど良い季節。
日の入りも早くなり、世界を青い光が覆う。
「気づかれてないな?」
「そんなヘマはしませんよ。こっちの魔力は隠匿していますから」
俺とマオはサキを尾行していた。
別に結婚を阻止しようと言うわけではない。サキが幸せならそれでいい。と言う程には気持ちは整理されていないが、一色兄さんに言いたいこともあったし、覚悟も聴きたかった。
そのためにはサキと会っている時の兄さんの顔を見たかったのだ。
「面倒臭い人ですね」とマオは言ったが、これは俺の想いを断ち切るための儀式でもあった。
サキは郊外にあるイタリアンレストランに入ると、窓際に座る一色兄さんに手を振った。
「完全に恋人ですね。本当にありがとうございました」
「某匿名掲示板みたいな喋り方をやめろ。ねらーですかコノヤロー」
しかし確かに笑顔で手を振る様はそんな風に見える。
それからもたっぷり二時間近くかけてコース料理に舌鼓をうっていたサキは、本当に楽しそうに兄さんの話に聞き入っているようだった。
「いいんですか成瀬? このままサキがいなくなっても」
「よ、よくねぇよ! でも、サキが兄さんを選ぶなら仕方ねぇじゃねえか。それにあの人、大人だし、懐深いし……」
そんな言葉で自分を納得させる。
「まぁいいですけどね。ナルセがいいと言うなら」
何も言い返せないまま時は過ぎた。
「あっ! 出てきましたよ!」
マオの言葉通り二人が店の外に立っていた。
別れの挨拶でもしているのだろう。
サキが手を振って背を向ける。
「マオはサキを頼む。もう遅い時間だし心配だからな」
「サキュバスに敵う人間なんていないと思いますけど? 本当にナルセは心配性ですね」
「いいから行けよ」
マオは含んだ笑いを見せると、闇に溶けて消えた。
さてここからは俺の時間だ。
そう思って立ち上がろうとすると先手を打たれた。
「いるんだろ? 成瀬」
一色兄さんはタバコに火をつけると、ふうっと空に向けて吐き出す。
「いつから気づいてたんだ?」
「そりゃお前がそこに隠れた時からだ。どれだけ一緒に暮らしたと思ってんだよコノヤロー。お前の行動くらい読めるさ」
「化け物め」
畏怖と同時に、少し嬉しかった。
「でぇ? 何しに来た?」
「結婚……するんだな?」
俺の言葉に少し眉をあげる。
「よく知ってるな。お嬢ちゃんから聞いたのか?」
「ああ。サキのこと、幸せにする覚悟はあるんだな? 俺はそれを聴きに来た」
一色兄さんの正面に立つ。威圧感が半端無い。細い体のどこにそんな力があるのか。
決死の覚悟で立つ俺に、兄さんは一瞬ポカンとした表情を浮かべると、弾けるように腹を抱えて笑った。
「あーあー。ウケるわ。あ、いや、すまんな。ああ、幸せにするさ。で、お前はどうするんだ?」
「俺が聴きたいのは言葉なんかじゃない。男が語り合うっていったら、コレだろ?」
俺は右拳を突き出す。
「昔みたいに、か。いいけどよ。戦歴覚えてんのか?」
一色兄さんは背広を脱ぐと、シャツの袖をまくり上げる。
幼い頃から取っ組み合いの喧嘩をしてきた仲だ。
兄さんが施設を出る時が最後の喧嘩だった。それまでの戦歴は170戦。
「170敗! 俺の負け越しだコノヤロー!」
先手必勝。もう子供じゃないところを見せてやる。
俺は一気に距離を詰めると、拳を固く握った。
◇
俺は夜空を見上げていた。
空気が澄んでいるのに、あまり星は見えない。街の光が無遠慮に星空を覆っていた。
「あぁ。また負けたのか」
身体中が痛む。
あのバカ、少しは手加減しろ。俺は食人鬼みたいな化け物じゃないんだから。
しかし、そんな規格外の兄さんだからこそサキを任せられるかもしれない。そう思うと、少ない星々が滲んで見えた。
頭空っぽのまま見上げる夜空を、すっと影が遮る。
「……バカ。何してんのよ」
サキだった。
俺の顔を心配そうに覗き込む。
ああ、そうか。
やっと気づいた。俺はどうやら膝枕されているらしい。
「ちょっと自分の気持ちにケジメをな。兄さんなら、多分お前を任せられる」
「はぁ?」
「幸せになるんだぞ」
やっと絞り出した言葉に、サキは不思議そうに頭を傾けた。
「ウケるわぁ。まだ気づいてねぇの?」
兄さんの顔がヌッと視界に現れる。
「あ? どういう……」
「俺は結婚するよ。確かにな。しかもお前のよっく知ってる女性だ。でもこのお嬢ちゃんじゃねぇ」
「は、はぁ?」
意味がわからなかった。
「あのねぇ。一色さんの結婚相手は、成瀬がいた施設の保母さんよ。聞いたわよ。その人が成瀬の初恋の相手なんだってね」
「え!? はぁっ!? ちょ、ちょっと待てよ」
上半身をやっと起こすと、兄さんとサキは口元に手を当てて頬を膨らませていた。爆笑寸前だ。
「まぁいい。笑わせてもらったからな、俺はもう帰る。話はお嬢ちゃんから聞けよ。それとな」
ひとしきり笑うと兄さんは背広を拾って背を向けた。
「これは真面目な話だ。二年間行方不明だった少年が保護されたニュース、聞いてるか?」
「あ、あぁ。なんかそんなことあったな」
随分前にテレビニュースでやっていた気がする。意味不明の事を話しているとかどうとか。
「自分は異世界に行っていたとか、そんなわけわかんねぇ事を言ってたんだがな。お前らと会って合点がいった。それはまぁいいんだが、問題はその少年が入院先の施設から姿を消したんだ。もしもって事もある。気をつけろよ」
真面目な声で言い終わると、「じゃお大事にぃ」とニヤリとした横顔を見せて兄さんは歩いていった。
「成瀬ぇ」
「は、はい!」
「何か言うことがあるんじゃない」
鼻と鼻がくっつきそうなほど顔を近づけてくる。
スッと通った鼻筋にシワが寄っていた。怒っていらっしゃる。
「お、お前だって。何がどうなってんだよ!?」
「はぁー。本当にバカ。一色さんはね、自分は結婚して守るものが増えるから、成瀬のことを頼んだって私にお願いしてきたの。もうあまり構ってやる事も出来なくなるからって」
「はぁぁ!?」
間抜けな声が漏れた。
完全に俺の勘違いだったのだ。
「でね、その、あの、成瀬の初恋のこととか、私が知らない成瀬の事を聞かせてくれるから、それで……」
言い淀むと、サキは俺の首に両手を回した。
ふっと爽やかで、少し甘い香りが漂う。
「なに勝手に勘違いして、勝手に諦めてんのよ。バカじゃない」
顔は見えないけれど、声は震えていた。
「そうだな。俺は本当にバカだ」
俺はサキの頭を抱きしめた。
痛みで身体が動かないから、少しこのままでいても神様は許してくれるだろう。
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