第4話:虫が招いた小さな災難
その日は朝からひどい暑さだった。強い恨みを抱いた日差しが、俺をめがけて刺さってくるようだ。マンションの駐輪場にあった原チャリの座席は、まるで焼け焦げたみたいに熱かった。それでもめげずに原チャリにまたがって、向かい風を浴びていると、スーッと汗が引いていくのが分かった。クワガタの入った虫かごが、ハンドルに結びつけられて、ふわりと風になびいている。
姉貴のいる病院は、駅前の商店街を抜けたところにあった。
シャッターの閉じた日曜の商店街は、スイカを買いに来たときと変わりなく、しんと静まり返っていた。その静けさを裂くように原チャリを走らせていると、少し先に、憶えのある人影が見える。その人はすぐに俺に気づいて、こちらへ向かって手を上げた。俺は慌ててブレーキをかけた。
「こんにちは」
俺は言った。
「おう、こないだの兄さんじゃねえか」
手を上げていたのは、果物屋の親父さんだった。
「親父さんのスイカ、すごく旨かったですよ」
俺は言った。原チャリのエンジンを止めると、とたんに汗が噴き出してきた。
「そうだろうな。プロの俺が選んだんだから、間違いねえよ」
親父さんは、そう言って目を細める。
「それはそうと兄さんよ。こんな朝早くから、どこへ行くんだい」
親父さんは俺に聞いた。
俺は朝飯も食わずに、八時半過ぎに家を出てきていた。
「ちょっと、この先の産婦人科まで」
姉貴が入っている病院では、朝の九時から面会を許されている。できれば本格的に暑くなる前に、さっさと用事を済ませてしまいたかった。
「うちの姉が、二人目の子を産んで、入院してるんです」
俺は言った。
「おお、そうかい。もう産まれたのか」
親父さんは、少し驚いた風に言って、半開きになっているシャッターに手をかけた。
「なら、ちょっと店に寄ってってくれよ。あんたの姉さんに、何か栄養のつく果物でも見繕うからよ」
「あの、」
――急ぎますから
俺が止めようとしたときには、もう、親父さんはシャッターの向こうへ姿を消してしまっていた。
「しょうがないな。行くしかないか」
俺はひとりつぶやいて、虫かごを肩にぶら下げた。原チャリは、そのまま店先に止めさせてもらうことにした。
シャッターをくぐって店に入ると、熱く湿った空気がべったりと肌に張りついてきた。果物の並んでいない店先は、鮮やかさを失ってがらんとしていた。陳列台には、果物を盛るプラスチック製のざるがいくつか散らばっているだけで、ベニヤ板がむき出しになっている。俺は、クワガタを入れた虫かごをそこに置いて、額から流れる汗をTシャツのすそで拭った。
「こんなに暑くちゃ、いくら汗かいたって蒸発しちまうわな」
親父さんは、メロンを二つも抱えて現れた。
無造作に両脇に挟まれているけれど、どちらも贈答品のカタログで見かけるような網目の入った立派なやつだ。
「そんな高い品物、いただく訳にいかないですよ」
俺は言って、すぐに帰ろうとした。
「まあ、待ちな。本当の高級品は、あんたが決めるんだ」
親父さんはそう言って、陳列台の上にメロンを置く。
よく見ると、親父さんの手には包丁が握られている。この場ですぐに切り分けるのだろうかと、俺は不思議に思った。
「この二つのうちで、どっちの玉が本物の高級品か、ぴったり当てたらそれも教えてやるよ。あんたの欲しい方を一玉やるから、好きなのを選んでみろよ」
親父さんはそう言ってニヤリと笑った。
「本当に、お気持ちだけで十分ですから」
万が一、高級品を言い当ててしまったりしたら、どうしたもんか困ってしまう。俺はあわてて踵を返そうとした。
「まあ、そんな水くさい遠慮なんてするんじゃねえよ」
親父さんは言って、俺の肩を抱きこんだ。
「あんたがその気になりゃ、いい品は、すぐに見分けられるようになるさ」
それは優しく言い聞かせるような口調だった。
続いて、俺の耳に飛び込んできたのは、思いもかけない台詞だった。
「あんた、うちの婿さんになる気はねえか?」
口調は優しくても、言っている内容はとんでもないものだ。
俺は自分の耳がおかしくなったのかと思って、しばらく親父さんの顔を眺めていた。
「あの。もう一度言ってもらっていいですか?」
俺は気を取り直して確かめる。
「うちの娘を、嫁にもらってくれって頼んでるんだ」
親父さんは真剣な顔をしていた。冗談を言って、俺をからかっている訳ではなさそうだ。
「ちょっと待ってくださいよ。娘さんと会ったこともないのに、どうしていきなり結婚なんて話になるんですか」
俺は慌てて聞き返した。
「そりゃあ、まあ・・・・・・あれだ。この前、スイカを買いに来ただろ。あのときに、あんたを跡継ぎにって、一目でピンときたんだよ。あんた、いまどきの若いモンにしちゃあ、礼儀正しくて遠慮深えしな。今日、あんたが店の前を通りかかったのも何かの縁だ」
親父さんはむちゃくちゃなことを言い出した。
「軽々しく結婚だなんて決められませんよ」
俺は言った。
「そんな堅苦しく考えるなよ。まずは、ちらっと娘の顔だけ見てくれりゃいいんだ」
親父さんのいかつい顔が、ぐっと目の前に迫った。娘さんの話をしているのに、親父さんは、まるで自分のことのように顔を赤らめている。もし俺が娘さんと会うことを承諾したら、この親父さんとそっくり同じ顔をした、仁王が女装したみたいな人が、俺の前に現れるのだろうか。だからといって、顔を見たとたんに縁談を断るなんて、そんな失礼なことをする訳にいかなかった。
「ちょっとでいいから考えてみてくれよ。旨いメロンをたらふく食わせてやるからさ」
親父さんは包丁の先で、陳列台の上のメロンを指し示す。すっかり頭に血が上ってしまったのか、右手に包丁を握っているのを忘れているみたいだ。目の前をひらひらと動く刃先のせいで、俺は身動きが取れなくなった。
そのとき、俺達の後ろから、若い女の子の声がした。
「お父ちゃん。私の使ってた包丁、どこかに持って行った?」
親父さんの娘さんだ。ここで引き合わされたら最後、もう断るチャンスはなくなってしまうだろう。何が何でも顔を合わせる訳にはいかない。
「おう、お客さんにメロン食わせてやろうと思ってな」
親父さんはそう答えて振り返る。その隙に、包丁の刃先が俺のそばを離れた。
「とにかく、お受けできません!」
俺はそう叫んで、果物屋の店先から全速力で逃げ出すと、夢中で原チャリを走らせた。