2 異世界荘へようこそ
時は平成。
岡山県倉敷市のはずれに、美観地区と言う景観保護区域がある。
江戸時代から受け継がれる漆喰木造建築が建ち並び、古き良き時代を今に残すエリアだ。
柳の植栽された川を挟んで、いく通りもの街道が走り、その両脇にはお土産屋や飲食店が軒を連ねる。
ここは文明開化の雰囲気を残した有名な観光スポットでもある。
町家と明治時代の異人館が所狭しと肩を寄せ合う様は、懐古厨の琴線に触れることは間違いない。
そんな白壁の町にひっそりと、にもかかわらず威風堂々と鎮座する下宿屋がある。
無数に点在する脇道のひとつ。蓮の花をモチーフにした看板が立て掛けられた角を曲がると、人がなんとか対向できる程度の細い脇道が現れる。
猫が昼寝でもしていれば様になりそうだが、残念ながらそんな気の利いた生き物などいない。
そもそもの話だが、およそ地球上で進化した生物が、この下宿屋に向かうだけの脇道を通る道理がないのである。
なにせこの下宿屋、名を【異世界荘】という。文字通り異世界から地球上に迷い込んだ異邦人が住む、唯一無二のアパートメントなのだ。
実際のところ異世界荘へ通じる脇道は、一般の地球人には感知できないらしい。
ご丁寧にも結界が張られているらしく、適正者にしか気づくことができないという。
なんとも羨ましい話だが、残念ながら俺にはキッチリ見えちゃっている。奥ゆかしさの欠片もない。幽霊のように見える人には見える、という類のものであるらしい。
霊現象がそうであるように、世の中知らない方が幸せな事もあるが、間違いなく異世界荘の存在はその一例だろう。
異世界荘の管理人という閑職に、齢二十六という若さで転職してしまった俺は、朝の掃除を終わらせ建物を見上げた。
まるで人をおちょくっているかのような建造物だ。
住んでいる俺自身も把握できていないが、外から見るには、高さはおそらく五階建てに相当する。
土台は日本建築の様だが、かたや中華風、あるところでは煉瓦造り、上層ではローマ風も見受けられる。
和洋折衷と言えば聞こえは良いが、もはやごった煮状態だ。オーナーの正気とセンスを疑わずにはいられない。
元の形がわからないほど増改築を繰り返した様は、四方八方に伸びる蓬髪のようでもある。
一見すると、今は亡き九龍城を彷彿とさせ、中二病を刺激して胸が踊る。
しかし二見もすれば、そのあまりの存在の危うさに胸が高鳴る。不整脈的な意味で。
これ、建築法違反で捕まるの、もしかしたら俺じゃね?
荒唐無稽な建物の一部分は空中にせり出し、見事にオーバーハングしている。
柱もなく宙に突出した部屋は、いったい何に支えられて存在するのか。
不安に駆られるが、あまり深く考えると、ここの管理人は務まらないことをこの三週間で俺は学習していた。
「成瀬ーッ! マオがまたトイレから出てこないの。あんた管理人ならなんとかしなさいよッ」
ちょうどせり出している部屋の窓が荒々しく開き、朝の蒼穹に少女の声が響いた。
近隣にある公立高のセーラー服を着た少女が顔を出す。
「あぁ? あのなぁサキ、なんで管理人が住人のシモの世話までしなきゃならんのよ。お前にゃ俺の手のひらが便器にでも見えてんのか?」
「誰が私のシモの世話をしろと言ったのよこの変態! 御託はいいから、トイレに引きこもってるマオをなんとかしてよ。それといい加減部屋にトイレつけてよね」
この少女、名をサキ(仮)という69号室の住人だ。もちろん異世界からこの地球に迷い込んだ、いわゆる異世界人という奴である。ちなみに本名は知らん。
朝日に照らされ、艶やかな黒髪が微妙に青っぽく輝いている。
前髪パッツンのセミロングを風になびかせ、なかなか清楚に見えるが、この女、サキュバスだという。
グラマラスには程遠いほっそい身体つきで、おまけに胸の大きさに不自由しているサキュバスとか、聞いたこともねぇ。
ファーストコンタクトがワーストコンタクトであった俺たちだが、この三週間の間に色々(本当に色々と)あり、何とか普通に会話できるまでの関係にはなっていた。
まぁその辺の話はおいおいするとして、それでも彼女の俺への態度は割と刺々しい。
しかし、それはそれで嫌いではない。美少女女子高生からの毒舌など、ご褒美以外に何があると逆に俺は聞きたいものだ。
サキがうるさいので、仕方なく二階にあるトイレに駆けつけると、確かに中から幼い少年の声が漏れていた。
魔王こと666号室のマオだ。
どっかの世界で魔王をしていたらしいが、心底どうでもいい。
「漆黒の闇をまといし堕胎の悪魔 開け狭き門 あうっ! 門をうぐっ……ひらっ、ひらっ」
「ちょっとー、マオさんよ、ひらひらうるせぇぞ。とっとと産んで出てこいこの野郎。サキが漏らしちまうだろうが」
「漏らすか馬鹿!」
風を切り裂く音とともに、サキの蹴りが一閃する。見事なハイキックだ。しかし間一髪でかがんでかわすと、目の前でヒラリとミニスカートが舞う。見事に縞パンだ。
「あっぶねーな。当たったら死ぬだろうが」
異世界人の身体能力は異常だ。舐めてかかったらガチで死ぬ。物理的に。
これで危険手当が出ないのだから、ブラックとしか言いようがない。
「サキュバスの癖にかわいいパンツ履きやがって。アレか? 誘ってんのか? なら俺の好みはもっと、こうエグいくらいに……」
「う、うるさい! このど変態。もういい。学校でする」
「漏らすなよー。あと学校でウンコすると、ウンコちゃん言われるから気をつけろよー」
「死ね! 氏ねじゃなく死ね!」
火が吹くほど顔を真っ赤にして言いすてると、サキは足を踏み鳴らしながら階段を降りていった。
「ほんっと若い子は騒々しいな」
「ひらっ、ひらっ、ああう……」
トイレからはマオの悲壮な悲鳴が続いていた。
可哀想なので、経年変化著しい木製ドアを叩いて急かす。「あっ、やめてください」と声が上がるが知らん。
「まだやってんの? カッチカチか? カッチカチなのか? 下剤いる? ねぇねぇ今どんな気分?」
「ナルセですか……。た、たすけ……」
「あのさぁ。地獄の門を開く能力あるんだから、気合いでてめぇの肛門くらいおっぴろげてどうぞ」
一通り煽って、さて下剤でも探すかと腰を上げた時、降りたはずのサキが息を弾ませて掛け上がって来た。
「オーナーの業弾さんが来たわよ。誰か? ううん、何か? を連れてきたみたい。多分新しい入居者ね。管理人室に通しといたから」
「えぇ……。何かって何よ、ヤダ怖い。朝っぱらから穏やかじゃねぇな」
厄介な仕事の予感に震える。
俺に与えられた仕事は、異世界荘と住人の維持管理。そして監視だ。
この世界に迷い込んだ危険きわまる異世界人を監視し、出来る限り元の世界に帰還させる。その帰還方法は画一的ではなく、様々な要因をクリアさせる必要があるのだとか。
それまではこの世界に溶け込められるよう、最大限協力する。
言うのは簡単だが、為すのは難い。
先日異世界に帰還したガテン系勇者の部屋を、俺は振り返って見る。
今は空室となっているが、早々に次の住人が補充されるわけだ。
つまり面倒ごとは減らない。俺の仕事も減らない。それに気づいた俺は、頭を掻くしかなかった。
「まったくもって面倒くせぇ」