21 白馬に乗った王子様2
成瀬という男に耳をひっぱられてなすすべなく部屋を連れ出される魔王を、サキはただ呆けたように見つめるしかなかった。
「離せ! 離さぬか無礼者!」
しかし金切り声をあげる幼い魔王の声で我にかえる。
危険を告げる警告音が脳内に響きはじめていた。
たかだか人間の、それも見知らぬ異世界人の礼を失した行為を魔王様はお許しにならないだろう。あの男は間違いなく殺されてしまう。
目の前の男が無残な死屍となるのは仕方ない。しかしそれで元の世界に強制送還されたら……。血の気が引くのをサキは感じていた。
しかしすでに遅い。
魔王の口からこの世界のものではない言語が高速で放たれる。それに呼応するように周囲の空間がぐにゃりと歪む。
すかっ
不気味に口を開く地獄の門。しかし気の抜けたような空砲を鳴らしてあっさりと咥内を閉じた。
「あ? なんだ? お前屁でもこいたか?」
「なんたることか!? 魔力が決定的に足りておらぬ!」
振り返った成瀬を魔王は口惜しげに睨む。
「肉が足りぬ血が足りぬ! ほんの僅かでも魔力があれば、貴様など灰燼に変えてくれるのに!」
魔王の悲痛な叫びにサキは少しだけほっとしていた。
魔力とは体内エネルギーの結晶だ。著しい体力の低下と精神疲労、そして充分ではない食事が魔王の魔力を根こそぎ奪っていたのだ。
強制送還の危険はひとまず去った。
平らな胸をなでおろしながら、サキは引きずられてゆく魔王の後を慌てて追う。向かった先は管理人室の隣。
ゴミの山で埋め尽くされていたその空間は、見違えるほど清潔な部屋となっていた。
それよりもサキが驚いたのは。
部屋の中央。六人は囲めるテーブルに見たこともない料理が肩を寄せ合っている。
「あのドレッドのおっさんから聞いたぞ。ろくなもん食ってねぇんだろ? とりあえず黙って食え」
カレーのスパイシーな芳香が鼻をくすぐる。その隣には黄金色に揚げられたコロッケとアジフライ。どれもサキにとっては作り方もわからない料理の品々だった。
「だ、誰があんたの作ったものなんか!」
さっそく座り込んで箸を掴む成瀬を睨みつける。
人間の作る料理など、何を入れられているのか知れたものではない。人間は狡猾だ。力が弱いぶん頭を使う。
「べっつに変なものは入れてねぇぞ。俺も食うし」
見透かしたような顔で成瀬はアジフライにかぶりつく。
サクリと小気味いい音が食欲を刺激したのか、
きゅーーーっ
サキのお腹から可愛らしい音が静かな部屋に響いた。
「なんだよ。お前も腹減ってんじゃないですかコノヤロー」
「サ、サキュバスよ……」
「待ってください魔王様! べ、別に腹など減ってはありませんが、私が毒味をいたしますゆえ!」
顔を真っ赤にさせながらしどろもどろに言うと、サキは成瀬から一番遠い場所に座って料理を品定めする。
それを横目で見ながらも、成瀬は無言で飯をかっくらいはじめた。
それでも成瀬の挙動を警戒しながら、サキはスプーンにひとすくいカレーを口に運ぶ。
衝撃だった。
衝撃的だった。
口に入れた瞬間に舌を刺激するスパイス。しかし攻撃的であるその味覚は、途端に甘みを孕んだ空気となって鼻から抜ける。そしてそれらが去って初めて気付く酸味。
脳が混乱する。
強かに打ち付けられているのに、同時に優しく愛撫されているような錯覚におちいる。
気付くともうひとすくい。
さらにもうひとすくい。
手が止められなかった。
「お、おいサキュバスよ……」
「ふぁおうひゃま! びむぃでわりあす!」
「口の中のものを飲み込んでから喋れよバカヤロー。あーー、米がとんでるじゃねぇか。掃除するの俺だぞ?」
急いで飲み込むとサキは魔王の手を引いて部屋の隅にそそくさと移動する。
「ま、魔王様! 美味しかったです。多分毒は入っておりません」
「そ、そうか? というか余は味とかはどうでも……」
「ほら! 魔王様も!」
魔王を無理やり座らせると、サキは甲斐甲斐しく世話を焼く。それを成瀬はほおづえをついてただ眺めていた。
こうして初めての三人での食事を終えると、成瀬はサキに買ってきた鳥の胸肉を取りに行かせた。
「せっかく働いて買ったんだろ? なら美味いもの作りたいだろ?」
ということらしい。
「いいか、胸肉はパサついて固いイメージがあるけどな、料理次第でどうとでもなる」
サキを隣に立たせて手際よく調理にはいる。
まずは皮をむいて砂糖と塩をまぶす。
「でこの状態をラップで包んで半日置くわけだ」
そんなにもかかるなら今できないだろうとサキは踵を返すが、襟首を成瀬に掴まれる。
「で、半日置いたやつがこれだ!」
「はあ!? それもう私が買ったものじゃないよね!?」
「うるせぇよ。こまけぇこたぁいいんだよ。で一度流水で塩を洗い落としす。これをしないと辛くていけねぇ」
洗い終えた肉をラップの上に置き、ハーブソルトとブラックペッパーをふりかける。
「んでラップで包んでキャンディみたいに形を整えたら……」
「キャンディ?」
「飴ちゃんだ」
「??」
首をひねるサキに出来上がった形を見せる。ラップの両はしをねじって棒状のようになっている。
「そして沸騰したお湯に入れたら火を止め、余熱で数時間火を通したらトリハムの出来上がりだ」
「そんなにもかかるの?」
「ああ。で、出来上がったのがこれ」
「出来てるなら作る意味ないわよね!?」
突っ込むサキに成瀬はニヤリと笑って「食ってみるか?」と言う。
「ま、まずは魔王様に献上を」
トリハムにマヨネーズをつけて魔王に差し出す。
どうせ固いのだろうと眉を顰めていた魔王は、嫌々ながらも一口かじる。
「柔らかいぞ!?」
途端に金色の目が子供のように輝く。
「へっ。そりゃそうよ。強い火にかけ過ぎないのがコツだ」
少しだけ警戒が緩んだのか、魔王はフォークをぶきっちょに握ると野菜を除いた料理に手を出し始めた。
そしてそれをサキは複雑な気持ちで手伝う。
自分自身でもよくわからない感情が湧いている。
魔王様が嬉しそうに食べてくるているのは嬉しい。しかし、その反面なぜか足元がグラグラと揺らぐ気もしていた。
そしてさらに追い討ちが襲う。
「これからは毎日一緒に飯を食うからな。ガキと女の子を飢えさせたら俺の名折れだ」
サキの気持ちも知らず、成瀬は高らかに言い放った。
「同じ屋根の下で暮らして、同じ釜の飯を食うんだ。俺たちは今日から家族だコノヤローども!」
◇
食事を終えるとサキと魔王は部屋で成瀬という人間を値踏みしていた。
「どう思いますか?」
「所詮人間だ信用はならん。しかし利用価値はある」
魔力のない魔王はただの子供だ。
元の世界のことを考えると部屋を出るのは危険に思えた。殺し合い化かしあいの世界。無力は罪で無慈悲にあがらう術はない。
だからサキが働いて食い扶持を稼いでいるわけだが、成瀬なる男は使える。
「奴の方から食事の世話をしたいと申し出てるのだ。うまく使ってやろうではないか。サキュバスよ、お前も働く必要はあるまい。常に余の隣におればよい」
「……はい」
嬉々とする魔王に反して、サキの歯切れは悪いかった。
仕事先のことを考えると、おいそれと逃げ出せるとは思えなかったのだ。
そしてその心配は翌日現実のものとなる。
サキは業弾に強いられて学校に通っている。
「だってそうだろ? どう見ても10代半ばのサキュバスちゃんが、平日の昼からフラフラしてたら問題だよね」
ニタニタと軽薄に笑う業弾の横っ面を殴りつけてやりたかったのだがそうもいかなかった。抗ってもろくなことはない。
そうして近隣の公立高校の制服に身を包んでいるサキだが、校門を出たところで男に声をかけられた。
「迎えに来たよぉ。高校はわかってんだ。逃げられねぇよ」
チャラチャラとした男だ。しかし眼光は鋭く、一般人には到底見えない。
「……もうあそこで仕事はしたくないんだけど」
「ダメダメ。ちゃんと慰謝料稼いでもらわないと」
男は馴れ馴れしくサキの肩に腕を回す。
このままへし折ってくれようか。
何度思ったことだろう。
サキは騙されていた。
田舎娘が都会で騙されるよりも簡単に。
業弾の置いていった求人誌からサキが選んだのは割りのいい仕事だった。だったはずだ。1時間客にお酌をするだけで3000円もらえる夜のお仕事。
サキュバスの世界のように、煌びやかなドレスを見にまとい夜の世界に羽ばたく。
しかしただつまらない話を聞いてお酌をすれば、当面の生活はできる。
つまりはキャバクラなのだが、そこは某大手組関係のシノギの場所だった。
そして事件は当然のように訪れた。
客に体を触られたサキは、考えるより先に拒絶反応と条件反射で反撃してしまったのだ。
しかも相手が悪い。同じ組関係の幹部だったのだ。そして驚くべき金額の慰謝料を請求され、稼ぎのほとんどを搾取されている。
鳥の胸肉さえ、魔王の一人分しか買えないほどに。
「でも! どれだけ稼いでもあんな金額無理じゃない!」
「だからさぁ、新しい仕事紹介するよ。超上玉なんだから、良い値がつくさ」
男は黒塗りのVIPカーにサキを乗せると、舌舐めずりしながらハンドルを握った。
◇
午前の鐘の音も残響すら消え失せ、ひっそりと静まる夜の美観地区をサキは走っていた。
夏も近いというのに寒い。
全力で逃げ出したというのに血が冷える。
「なんなのよ……私が何したっていうのよ!」
息を切らして立ち止まり、思わずしゃがみこむ。膝を抱えてもなお体が震えた。
連れていかれた先はよく知った雰囲気が支配していた。
逃げ出したくて駆け出したくて。死を前にしてやっと抜け出した運命の螺旋。しかして螺旋はぐるりと廻り、サキの前に再び広がった。
これから体を売ろうとする女たちの待合所。それがサキが連れていかれた場所だった。
死んだ魚のような目をした女たちが、狭苦しい水槽の中で浮かんで死んでいた。
きつい香水の香りと、淫靡な重苦しい芳香がとてつもない水圧で濃縮された部屋。
よく知った世界だった。
思わず吐き気がして、口を押さえながら男の制止を振り払って逃げ出した。
男は特に追うようなそぶりは見せなかったが、すれ違いざまに「また明日ね」と唇を蠢かせた。
「はっ、はっ。……そうだ。魔王様の食事を……」
金もなければ開いている店もありはしない。それでも踵を返そうとしたサキだったが、自分でも驚くほど乾いた笑いが不意に漏れる。
「あはっ! あはは! いらないじゃん。もうあの男が魔王様に食べさせてるはずだし。いらないじゃん。……もう私」
膝に顔を埋めると、瞳からこぼれた暖かい雫が足を伝った。
「私……もういなくていいんだ」
「何を阿呆なこと言ってるんですかねコノヤローは」
知った声はとても低音で、夜の闇にはほとんど響かない。
顔を上げると息が触れるほどの距離で成瀬がしゃがみこんでいた。
「若い女の子が何て時間に帰宅だよ。心配させんなバカヤローが」
「別に心配してほしくなんてない」
「あーーそうですか。でも家族なんてぇのは、勝手に心配したりすんだよ。知らねぇのか?」
「知らないわよ」
ぶっきらぼうに返す言葉に、成瀬は「俺もシラネ」と鼻を鳴らして笑った。
「とりあえず帰っぞ。茶漬けくらいなら作ってやる」
そう言って夜の観光地を歩き始めた成瀬の背中を、ほとんど自然に、否応なくでもなくサキは追って行った。
用意されていた茶漬けは、梅干しだけのとてもシンプルなものだったが、心地よい酸味が胃を癒してくれた。
それに管理人室のお風呂は湯船が張ってあり、久々にサキは肩まで湯に浸かることができたのは嬉しい誤算だった。
各部屋にはトイレもなければ湯船もない。簡易な後付けのシャワーが設置してあるだけなのだ。
しっかりと長風呂をし、カタカタと音がする扇風機の前で膝を抱える。
気は晴れないし気分も晴れないが、張った緊張の糸は幾分か緩んだようだ。
「……ねえ?」
サキは何も言わず爪を切っている成瀬に声をかける。
「あ?」
「何も聞かないの?」
「聞いてほしいのか?」
「少し……だけ」
切り終えた爪を捨てながら成瀬は綿棒をサキに渡す。
「ちゃんと聞くから耳掃除頼むわ。膝枕でな!」
「突き刺すよ」
「ちっ。優しさの成分が足りないわー。んで?」
名残惜しそうに綿棒を眺めながら成瀬が言う。
どこまで冗談でどこから本気なのかわからない男だ。それでもその飄々とした雰囲気が、今のサキにはありがたかった。
「私ね、サキュバスなのよ」
「あーー、それ聞いたな。で、それ何よ? 成瀬さんが何でも知ってると思うなよ!」
「知らないのに威張らないでよ。サキュバスはね、男と、その、えっと、ナニして殺すのが仕事みたいなものなのよ」
そしてサキはポツリポツリと元の世界の話をした。その間成瀬は「ほー」とか「へー」とか気のない相槌をつきながらほとんど一方的に聞いてくれた。
「で、結局何が言いたいんですかねコノヤローは」
「だから! サキュバスの私はサキュバスから逃げられないって言ってんのよ! 馬鹿なの!? 死ぬの!?」
「は? 何言っちゃってんの? 逃げればいいじゃん」
「え?」
当たり前のように言う成瀬の言葉を聞き間違ったのかと思った。
「逃げればいいじゃん。逃げろよ。つーかな、運命とか、んなもんねぇから! 嫌なら投げ出せよ。助けが欲しいなら助けてって言えよ」
「だって! そんな……」
自分でも驚くほど狼狽えていた。揺さぶられていた。
私は肯定して欲しかったのだろうか。それともこの男のように否定して欲しかったのだろうか。
もう頭がゴチャゴチャで訳がわからない。
「俺の知った人でな、結局全てを背負い込んで最悪な逃げ方をした人がいんだよ。いや、もしかしたら助けて欲しいって言葉にせずに言っていたのかもしれねぇ。でも俺は彼女のサインに気づかなかった。気付いたのはどうしようもなく全部終わってからだ」
誰のことを言っているのかはわからないし、サキには関係のない話だ。しかし目の前の男の声はサキの魂を握って離さなかった。
「最悪の逃げはダメだ。悲しすぎる。だからさ、最良の逃げ方をしたらいいんじゃねぇかな? お前には魔王だっけ? あぁもうマオでいいや。マオもいるし俺もいる。頼る相手はいるんだからさ。あ! でも言っておくが金はねぇぞ! どうしてもってんなら、ご、500円までなら貸したる!」
ドヤ顔で胸を張る成瀬の姿に、思わず吹き出しそうになる。しかし。
「魔王様は……。食事はあんたが用意するし、もう私の役割なんてないんだけどね」
サキュバスとしても逃げ出し、魔王様の側近としても役目を終えた。今の自分は存在する価値すらない。
「はぁ? この馬鹿娘は何を言っちゃってんだか。家族に役割なんてねぇだろ。俺は多分兄貴でお前はマオの姉さん。それでいいんじゃねぇの?」
「そ、そんな! 魔王様の姉など恐れ多い」
「今までお前が面倒見てたんだろ? あのこまっしゃくれたクソガキの。なら姉みてぇなもんだろうが?」
言葉も出ないサキに成瀬はニッと笑うと「さて、デザートも用意してたんだ。食ったら歯ぁ磨いて寝ろよ」と言う。
そしてシフォンケーキをつつくサキからバイト先の名前を聞くと、「なるほどな」と片方の口角を上げた。
側から見ると随分と物騒な笑い方だった。
今週はいつも通り、月水金更新です