第5話:小さな虫が運んできた幸せ
「それで慌てて逃げてきたから、果物屋にクワガタを忘れてきちゃったんだ」
姉貴はシーツを握り締めて大声で笑った。俺は手ぶらで病院へ行く羽目になって、仕方なく姉貴にいきさつを説明したところだった。
「あんまり笑わせないでよ。お産の後って、ちょっと力むだけでも痛いんだからね」
そう言って、しきりに目の端の涙を拭っている。昨日、二人目の女の子を出産したばかりだから、まだベッドで安静にしていなければいけないようだ。
「で、どうしてくれるの? 弁償してくれる? ツムグのオオクワガタ、一万円ぐらいするんだよ」
姉貴は面白がっているような調子で言った。
「え、そんなに高いんだ」
そんなものを弁償させられたら、俺は二ヶ月も小遣いなしで生活しなくちゃならない。
「でも、あんな逃げ方しちゃったから、もうあの果物屋には顔出せないよ」
俺は困って言った。
「そうね。包丁つきつけられて、娘さんとの結婚を迫られたんだもんね」
姉貴はおかしくてたまらないといった感じで、声を震わせて笑っている。
「別に脅された訳じゃないけど」
俺は言い足した。
「でも、あのおじさんが、そこまであんたを気に入ってくれるとは予想してなかったわ」
姉貴は言って、嬉しそうににんまりと笑う。
「予想?」
俺は聞き返した。
「そうそう。いつも病院で検診を受けるついでに、あの店に買い物に行ってたのよ。そしたら、この前、あの果物屋のおじさん、跡継ぎがいないんだってずいぶん嘆いてたから、『うちの弟がいるわよ』って、優しく励ましてあげたのよ」
すごくいいことをした、とでも言いたげに、姉貴は胸を張ってみせる。
「何だよ、それ」
俺は言った。
「じゃあ、俺にスイカを買いに行かせたのは……」
果物屋の婿にされかけたのは、もしかして、全部うちの姉貴が仕組んだことだったのか。そう言えばこの前、母親も『婿にやる』とかなんとか、意味の分からないことをつぶやいていた。みんなグルになって、こっそり俺に見合いをさせようと企んでいたのか。
「そうなのよ。釣書きを渡す代わりに、本人にスイカを買いに行かせますって、おじさんに言っといたの」
まるで何でもないことのように、姉貴はさらっと言ってのける。
「その前に、相談ぐらいしたっていいだろう」
俺は本気で腹が立った。
「犬の交配じゃないんだから、俺の気持ちも考えろよ」
姉貴が気軽に吐いた言葉のおかげで、俺はこれまでにもずいぶんと振り回されてきた。
だけど、今回のことはいくらなんでもひどすぎる。このバカ姉貴のせいで、俺の一生まで左右されそうになったのだ。
いまさら、果物屋の親父さんに『あの話は、冗談でした』 なんて謝って済ませられるほど、これは軽い問題じゃない。
「そんなに怒らないでよ。あんたを見て、もし気に入ってもらえるようだったら、ちゃんとした席を設けて、あちらの娘さんと引き合わせるつもりだったの。あたしが早産になったせいで、すっかり予定が狂っちゃって。だから、おじさんが焦ってフライングしちゃったのね」
姉貴はまったく悪びれる様子がなかった。
「フライングどころか、逆走しちゃって、かえってゴールから遠ざかってるよ」
あの親父さんがいきなり婿入りの話なんてするから、俺は、娘さんと会ってみようなんてまったく思えなかった。
そのとき、病室の外からドアを叩く音がした。
「誰だろう?」
俺は言った。
「あんた、ちょっと出てみてくれない?」
姉貴には、訪ねてくる人の心当たりがないようだ。
俺は病室のドアを開けた。
ドアの外に立っていたのは若い女の人だ。歳は二十代の前半ぐらいだろうか、控えめに笑みを浮かべて、俺の顔を見上げていた。
肩まですんなり伸びた黒髪と、薄いミントグリーンのワンピースが、白い肌を際立たせている。
まるで、夏の庭にひっそりと咲いている百合の花のような、清楚で可愛らしい人だった。
「あの、何か御用ですか?」
俺は聞いた。
「ツンちゃんのお母さん、こちらに入院されてますよね」
その人の声は、涼しい風が吹き込んできたみたいに優しかった。甥っ子のツムグを知っているということは、ツムグの友達のお母さんなのかもしれないと俺は思った。
「どうぞ、中に入ってください」
俺は、その女の人をベッドの側まで招き入れた。
姉貴はその人を見たとたんに、ぱっと明るい表情になる。
「あら、まなみちゃんの方から来てくれたのね」
姉貴は、急に声のトーンを上げて、よそいきの声色を使った。
「これがうちの弟なの。名前は、和彦」
姉貴は女の人に言った。俺は慌ててその人に会釈をした。
「それで、こちらがまなみちゃん。あのおじさんの……果物屋の娘さん」
姉貴は俺に向かって目配せをする。
「果物屋の……娘さん?」
俺は、姉貴の言うことがすぐには信じられなかった。
あの無骨な親父さんと、目の前の優しげな女の人が、どう考えてもひとつの線に結びつかなかった。
「愛情の『愛』に、美術の『美』と書いて、まなみ、というんです。お姉さんは、うちの店によく来てくださるんですよ」
愛美さんはにっこりと笑った。それはよく晴れた青空のような笑顔で、俺は思わず見とれてしまった。
「お見舞いがてら、忘れ物を届けに伺ったんです」
愛美さんの腕には、ビニールの風呂敷に包まれた高級そうなメロンと、あの虫かごが提げられている。
「ねえ。こういう子、あんたの好みでしょ」
姉貴が俺の腕を引っ張って、耳元でささやいた。
俺はまんまと姉貴達の策にはめられて、見合いするのも悪くはないか、なんて思い始めていた。