第2話:スイカを買いに
女の人が描く地図は正確じゃないことが多いけれど、特にうちの姉貴が描いたのはひどかった。まるで俺が果物屋にたどり着くのを阻止する目的で描かれたみたいだった。
駅前の商店街に立ってみると、地図に描かれた路地の数は、実際より三本も少なかった。地図の上では駅よりも大きく目立っていた煙草屋は、自動販売機でも十分用が足りるぐらいに控えめなスモールサイズだった。おかげで、俺がその果物屋にたどり着いたときには、もう夜の八時を過ぎてしまっていて、ちょうど店の親父さんが表に立ってシャッターに手をかけていたところだった。
「すみません。もう閉店ですか?」
俺は原チャリの座席にまたがったまま、慌てて親父さんに声をかけた。
「いやいや、まだシャッターは開いとるよ」
店の親父さんは言った。
「こんな半分眠っとるような商店街だからな。せっかく来てくれたお客さんの前で、ピシャッと閉める訳にはいかんわな」
親父さんの言うとおり、商店街は、駅前にあるとは思えないぐらい暗く沈みこんでいた。灯りのついている店は数えるほどしかなく、水銀灯だけがぽつぽつと寂しそうに光っている。
「この時間には、どこの店も、閉まっちゃってるんですね」
俺は言った。
「昼間でも、シャッターの閉まっとる店は多いよ」
親父さんは口の端だけを軽く上げて、冷めた感じで笑った。
「まあ、中に入りなよ」
親父さんはそう言うと、店の奥へ引っ込んだ。俺は原チャリを店の前に止めて、親父さんの背中に従った。
店の中は、もう半分灯りが落とされていた。くすんだオレンジ色の照明の下で、陳列台に乗った果物がぼんやりと影を落としている。その様子は、一日の仕事をようやく終えて、うとうと眠りかけているようにも見えた。
「スイカ、ありますか?」
俺は言って、店の中をざっと見回した。店先には、巨峰の空き箱が、やりかけのジグソーパズルのように雑然と積み上げられていた。白桃や夏みかんが、三つずつきれいに揃ってざるに盛られている。まるごとのスイカは、どこにも見当たらなかった。
「スイカ、スイカかぁ。スイカはなぁ、今日の分は、全部売れちまったんだよ」
親父さんは、やたら残念そうに『スイカ』を繰り返して言った。
「そうですか。じゃあ、仕方ないからまた、」
――また来ます
俺がそう言って帰ろうとしたら、親父さんは驚いたみたいに「若いのに、えらくあっさり諦めるんだな」と言った。
「家で食おうと思って冷やしてるのが一つあるから、それを持って帰りゃいいよ」
下町の人って、みんなこんなに親切なものなんだろうか。どうしてだか不思議になってしまうくらい、気のいい親父さんだった。
「でも、そんなの申し訳ないですよ」
俺は帰ろうとしたけれど、親父さんはニヤニヤと笑って首を振った。
「いいから、家に上がって行きな。ちょっと皮に傷がついただけで、どうせ店には出せねえんだ。贈答用のやつだから、びっくりするぐらい甘めえぞ」
親父さんはそう言うと、俺の返事も待たずに、奥のガラス戸を開けてさっさと家の中へ引っ込んでしまった。
「あの、すみません。お邪魔、します」
一人取り残されてしまった俺は、仕方なくそう言って、店の奥へ進んだ。ガラス戸のそばには、上がりかまちの板があって、そこで靴を脱げば、居間に入れるようになっていた。
「おう、今スイカ持ってくから、その辺に座っといてくれ」
居間の奥にある台所から、親父さんの声がした。
俺は居間の入り口に腰をかけて、親父さんが戻ってくるのを待った。居間の中は、俺が生まれる前からずっと変わっていないんじゃないかと思わせるような古びた佇まいで、それはなぜだか心地よかった。茶箪笥だとかちゃぶ台なんて、実物を見るのは初めてなのに、懐かしい感じさえする。
これから食事の支度をするところだったのだろうか、ちゃぶ台の上には、大人用の茶碗と箸の組み合わせが三つ並べられていた。台所からは、魚を甘辛く煮付けているようないい匂いが漂ってきた。
――そういえば腹が減ったな
そんなことをぼんやりと思って、壁にかかった振り子時計を見上げると、もう八時半を過ぎていた。
「待たせてすまねえな」
親父さんが台所から顔を出した。親父さんが抱えていたスイカは、うちの姉貴の腹みたいに、まるまると張っていてかなり立派なものだった。
*
家へ帰ってから食べてみると、そのスイカはびっくりするぐらい甘かった。軽く塩を振る代わりに、間違えて砂糖の塊をぶちまけてしまったんじゃないかと思うぐらいだった。
「あのおじさんの店で買うと、同じ果物でも、他の店とは味がぜんぜん違うんだよね」
姉貴は言って、もう三切れ目になるスイカに手をつけた。
「何て言うか、口の中で甘さが自然にスーッと溶ける感じなのよ」
よっぽど親父さんの店のスイカが食いたかったのか、姉貴は上機嫌で話し続けた。
姉貴が手にしたその一切れは、姉貴の胃袋よりも、明らかに大きいような気がした。俺は、ちょっと食いすぎじゃないかと心配になったけれど、黙って姉貴の好きなようにさせておいた。
「あそこのおじさん、けっこう人がいいでしょ」
姉貴は言って、にやっと笑った。
「うん。確かに、やたらと気のいい人だった」
俺は答えた。
「娘さんもあんたとそう変わらない歳だけど、素直でいい子なのよ」
姉貴は言った。
「へえ。そうなんだ」
俺はそう答えて、頭の中に、親父さんの無骨な顔つきを思い浮かべた。あの親父さんに娘がいる。どんな顔をしているのか想像もつかなかった。俺はためしに、その顔から無精ひげを消してみて、代わりに長い髪をつけ足してみる。
想像の中で、無骨な親父さんにそっくりの娘さんがウインクなんてしてみせるから、俺はおかしくてたまらなかった。
「何をひとりで笑ってんのよ。気持ち悪いわね」
姉貴は言った。