10 妖精の砂遊び1
夢を見ていた。
大小様々な石や岩が転がる河原で、緩やかに流れる川面に指を浸していた。
滑らかに指の隙間をぬけてゆく水流はとても清らかで冷たい。
「良かったよ」
髪をふわり揺らす微風が、どこからか声を運んできた。
「そうかな?」と返すが、安心したような笑い声が聞こえただけだった。
声、なのだろうか。女のものとも、男の声とも言えない。どこか懐かしく、それでいてとても近しい。
そんな声だった。
目が覚めて最初に感じたのは、というよりも確認したのは指の感触。
冷たくて清廉な河の水面の正体。
「あぁ、これね」
限りなく白に近い金色の髪の毛が左腕に垂れている。
アルルーシュカの髪の毛だ。
アルルーシュカは俺の腕の付け根あたりに頭を乗せて寝息をたてていた。
腕枕じゃないと眠れないと駄々をこねたのが昨晩の事。
鉄壁の妖精を解除したばかりなので、恐らくまだ不安なのだろう。
腕枕などしたことはないばかりか、人と同じ布団で眠るなんて施設生活以来のことだ。
初めは腕が痺れて四苦八苦したが、胸に近かければ比較的マシだと気付いたのはアルルーシュカが眠りに落ちてからだった。
それにしても、と寝顔をまじまじと見てしまう。
まるで芸術品のようだ。
触れると脆くも崩れ去る。そういう類の儚い硝子細工を連想させる。
しかし白い頬には赤みが差し、そこ存在していることを見せつける。
理想を求めて創り上げたCGは、どうにも不気味の谷を超えられないが、やすやすと渓谷を飛んで目の前に現れたようだ。
エルフという種族は、誰でもそうなのだろうか。
「成瀬ぇー、起きてる?」
ドアの先からサキの声が聞こえた。
時計を見るとすでに7時に手が届きそうだ。珍しく寝過ごしてしまったらしい。
「あぁ。ちょっと待て。今から朝食を……」
アルルーシュカを起こさないようにそっと腕を抜いていると、返事の途中で扉が開く。
「あのさぁ。だからノックをしろと」
「成瀬!? あんた……何をして」
制服に着替えたサキが言葉を失っていた。
「あぁ? 何って今起きたとこだが?」
「いや、そうじゃなって! アルルーシュカに何をしてたのよ!?」
何に驚いているのか理解できないでいると、サキは両手で口を覆いながら後ずさりした。
「まさ……か、あんたロリコンだったの? だから大人の色香漂う私に興味なさそうに……」
「はぁ? 何アホなこと言ってるんですかコノヤローは。むしろロリコンならお前に興味津々だろうが。冗談は胸の大きさだけにしろよ」
「だってソレ!」
いつものような軽口のカウンターではなく、わななく指で俺の股間を差す。
……Δ。スウェットショートパンツの股間はテントを張っていた。
「ばっ、バッ、バッカヤロー! これはアレだぞ!? 朝のアレだぞ! 何を勘違いしてんですかね!?」
「意味わかんないし! 意味わかんないし!」
サキは頭を抱えてその場で回り続ける。
若い男の生理現象なのだ。断じて性現象などではない。
「それに、ホラ!」
サキの視線に誘われて隣を見る。
むくりと起き上がったアルルーシュカは鉄壁の妖精を身にまとっていた。
気のせいか寝ていた場所から距離がある。
「ちっがーーーーーうッ!!」
早朝の異世界荘に悲痛な叫びが木霊する。
いつだって異世界荘は喧騒なのだ。
◇
「まぁ冗談はさておいてさ」
意気消沈しながら朝食を卓袱台に並べていると、サキが思いついたように口を開く。
「おま……アレは冗談だったのか?」
「半分ね。それはいいとしてさ、学校で噂になってることがあってね」
「ん? あぁ、ちょっと待て。アルルーシュカ、ウインナーを軽く炙ってくれ」
「うん。炎の精霊にお願いする」
言うなり、紅く小さなトカゲが現れてフライパンに火を放つ。
ヤモリ程度の可愛らしいサイズだが、手を出したら火傷程度ではすまないらしい。
時間がなかったので即席だが、トンさんを除いた人数分の食事を並べる。
アルルーシュカが手伝ってくれるので、以前よりは効率がいい。
ちなみにトンさんは富士山近くの某有名お化け屋敷にバイトに行っている。徒歩で。着流しを着た骸骨なので、公共の交通機関は使えないのだ。
「ナルセ。てれびつけていい?」
「あぁ、いいぞ。今日も『おとうさんと一緒』か?」
「うん。いっしょ」
見た目は八歳程度なのだが、興味の方向性がこちらの世界の幼児程度かもしれない。
近代文明に触れたのが最近なのだから仕方ないのかもしれないが、少し不安に思ってしまう。
「で、何だっけか?」
アルルーシュカが体操のお兄さんに合わせて踊り始めた頃、やっと話を戻す。
「あ、うん。少し物騒な話なのよね。この近辺でね、小さな女の子に声をかける変態が出没してるらしいの」
「先に言っとくけど、俺じゃねぇからな」
「わかってるわよ。根に持たないでよね」
苦笑いしながらトーストにかぶりつく。我ながら手抜きの朝食だと思う。
しかし米を炊けなかったのは仕方ないが、冷蔵庫から幾つかの食材が無くなっていたのが痛い。
未だに起きてこないマオが食ってしまったのだろうか。
「夏になると変質者が湧くからなぁ。お前も気をつけろよ」
「あ、うん。あの、ありがと。それより私はアルルーシュカが心配で」
「あぁ、まぁな。まさに見た目も妖精だからなぁ」
「成瀬と一緒なら大丈夫だと思うけど、外出するなら目を離さないであげてね」
頷いて返すが、むしろ俺はサキの方が心配だ。
アルルーシュカはいざとなれば鉄壁の妖精がある上に、躊躇なく、あくまで自然に精霊魔法を使えるのだが。
「もし危ないことがあったら、前みたいに躊躇すんなよ? 死なない程度なら何とでもなるからな」
「あー……うん」
曖昧に笑って返されると不安になると言うものだ。
サキは必要以上にサキュバスとしての能力を使いたがらない。それが何なのかは未だに分からない。
しかし異世界荘の住人の中では、一番こちら側に馴染もうとしている姿は見てとれる。
「何かあったら真っ先に俺かマオに言えよ」
「心配しすぎー。私はもう大丈夫だから。折り合いついたし」
「そうでっか」
何の折り合いかは知らない。もし知って欲しかったら言ってくるだろう。
「じゃ、行ってきまーす」
幼児番組が終わり、朝のニュース番組が始まる時間が通学の定刻だ。
【……で保護された男性は、二年前に行方不明となっていた当時十六歳の少年と断定。目立つ怪我はないものの、意味不明の発言を繰り返しており、岡山県警は男性の回復を待って事情を聴く方針……】
無表情のニュースキャスターがローカルニュースを読み上げていた。
「ああ、行ってらっしゃい」
濃紺のミニスカートを翻してサキは駆けていった。
◇
とは言えど、一日中異世界荘でまったりもどうだろうか。
俺としては怠惰に読書でもしたいところなのだが、アルルーシュカにこの世界を少しでも見てもらいたい。
外かぁと思いながら窓の外を見る。
太陽さんが力強く仕事をしていらっしゃる。
異世界荘は東西南北全ての方角に大きな窓があり、開け放てば涼やかな風が舞い込む。
軒も深いので直射日光も照りつけず、エアコンがなくてもそれなりに快適だ。昔の人の知恵に敬礼である。
「暑いだろうなぁ。でもなぁ」
思いついた事は為さねば後悔が残る。
仮に怠惰を選択しても、どこか頭の片隅に罪悪感に似た靄が残って、健やかなる怠惰を満喫できない事は身を以て知っていた。
「アルルーシュカはお外に出たいか?」
「どこ行く?」
「んー、公園、かな?」
割と近場に大きな公園がある。休日にでもなれば家族づれでごった返すが、夏休み前なので近隣のお母様方くらいだろう。
「こうえん?」
「ああ。砂で遊んだり、遊具で遊んだりする場所だな。森林公園だから、軽めに弁当作って行ってもいいかもしれん」
眠そうに目をこすっていたが、途端に翠色の瞳が輝き出す。
「おし。決まりだな」
オニギリと卵焼きを持ってスレイプニルにまたがる。アルルーシュカは定位置の前カゴだ。
慣れてしまったスタイルだが、はたして側から見たらどう見えるのだろうか。
幸せそうな主夫に見えるかもしれない。
この時の俺は、呑気なものでそんな風に思っていた。
想像通り公園に人影は少ない。平日なので当たり前だ。昼間っから公園でたむろするのは、ママ友コミュニティかリストラされた親父くらいのものだと相場が決まっているのだ。
閑散としているが、小さな子供達は楽しそうに砂遊びをしていた。
「何してる?」
アルルーシュカが俺の袖を引く。
引っ込み思案なのか俺の後ろに隠れたままだ。
「アレはな、砂で山を作ったり、色んなものを作って遊んでるんだよ」
「砂でつくるの?」
「ああ。やってみるか?」
小さくコクリと頷いたので、子供達の集団に混ざる。
「坊主、城を作ってるのか? うまいもんだな。うちの子も混ぜてくれんか?」
「あ? おっさん仕事してねぇんか?」
小生意気そうな男の子が俺を見上げる。ムカつく喋り方だ。岡山弁がよりそうさせるのだろう。
教育的指導を行おうかと思ったが、ギャル風のママさんが遠目で睨みをきかせていた。
「お兄さんと呼べ。それに絶賛仕事中だ」
「《はたち》になったら、おっさんなんじゃってママが言っとったで……」
男の子の言葉が途切れると、顎がだらしなく伸びて視線がアルルーシュカに固定される。
はい。この子の初恋終了〜。
「諦めろ。神が許しても俺が許さん」
惚ける少年の肩に手を置く。
「いっしょに、あそんでも、いい?」
おずおずと顔を覗かせるアルルーシュカに、少年は高速で顔を上下に振る。
ユデダコのように耳まで真っ赤になりながら、アルルーシュカに砂遊びを教え始めたので、俺は少し離れたベンチで様子を見ることにした。
少しうとうとしていたが、アルルーシュカの俺を呼ぶ声でハッとする。
「ナルセナルセ。父様ができた」
「ほぅ。いきなり人物か……」
眠気まなこを擦る。擦り上げる。
砂場の中央に、優雅に寝そべる男の姿があった。
少し尖った耳に細い顎。長髪の隙間からは切れ長の瞳がひかり、まるで生きているように俺を睨む。
その右指にはタバコが挟まれていた。
それらは間違いなく砂でできている。さっぽろ雪まつりもかくやという出来だ。
「父様なの」
「アホかーッ。いやアホか? いやいや、これどうやって作ったんだ!?」
「土の精霊にお願いしたの」
そういえば視界の隅で親指ほどのおっさんがせかせかと働いている。
子供に使われるおっさんかと思うと、憐憫に似た感情が湧くが、それはともかく。
「あのな。そういう遊びは、自分の手でやるもんだよ」
「じぶんの手で? 父様は『精霊のしごとを取っちゃダメだ。精霊にできることは精霊にさせて、私たちはゆうがにすごすのだ。ウェーハッハッハッ』って言っていたの」
最低だ。
チラリと見ると、確かに砂の像はそんなことを言いそうな雰囲気がある。
「それに、お友達もびっくりするだろ? こっちの世界は精霊を使える人はいないんだよ」
「なぁ」と少年を振り返ると、驚愕して口を開いていた顔に、みるみる好奇心の色が広がる。それは伝染病のように周囲の子供達に感染する。
「すげーーッ! マジぱねーッ!」
えぇ? と困惑する俺を押しのけてアルルーシュカを取り囲むと、キャイキャイと歓声を上げ始める。
子供にとって【不思議】とは絶好の遊び道具なのだろう。
はい。チャイルドサークルの姫の出来上がりー。
そう苦笑いした時だった。
俺の唇が凍る。
複数の土の精霊がキイキイと声を上げ始めると、アルルーシュカの全身を薄い緑色の膜が覆った。
危険信号だった。