22 白馬に乗った王子様3
暗闇が覆う部屋に一筋の光が差し込む。
「何の用だ? 呼んだ覚えはないぞ人間」
魔王はうっすらと目を開き、逆光になった人影に声をかけた。
「呼ばれた覚えもねぇよ。クソガキ。ったく。暗ぇ部屋に引きこもって何してんだか」
成瀬は無遠慮に部屋に入ると、足元に乱雑に積み重ねられたガラクタを蹴飛ばしながら魔王に近づく。
警戒心もなく馴れ馴れしい姿に魔王は内心舌打ちをした。
成瀬に対してではない。この男に好き勝手させてしまっている自分に対してだった。
なんという不甲斐なさだろうか。
「さっきの話、聞いてたんだろ?」
「なんのことだか知らんが出て行け。ここはお前のくる場所ではない」
「けっ! コソコソ聞いてたクソニートが偉そうに何言ってんですかね」
「何が言いたいのだ?」
食ってかかる元気もない。
元魔王の少年の瞳は澱んでいる。曇っている。猜疑と不信と怒りと屈辱とで。
「お前の世話をしてくれてたあの娘……ええと何だっけか? サキュ……サキでいいか。サキに感謝の一言でも言ったことあるのか?」
「何を言い出すのかと思えば。感謝? 感謝とは何だ。それは目下の者が抱く感情ではないか。余には必要ないものだ」
魔王たる自分は他者を使役して当たり前の存在。感謝などと、愚にもつかない。
「貴様は呼吸のたびに大気へ感謝の祈りでも捧げているのか? なかなか忙しい生き方だヘブッ!」
脳天に衝撃を受けて魔王の嘲笑は途中で途切た。
「痛っ! 貴様何をした!?」
顔を上げた魔王の鼻先に長大な剣の鞘が突きつけられる。
「そ、それは……もしや」
「あぁ、これな。なんか知らんけど勝手に還った勇者が置いていった聖剣だとよ。業弾のおっさんが、お前を躾けるにはこれが良いって言っててな。ちょっと拝借した」
形は違えど一目で気づく。それは忌々しくも聖なる光を帯びた武具。かつて自分を死に追い詰めた人間の最終兵器であった。
「なぜそんなものが!?」
神聖なる神殿でもなく、迷宮深くに封印されているわけでもなく、なぜ小汚いボロ館にあるのか。
そう口を開きかけたところで、また頭を軽く小突かれる。
「で、聞いてたんだろ? 聞いてお前は何も感じなかったのかよ」
「……しるかよ」
「あぁ?」
確かに聞いていた。
別に心配したとか、そんか愁傷なきもちではない。信用できなかったからだ。
自分のいない場所で、実は人間と結託しているのではないか。自分の首をみやげに、愚鈍な人間どもの軍門にくだろうとしているのではないか。
今の自分の価値など、それくらいしかないはずだ。
統べる国もなく、魔力も失った自分に何があると言うのか。
なぜサキュバスは自分に従っているのか分からなかった。
薄気味が悪かった。不気味だった。理解ができなかった。
だから論理的な理由で納得したかったのだ。
例えそれがかつて味わった側近の叛逆と同じであろうとも。
「あぁ聞いていたとも。それがどうした?」
そうだ。どうした?
お前は、余はあのサキュバスの言葉を聞いてどう感じた?
マオはイラついていた。あのサキュバスの言葉を聞いてから心がざわつく。その原因がわからず更に混乱した。
「訳がわからぬ! 今の余を助けて何になる!?」
「んなことは自分で聞けよ。壁に耳あり障子にメアリーじゃねぇんだぞ。こそこそ聞き耳立てるくれぇならよ。俺から見たらお前ら二人とも気持ちわりぃ共依存だ。ただよ、大切に想われてることくれぇは信じてもいいんじゃねぇか?」
成瀬はしゃがみこんで自分と視線を合わせる。ひどく鬱陶しい。ボンクラのようにしか見えない癖に、ときおり見透かしたような表情を浮かべるのが癇に障って仕方ない。
「他人を信用するのは弱者のすることだ」
力がないから他人を信用すると言いながら利用するのだ。詭弁もいいところだ。
そう言い放ちたかった。力強く。しかし自分の口から出てくる言葉は、細く脆く幼い駄々っ子のようだった。
「いいんじゃねぇか? 弱いんだから。それにな、人を信用できない奴は、人からも信用されないぞ。もしサキから本当に信用されたかったら、お前もちっとは信用してみろ」
そう言い残して成瀬が去った後、マオは思い出していた。
炎が舌舐めずりするかつての玉座の間を。
偽物だらけの砂上の楼閣で、今にも絶命と消滅を目前にした時、差し出された手のひらを。
◇
翌日サキは組事務所に連れられてきていた。いつものように放課後に校門を出た瞬間だ。ほとんど拉致といっていい。
偶然居合わせた体育の教員と目があったが、彼はふいっと視線を外した。そういうところは元の世界と同じで、サキは同情すれど非難する気にはならなかった。
どこの世界でも人はより強いものには勝てないのだ。
「そう硬くならないでくださいお嬢ちゃん。昨日よりももっといい仕事を持ってきたんですよ」
顎が尖った狡猾そうな痩身の男が目の前に座る。取り巻きの姿勢を見るに、おそらく彼がこの組織のトップであることは容易に想像できた。
元の世界でも最も警戒が必要なタイプの人間だ。
「さ、その書類にサインしてください。それで貴女の慰謝料は帳消しです」
そういって差し出された紙切れには『契約書・誓約書』と記されている。
「これは?」
「なに、これだけの器量ですからね。風俗に沈めるにはもったいない。海外ではね、当たり前に人を売買しているのです。君をオークションに出品します」
「人を売買……」
奴隷みたいなものだろうか。
元の世界では人間は人間を売り買いしていたという。
「そう怖がらなくてもね」
男はくっくっと笑うと目を細める。
「別に変態行為が目当ての客ばかりでもなくてね、美しいものを飾っておきたい、なんて酔狂な御仁もいらっしゃる。そういう方に買ってもらえたらいいですね。おい、やれ」
最後の号令に合わせてサキの隣に座った男が万年筆を握らせようとする。
しかしサキは手のひらを開かなかった。
「この女なんて力だ!?」
「無理です。できません!」
力任せにサキの指を開こうとする屈強な男を無視し、目の前の痩身の男を睨みつける。
「お金は時間かかってもどうにかします。だからその仕事も、いままでの仕事ももうできません」
「ほう。そんな勝手が許されると思っているのですか?」
「許してもらいます」
サキは視線を晒さない。
「若頭! この女指を開きません!」
痩身の男は顔を充血させて奮闘している組員を一瞥すると、「仕方ないですね」とため息を漏らした。
「構いません。連れて行きなさい。サインなど誰かに書かせばいいですからね」
もう興味ない。
そんな感じに男が立ち上がった時だった。
階下から男の叫び声が響く。
「なんだお前! どこのもんだ!?」
そんな怒号が聞こえた後、何か硬いものでも砕くような破壊音とともに壁が振動し、すぐに無音になる。
「何事ですか?」
「見てきます!」
慌てて飛び出した構成員は、数秒後には事務所に戻ってきた。
ただし招かざる客に顔を掴まれた状態で。
「あー、いたいた。帰っぞサキ」
客は掴んでいた男をテーブルに放り投げると、その手をサキに差し出す。
「何であんたが!?」
いつものように飄々とした表情で現れた成瀬にサキは言葉を失った。
ここが普通の人間にとって危険な場所だということは一目瞭然だ。常に高圧的で攻撃的な体育教師ですら尻尾を巻くほどなのだ。
「なんでこんな場所に来たのよ!」
「悪いお友達から大事な家族を連れ戻すために決まってるじゃねぇか。わざわざ迎えに来たんだから、ありがとうお兄ちゃん! ってくらいサービスしろよ。気がきかねぇな」
なんと言えばいいのだろうか。
サキはぽかんと口を開いたまま固まってしまう。そのサキの目の前を組員が横切って成瀬に掴みかかった。
「てめぇ! どこのもんだコラァァ!」
組員の手が成瀬の胸元に触れようとした瞬間、成瀬のゴツい指が不幸な男の喉を掴む。
「どこのもんかだと?」
成瀬が力任せに男を壁に叩きつけると、上半身から石膏ボードを突き破り巨体が隣室に転がり落ちる。
「俺は異世界荘の管理人さんだバカヤロウ!」
しかし相手も暴力のプロだった。その時には成瀬の周りに十数人の包囲が完了していた。
「おい。どうせいるんだろマオ。いいところを見せるチャンスだぞ」
ニタニタと笑いながら組員たちを見渡す。
しかし成瀬の声になんの反応もない。
「え!? ウソ! いないの? あのヤロー」
素っ頓狂な声を上げる成瀬の影が不意に盛り上がり、一瞬で人の形に3次元化する。
「いますけど、マオって誰ですか?」
「なんだやっぱいるんじゃねぇか! お前の食費をピンハネしてた奴らだ。好きにしろ。だだし殺すなよ」
「心配しなくても一撃で殺すほどの魔力はまだありませんよ」
マオは心底残念そうにうそぶく。
「しかし余の大切な部下をいたぶってくれた御礼は、死にたくなるほどの痛みで許してあげますよ」
淡々とした表情で指をパチンと鳴らす。
それがすべての合図となった。
突然事務所の床に黒い炎を放つ魔法陣が姿をあらわれる。成瀬が時間を稼いでいる隙にマオが準備したものだった。
「な、何だこれは!?」
理解不能の現象に驚愕する組員の何人かはその魔法陣の上に立っていた。
「地雷ですよ。痛覚のみを死ぬ直前まで刺激するものです」
わけもわからず魔法陣から離れようとする者たちもいたが、すでに遅い。
まるで電撃が体内を走り抜けたかのように一瞬で硬直したまま卒倒する。叫び声をあげる暇も与えられなかった。
「はぁ〜。あれだけ準備してこれとは……我ながら情けない」
「ぼさっとすんなコノヤロー!」
肩を落とすマオに掴みかかろうとする男を成瀬が殴り倒す。殴り飛ばすというより、全身の力を込めて地面に殴り倒す。技術や武術ではなく、単純で圧倒的な暴力だ。
成瀬の身体が右に左に揺れるたび、次々と人間が木っ端のように吹き飛んでいく。
だった一瞬の間に、早くも五、六人が成瀬の周囲で倒れ床とキスをしていた。
「なるほど大したものですね。喧嘩屋成瀬の異名は伊達ではないというわけですか」
痩身の男は壁にもたれかかって拍手をする。
その目は成瀬など見向きもせず用心深そうに辺りを見渡していた。
「てめぇ昔の俺のこと知ってんのか?」
「君のことはどうでもいい。それよりも今日はあの化物は一緒じゃないのですか?」
男が気にしていたのは、かつて暴力の世界で恐れられた一色という男の姿だった。
「いないなら飽きたのでもういいです。さあ皆さん仕事してください。パパンとね」
言うなり懐から拳銃を抜く。黒光りする銃口が淀みなくピタリと成瀬に向けられた。
周りの組員も同時に構える。まるで訓練された軍隊のようであった。
そして恐ろしいことに、警告などなしの一斉射撃が始まった。
発砲音もしない。
ただ空気を震わす衝撃波と窒素酸化臭が狭い空間に広がった。
逃げられるはずはない。
そう確信した男は死体処分を指示して部屋を出て行こうとした。出て行くはずだった。
「な!?」
組員たちのざわつく声に振り返る。
黒い塊。
男が最初に認識したのはそれだ。
しかしそれは錯誤である。
男が見たものは、成瀬とマオを護るように広げられた黒く大きな翼だった。
「な……んだ、それは?」
サキはサキュバスの翼を広げ二人を銃弾から護っていた。
さしものの拳銃も魔族たるサキュバスの翼を傷ひとつつけられなかったようだ。
しかし男は最後まで真実を知ることはできない。
翼の影から飛び出した成瀬に、渾身の一撃を叩き込まれたのだ。首から上が弾け飛んでも不思議ではない。そんな一撃を受けて立ち上がれるはずもなかった。
「さて、最後の仕上げですよ」
若頭を殴り倒されて唖然とする残りの組員を見回すと、マオは小さな指をひと鳴らしした。
「何で来たのよ!」
サキの第一声は彼女にとってもっともだ。
強制送還を回避するために悩み、何とかしようとした彼女の行動は、見事に成瀬とマオに殴り壊されたのだ。
「こんなことして! 魔王様と私、あの世界に帰らなきゃいけないんですよ!?」
「あー。よくわからんが、こうすればよくね?」
全身で抗議するサキを尻目に、成瀬は倒れている暴力団員を次々と殴ってまわる。死体蹴りもはなはだしい。
「ほら、これでこいつらやったのは俺だ」
「そ、そう言う問題じゃ……」
「それにこいつらも立場ってもんがある。一般人の俺たちにやられて周りにふれまわることはできねぇよ。あとは……ほれマオも手伝え」
成瀬とマオは倒れた男たちを二組に分けると、しっかりとその手に拳銃を握らせた。
「ふぅ。これで組仲間で喧嘩したことにできる!」
「ナイスアイディアですね!」
成瀬とマオはいい汗を拭きながら握手をする。
「アホなの!? なんかすごいスポーツでいい汗かいた的な流れなんだけど!?」
思わず突っ込んだサキだったが、鼻の奥がツンとしていた。
「あ、あれ? 何で?」
サキのまるい頬に涙が伝う。
自分でもよくわからなかったが、それは緊張が溶けた安心という名前の雫だった。
「サキ……」
「な、何よ。というか誰よサキって。あんたに名前なんて言ってないんだけど」
咲嶋サキ。それが学校に通う時につけた名前だった。
「なに当たっちゃった? 安直だねぇコノヤロー」
「うるさいわよ!」
「でも助かったよサキ。護ってくれてあんがとな」
握手のために差し出された成瀬の手を、サキは「ふん!」と頬を膨らませながら拒否した。それは照れのためか、成瀬の生命力を奪わないための心遣いか。それは本人にも分からない。
だからありがとうを素直に言えなかった。これはいつか言える時まで大事にしておこう。
そうサキは思った。
「というか! 魔王様どうしました、その喋り方?」
「あぁ、これはですね。あー、えぇと」
まるで言い訳を探すように目をクリクリと回すと、
「この世界の悪人の喋り方を真似しようとしてるだけですよ。その方が支配した時にいいでしょう。あと余のことはマオでかまいません」
「そんな……」
「王と言っても家臣もいないですし。裸の王様なんてまっぴらです」
そう言うと鼻の下をこすりながらそっぽを向く。
「終わったか? 腹も減ったしな、そろそろ家に帰って飯にするぞヤローども!」
「で、でも見たでしょ? 私は魔族でこの世界じゃ普通じゃないの……よ?」
次第に消え入るようなサキの声に、成瀬の笑い声が重なった。
「ウケる! あんなのはふつうだ。よっぽど俺の兄貴分の方がイカレてる。さ、帰るぞ二人とも。何が食いたい?」
さっさと歩き出した成瀬にマオが元気よく叫んだ。
「肉ですね!」
◇
サキたちがファストフード店から出るとすでに街灯も灯り始めていた。
「まぁなんかよく分からなかったけど、サキが惚れっぽい夢見がちな少女だと言うことはわかったわね」
親友はそう言って笑ったが、あながち間違いではないかもしれない。命の軽い異世界では、生きているうちに恋をして、命を育む必要がある。だから惚れっぽいと言われればそうなのかもしれなかった。
「でもでも! 誰でもいいわけじゃないもん!」
不貞腐れるサキの声に、自転車のキキッという停止音が重なった。
「おー、サキじゃねぇか。ちょうどよかった。今日戦利品が多くてな、ちょっと手伝ってくれ」
偶然通りかかった成瀬だった。
スーパー盛りの買い物袋を、スレイプニルのカゴに山盛り積み込み、入りきらなかったのか左手にも下げていた。
ママチャリに乗った姿はひどく所帯染みている。
サキは吹き出しながら親友にウインクして見せると、
「ね。白馬に乗った王子さまって感じじゃないでしょ?」
と言って成瀬に駆け寄る。
「後ろ乗せてよ!」
「ああ? いいけど袋は持てよ?」
「やーだー」
「はぁ!?」
「絶対やーだー」
澄み渡った秋の夕暮れに、少女の声が響き渡った。
やっつけごめん