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夏の贈り物  作者: かちゃ
3/5

第3話:破水

 あくる日の早朝、俺は母親にたたき起こされた。姉貴がトイレに立ったときに破水したらしい。枕元の時計に目をやると、午前三時を少し過ぎたところだった。出産予定日はまだ二週間も先のはずだったから、母親は落ち着かない顔をしていた。

「病院にはもう電話したからね。私はお姉ちゃんと駐車場まで下りるから、あんたはツムグを抱いていって欲しいんだよ」

 それでも、母親の口調はてきぱきとしていた。

「わかった」

 俺はそう答えて、手近にあったポロシャツとチノパンツに着替えた。

 姉貴は、台所の床にしゃがみ込んでタオルケットに包まっている。

「痛むのか?」

 俺が聞くと、姉貴は小さくうなずいた。

「夜中に急にお腹が痛くなって目が覚めたの。まさか、まだ産まれる訳がないと思って、それからずっと横になってたんだけど、だんだん痛みが強くなってきて」

 姉貴の目に涙が浮かんでいた。

「スイカ食いすぎて、腹を壊しただけなんじゃないの?」

 俺は言った。姉貴があんまり不安そうな顔をしているから、何か気持ちの和らぐようなことを言ってやりたかったのに、とっさには思いつかなかった。

「バカ! ちゃんと……破水したわよ」

 姉貴の声には、いつもの勢いがなかった。

「それより。ねえ、あんたからも隆くんに電話してみてくれない?」

 姉貴は珍しく、俺の前で甘えたような声を出した。姉貴夫婦は、うちのマンションから二駅ほど離れたところの公団住宅に入居している。この時間なら、義兄の隆さんは、まだ家で寝ているだろうと思った。

「破水したとき、すぐに電話したのよ。でも、家の電話にも出ないし、携帯もつながらないの」

 姉貴はタオルケットの端をぎゅっと握った。

「アイツったら、大事なときにはいつも連絡つかないんだから」

 姉貴はそう言って涙ぐんだ。

 隆さんは、システムエンジニアの仕事をしている。得意先のコンピューターシステムに障害が起こると、夜中だろうが早朝だろうが関係なく、復旧に駆けつけなくちゃいけないんだそうだ。

「疲れて寝入ってるだけかもしれないよ。心配すんなって」

 俺は言った。俺はポケットから自分の携帯を出して、隆さんの携帯に電話した。何度かコール音が鳴り、留守番電話のアナウンスが流れ始めたところで、唐突に、隆さんの声が割り込んできた。

「もしもし、和彦君?」

 隆さんは少し疲れているような感じだったけれど、声ははっきりとしていた。どうやら、寝ているところを起こしてしまった訳ではなさそうだった。

「朝早くにすみません。さっき、姉が産気づいて。これから病院に向かうんです」

 俺は手短に用件を話した。

「そうか。参ったな……すぐにでも行ってやりたいんだけど、こっちもある意味で、生命がかかってる」

 隆さんは深刻な口調で言った。

「生命?」

 俺は聞き返した。

「得意先のネット通販のシステムがまったく使い物にならなくなって、夜中に呼び出されたんだ」

 隆さんは言った。

「このまま一日放っておくだけで、僕の生命保険でも弁償しきれないぐらいの損害が出るんだよ」

 いつも落ち着いた物腰の隆さんには珍しく、いらだったような言い方をした。

「とにかくなるべく早く済ませてそちらに向かいます。和彦君とお義母さんには迷惑をかけてしまって申し訳ない」

 隆さんの言葉は丁寧だったけれど、口調はきっぱりとしていた。

「あの、少しだけでいいので、姉と話してやってもらえませんか? 普段あんなに気の強いのが、オロオロしちゃってて」

 俺は思い切って言ってみる。

 隆さんが常日頃、うちの姉みたいな口うるさい妻と、タイトな仕事の板ばさみに遭っていることを考えると、本当に申し訳なかった。だけど、たった五分の会話をするのにも、絶対に外しちゃいけない大事なタイミングがあると俺は思った。ここ一番というときに、誰かが支えてくれる安心感は、やっぱりお金には代えられない。

「そうだね。少しなら……大丈夫だと思う」

「すみません」

 俺は言った。

「隆さんは、仕事がかなり切羽詰ってて、身動きが取れないみたい」

 俺は言って、姉貴に自分の携帯を差し出した。姉貴は怒ったような顔で、黙って俺の携帯をひったくった。

「今にもお腹がぱっくり割れそうなぐらいに痛いのよ! 原因の半分はあんたなのに、何で今度も来られないなんて言うのよ」

 姉貴は、俺の携帯に向かって怒鳴りつけた。

 そういえば、ツムグが産まれたときも、隆さんは仕事があって立ち会えなかったんだった。事情が許せば、隆さんだってすぐに駆けつけたいだろう。こうやって相手に食ってかかるのが姉貴なりの甘えだと分かっていても、隆さんがあまりに気の毒に思えた。

 姉貴の声を聞きながら、俺は台所の隣にある和室へ向かった。和室に敷かれた布団の中で、ツムグがぐっすりと眠り込んでいた。

 俺はツムグをそっと抱き上げた。俺の腕の中で、ツムグはまだ気持ちよさそうに眠っている。起こして外出着に着替えさせるのが可哀想になって、パジャマのまま抱いていくことにした。真夏とはいえ、早朝はちょっと肌寒い。風邪を引かせないように、ツムグの背中にバスタオルをかけた。ツムグはほんの少し目を開けて、とろんとした目つきで俺を見上げる。タオルの肌触りが気に入らなかったのか、ツムグは身体をよじって少しぐずった。

「もうすぐ、ママのお腹から赤ちゃんが出てくるぞ」

 俺は言った。ツムグの小さな手が、俺の着ているポロシャツをぎゅっとつかんだ。



 それから六時間ほどで、姉貴は元気な女の子を産んだ。

 俺は仕事があって、出産までは立ち会えなかった。だから、家で母親と夕飯を食いながら、詳しい話……というよりも、愚痴をたっぷりと聞かされた。

「仕事ってそんなに大層なものなのかねえ」

 母親は言って、ため息をついた。

「だって、子どもが産まれたのが朝の九時半なんだよ。夕方になってやっと病院に来るなんて、いくらなんでも遅すぎるじゃないの」

 義兄の隆さんが、姉貴の出産よりも仕事を優先したことがよっぽど気に入らないらしかった。

「仕方ないよ。もし隆さんが抜けたら、何千万円も損害が出るような仕事なんだって。大変らしいよ」

 俺は隆さんに聞いた話を、そのまま母親にして聞かせた。

「お母さんだって大切な仕事を休んで、ずっとお姉ちゃんに付き添ったんだよ」

 母親は、それでもまだ納得がいかないようだった。母親は、スーパーの惣菜売り場で二十年近く勤めている。パートとは違って嘱託社員なので、あまり気軽には休ませてくれないらしい。

「コンピューター関係の仕事は、きっと、誰かが代わってできるようなもんじゃないんだよ。一個八十円かそこらのコロッケを揚げてるのと、訳が違うんだからさ」

 俺はそう言って、コロッケにかぶりついた。それは母親が病院から帰る途中に、どこかの肉屋で買ってきたものらしかった。

「私が揚げるコロッケは、衣がカリッとしてるって評判がいいんだよ。お母さんが仕事を休んだら、びっくりするぐらいに売れ行きが下がるんだから」

 母親は不満げに言った。そう言われても、母親の揚げるいつものコロッケと、その辺の肉屋で買ってきたものとの違いが、俺にはよく分からなかった。

「和彦。あんたの仕事は、大事なときに休ませてもらえるの?」

 母親は心配そうに聞いてきた。

「無理だよ。チラシは決められた日に折り込まなきゃ意味がないんだ。お得意さんとの契約を一回すっぽかしたら、二度と仕事がもらえなくなるよ」

 俺が勤めているのは求人広告の会社だから、毎週日曜日の新聞に折り込むものと相場が決まっている。ちょっと都合が悪くなったからといって、掲載を月曜日に伸ばしてもらう訳にはいかないのだ。

「そうかい。サラリーマンってのは不自由なもんだねえ。やっぱりあんたを婿にやった方が……」

 母親は小さくため息をついた。

「え? 婿って……何の話?」

 俺は聞き返した。  

「あらっ、いや何でもないわよ。それよりあんたは確か、明日が休みだったね」

 母親が慌てた様子で話題を変えた。そういえば、明日は日曜日だった。

「そうだけど」

 俺は言って、ワカメの味噌汁をすすった。

「ちょっと病院に寄って、あれを届けてやってくれると助かるんだけど」

 母親はそう言って、和室の方にちらりと目をやる。

 電気を消した薄暗い部屋に、ツムグの持っていた虫かごが置かれていた。かごの中で、黒くて小さな影が二つ、ゴソゴソと動いている。そういえば、今朝は出がけにバタバタしていたせいで、クワガタのことをすっかり忘れていた。

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