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夏の贈り物  作者: かちゃ
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第1話:拾ったもの

 目が覚めると、網戸の外に消しゴムほどの大きさのクワガタが転がっていた。そいつはまだ元気に生きていて、腹を見せて必死で空中を掻いていた。

 俺はベランダに出て、クワガタをつまみ上げた。住宅街の中にあるこのマンションまで、こいつはどうやって飛んできたのだろうか。そう思って空を見上げると、雲ひとつなくきれいに晴れ上がっていた。今日も暑くなりそうだった。

 これから一日中、外を歩き回って、広告の契約を取らなきゃならないことを思うと、このクワガタみたいに羽がついていたらと思わずにはいられなかった。

 でも、俺はクワガタを逃がしてやるわけにはいかなかった。もうすぐ三歳になる甥っ子のツムグが、姉貴に連れられて遊びに来ている。こいつをツムグに渡してやったら喜ぶだろうと思ったのだ。



 ダイニングルームに入ると、ツムグは朝から格別にご機嫌だった。TVから流れるCMソングにあわせて、床の上で腹ばいになってバタバタと暴れていた。隣の和室では、姉貴が臨月の腹を抱えてだらしなく眠っていた。

 俺は、食卓の上にあったコップに、クワガタを放り込んだ。

「和彦、これどうしたの?」

 母親は、コップの中で暴れているクワガタを覗き込んだ。

「起きたらベランダに落ちてた」

 俺は言った。

「ツンちゃん、おいで。和彦がクワガタ採ってくれたよ」

 母親がツムグを呼び寄せた。

「えっ、どこっ、どこ」

 ツムグは、食卓の下で懸命に背伸びをする。

「先に虫かご取ってこい」

 俺が言うと、ツムグは虫かごを大事そうに抱えて戻ってきた。

「よっしゃ、じゃあ、中に入れてやろうか」

 俺は言った。

「やだ、先に見して」

 ツムグは答えた。

 クワガタはまだ諦めずに外へ出ようと全力で暴れていた。俺はコップを持ってツムグの目線まで下ろした。

 ツムグはコップの中を見下ろすと、「何だ。ヒラタ」と、つぶやいた。子どもなりに精一杯つっぱって、いかにもつまんない奴なんだぜと言わんばかりの喋り方をしてみせる。

「ヒラタ?」

 俺が聞き返すと、ツムグは虫かごを床に置き、和室の方へ何かを取りに戻った。

 俺の目の前にツムグが広げて見せたのは、“みぢかなこんちゅう”という図鑑だった。ツムグが指した小さめのクワガタの下には、ヒラタクワガタと書かれている。ツムグの喜びようが、ひときわ小さかった訳がよく分かった。

 続いてツムグは、オオクワガタと書かれてある一番大きい写真を指した。

「ここにいるの」

 ツムグは虫かごの前にしゃがんだ。かごの中には砕けたスイカの欠片が転がっていて、その上には、新品の石鹸ほどの大きさと光沢を持った黒い塊が動いていた。

「ツンちゃん、いいねえ。どこかで採ってきたの」

 答えを分かっていて、母親がツムグに問いかける。こんな立派な虫がその辺に落ちている訳はない。 

「ううん、あっちのジイジは、買ってくれた」

 子どもは子どもなりに、巧妙なテクニックで大人の競争心をあおり、もう一匹ぐらい立派な虫を手に入れてやろうと計算を働かせているらしい。

「ツンちゃんすごいね。いいのもらったねえ」

 母親は徹底的にツムグをおだてておねだりをかわす。まずは手練に長けたオババが一勝した。伊達に長くは生きていないみたいだ。

「そうか、じゃあ、こんな小さいのは要らないんだ」

 俺も母親の手練を見倣おうと、わざとそっけなく言ってみた。そうしたら、ツムグは、「要るっ」と言って、わりあい素直に虫かごのフタを開けた。

 俺はコップをひっくり返して、クワガタをツムグの目の前に差し出した。

「いいか、ツムグ」

 俺は二十七歳の俺に込められる限りの万感の想いを込めて言った。

「自分の手で採れるものはいつも小さいんだ」

「しってる、パパがいつもいってる」

 まったく関心がなさそうにツムグは答え、あっさりと俺に背中を向けると、ヒラタクワガタを加えた虫かごを抱えて、姉貴の方へ走って行ってしまった。

「ママ、ママッ、マァァマッ、和ちゃんがヒラタくれた」

「ヒラタ?」

 起き抜けで不機嫌な姉貴の声が答えた。

「このうんと小さいの」

 ツムグは朝から『うんと』俺をへこませてくれる。

「よく見て、ぴったりくっついて見ないと分かんないよ」

「ああっ、もう、ツムグ、分かったからママのお腹押さないで」

 姉貴は、全力でじゃれついてくるツムグにたまりかねて、ゆっくりとした動作で身支度をして起き上がった。

「ああ、やれやれ。よいしょっと」

 姉貴は誰に当たるでもなくイライラと大きな声を出した。大きく張った腹の下に両腕を添えて重そうに抱えている。

「疲れてるんだから、ゆっくり寝ればいいのに」

 母親が言った。

「寝てても暑いし、ツムグは寝かしてくれないし」

 姉貴は言って力なく笑うと、食卓についた。

 俺は焼きあがったトーストに薄くマーガリンを塗って、その上にたっぷりとピーナッツバターを塗った。熱すぎるコーヒーを多めのミルクで埋めて一口すする。その間中ずっと、姉貴は食卓に頬づえをついて、飽きもせずに俺の顔を眺めていた。

「何見てんだよ」

 俺は言った。

「一回訊いてみたかったんだけど、あんた、本当においしいと思って食べてる?」

 姉貴は珍しい食べ物の味でも訊くみたいに、俺の反応を興味深そうに観察していた。

「そんなことまでいちいち考えて食ってないよ」

 俺は言って、新聞の社会面に並ぶ見出しをざっと流し読みした。

「そうだよねぇ。あんたってボーっとしてるから、そのトーストと布巾をすり替えたって、気づかずに食べてそうだもんね」

 姉貴は言った。相手が怒り出すまでは、どんなにきつい言葉をぶつけても許されると思っているらしい。俺はよっぽど何か言い返してやろうかと思った。

「それよりねぇ、今日何時に仕事終わる?」

 だけど、姉貴の方が先に話し始めてしまった。俺がお返しの悪態を思いつく前に、いつもこうやって姉貴がさっさと話題を変えてしまうのだ。

「帰りに得意先に寄って……七時ぐらいには終わるけど」

 俺は仕方なくそう答えた。

「だったら、帰りにスイカ買ってきてよ」

「スイカ?」

 買ってくるのはいいんだけれど、俺に頼むよりも、姉貴が自分で近所のスーパーに行った方が手っ取り早いような気がする。

「言っとくけど、まるごと一個じゃなきゃ嫌だからね」

 姉貴は念を押すように言った。

「よく食うクワガタだな」

 俺はそう言って、床の上にぺたんと座り込んでいるツムグを見た。ツムグは、虫かごを目の高さに持ち上げてぐるぐると回していた。虫かごの中では、スイカの皮とクワガタたちが、波にさらわれたサーフィンボードみたいに哀れにひっくり返っていた。

「あたしが食べるのよ。悪い?」

 姉貴は言って、食卓の上にあったきゅうりの漬け物に手を伸ばした。

「スイカは食いすぎたら、身体冷やすからやめとけ」

 俺は言った。

「こんなに暑くちゃ、赤ん坊がお腹の中で茹だってるわよ」

 姉貴はいっそう不機嫌な声になって、だらしなく食卓の上に突っ伏した。

「はいはい、わかりました」

 俺はそれ以上、忠告してやるのをあきらめた。毎日、こんな姉貴のわがままにつきあわされている義兄の隆さんが、だんだん気の毒に思えてきた。

「それからね」

 姉貴は顔だけを上げて、何か含みがありそうな感じでニヤついた。

「まだ何かあるの?」

 俺はあきれて言った。

「駅前の果物屋のスイカじゃなきゃ食べないって、赤ん坊が言ってる」

 姉貴はそう言って、チラシの裏の白い部分に、果物屋のある場所を簡単に描きとめた。

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