片目で見る夢物語
近頃身の回りで奇妙なことが多く起こる。人気が全く無い道を歩いているのに、何かが後ろをついてくる気配がするとか、妙な音、その時々によってどんな音かはまちまちなのだが、巨大な生物の呼吸音、何かが這いずるような音、粘質な水音であったり、ひっかくような金属音であったり、遠くから聞こえる爆発音であったり。そしてそれは俺以外には聞こえないようなのだ。家族や高校の友人達にその音について尋ねると全く聞こえない、気のせいではないかと言われる。
一度や二度であれば、それこそ気のせいと思いそのまま忘れるところであろうが、そんなことが何度も続くと随分気が滅入ってくる。友人たちは年頃の少年らしく悪乗りすることも多々あるが、皆気のいい奴らだ。こんな気の長い、面白くもないいたずらを続けるはずもなく、さらに家族と共謀するなんてあり得ないことだ。だからたぶんこれは俺自身がなにかおかしくなってしまったのだろう。認めるのは不愉快なことであるし、心当たりも全く無いのだが、精神的ななにか不具合があるのか、あるいは気づかないうちに転んで頭でも打ったのだろうか。
どうしたものか、病院にでも行くべきなのか、イライラとしながら日々を過ごす。寝不足のせいか学校で体調を崩し、保健室で寝るなんて珍しいことをした帰り道。いつもと違い日が落ちて暗くなった帰り道を歩くうちに、ふと手の中に重みがあることに気づいた。家路をたどりながら聞こえる妙な音にストレスを感じつつ、この音の原因がなんだか知らないが、分かるものならぶん殴ってやりたいと、強く握りしめていたその手の内に。いつのまにか、至極自然に、俺は長柄の斧を握っていた。意味がわからない。
ナニカの液体でべっとりと染みが付き、薄汚れているけれどもがっしりとした作りの頑丈そうな斧。いつの間に?これはなんだ。ついに本格的に頭がおかしくなっちまったのか。グラグラと地面が揺れるような感覚と不快な臭気、いつにもましてリアルな水音。そして地獄の底から響くかのような悍ましい呻き声。
伸ばされた手をとっさに手に持った斧で振り払う。
か細い手が吹き飛んだ。
「は?」
腐汁を撒き散らしながらベチャリとアスファルトに落ちた腕。チラ付く街灯に照らされる光と闇の境。ジワリジワリと染みを広げるそれは全くこの世のものとは思えなかった。そうして呆けていたのも数瞬。片腕をなくしたソレはなおも俺の方に向かって手を伸ばしていた。今度は多少自覚的に、悍ましい呻きと吐き気を催す臭気に顔をしかめつつ手に持った斧でなぎ払う。手応えは妙に軽かったが、胸部を大きく切り裂かれながら吹き飛んだ。
「ゾンビ?」
ホラー映画やゲームで定番の腐った死体。わかりやすいモンスター。元々は人間であったであろうことをうかがわせる姿形。しかし間違いなく異形。目玉は飛び出し、ボロ布のように薄汚れた服の名残を身にまとい、露出した手足からは肉や脂肪、骨までも垣間見える。そんなものが1体、2体、3体…。暗がりの中からゾロゾロと現れた。感情は全くうかがえないがたぶん俺を食おうとしているのだろう。大きく開けた口からウジ虫をのぞかせながら両手を伸ばしゆっくりと俺に迫る。
地に伏し立ち上がろうともがいている奴を踏みつけにし、あるいは足を取られて転んでいる様からお世辞にも知能が高いとは言えないようだが。いつの間にか四方八方から響く耳を揺らす呻き声、ズルズルと引きずるような足音、暗がりに蠢く影。数に押されて組み付かれ、押し倒されたらたぶんあっという間に俺も彼らの仲間入りを果たすことになるのだろう。それは嫌だ
「ぉお゛ッ!」
力まかせになぎ払う4,5体のゾンビがまとめて吹き飛び後続のゾンビを巻き込んで盛大に倒れる。千切れたパーツの落ちる音、本体の倒れる音、みな重量感がありこれほど簡単にいきそうな感じではないのだが。火事場の馬鹿力というやつだろうか。道路の逆側から迫ってきていたゾンビたちもなぎ払う。汚らしい断末魔をあげ、腐汁と臓物を撒き散らしながら倒れ伏すゾンビたち。斧で切り飛ばされて体のパーツを失ったもの、ボーリングのようになぎ倒されたもの、それらに足を取られてすっ転んだもの、どれもがもがき塊のようになりながらこちらに這いずり寄ってくる。足に伸ばされた伸ばされた腕を切り飛ばす。それでも芋虫のように這いよるそいつの頭を蹴り飛ばすとポーンと、遠くまで飛んでいってしまった。頭を失った死体はしばらくもぞもぞと蠢いていたが、やがてぱったりと動かなくなる。
「ふはっ」
思わず妙な笑い声を出してしまう。異様に口の端がつり上がるのを感じる。このゾンビたちはどうやらお約束を守るようで、頭を切り離すか潰すかすれば死ぬ、というか動きを止めるのだろう。狭い道路の両端からにじり寄るゾンビたちの総数は数十を数えるだろうが、不思議となんとでもなる気がした。蹴り飛ばし、踏み潰し、なぎ倒し、両断する。疲れもなにも感じることなくひたすら機械的に動く死体どもをただの死体に変えていった。どれほど時間が立っただろう。数分の出来事だったようにも、数時間以上のことのようにも感じられる。
恐ろしいほどの高揚感は、吹き抜ける夜風によって上がりきって火照った体温とともに流された。周囲はすっかり元の静寂に包まれ、奇妙な音などは一切しない。周囲の住宅から微かに、のどかな生活の音すら聞こえるほどだ。どこかの家から揚げ物の美味しそうな匂いがする。腐臭でひん曲がってしまったと思われた鼻もすっかり正常な機能を取り戻しているようだ。
何が何だか分からない。しかし、久々になんとも清々しいすっきりした気分に包まれていた。今までの人生で間違いなく最高の大暴れをしたせいだろうか。あるいは…いや、考えるまい。ともかく手に張り付くほどに握りしめていた斧ももはや無い。ゾンビたちの残骸や道路に染みを作っていた腐汁の痕跡もどこにもない。白昼夢でも見たのだろうか。自分にしか聞こえない奇妙な音も、襲い来るゾンビの群れも何もかもが幻であったのか。
ぼんやりと突っ立っていた俺の横を車輪の回る軽快な音を立てながら自転車が通り過ぎる。現実に引き戻され、道の端による。大きめの楽器か何かのケースを背負った高校生たち。部活の帰りだろうか。2台並んで、談笑しながら、突き当りを曲がって消えていく。平和な日常の光景。俺も全て忘れて、そこに戻るべきなのだろう。チカチカと揺れる街灯の光、仄暗く淀む闇の境、その先の暗がりに、なんとなく後ろ髪を惹かれる思いを感じながらも、何もかもを振りきって家路を歩き出した。
それから幾日か、俺は何事も無く過ごしていた。朝起きて高校に向かい、普通に授業を受け、部活に行く友人を見送り帰宅。つまるつまらないで言えばまあつまらない。電車に乗って数十分程度、中学時代に比べれば随分遠くの程々レベルの学校。入学当初は多少の新鮮味も有ったものの、一年もすればまあ慣れる。慣れれば退屈にもなる。何かしら新しいことを始めるなり、部活をやるなりバイトをするなり、退屈を紛らわす方法はあるのだろうが、そこまでする程でもないだろうか。そんなことを思いながらダラダラと過ごしていた日々に回帰する。
それが良いことか悪いことかといえば良いことなのだろう。なにせゾンビ相手に無双するような白昼夢を何度も見るようであれば間違いなく頭がイカれてしまっている。ただ、あの時の高揚を少しだけ惜しくも思う。自分の中にそうしたスリルを求める心があるとは思ってもいなかった。正直なところホラー映画なんかはどちらかと言えば苦手だし、ジェットコースターなんかも得意じゃない。体を動かすのは嫌いじゃないが、それほど好きでもない。
あの生理的嫌悪を催す動く死体どもなんて二度と会いたくないと、そう思ってしかるべき。俺は自身をそういう奴だと思っていたけれども、どうにも落ち着かない。危ない遊び、いけない遊びなんてものは馬鹿がやることだと思っているし、やるにしても一緒にゲラゲラ笑える友人とやるのでなければ甲斐がないし面白くもない。そのはずだ。そのはずなのだが。
「……」
以前と同じくらいの時間、俺は再びあの路地に立っていた。切れかけていた街灯は修理されたのか、目に痛いほどの白い光が前よりもかなり明るく夜道を照らしていた。周囲を見渡す。なんてことのない、普通の住宅街だ。駅と学校の間、数十メートルの細い路地。人通りは少ないが皆無ではない。おかしなことが起こりそうな気配は微塵もなかった。細く息を吐き、踵を返す。
バカなことをして時間を無駄にしてしまった。駅前のレンタル屋でホラー映画でも借りて行こう。あまり詳しくはないがリアルゾンビの白昼夢よりゾンビ映画の名作のほうが間違いなく面白いし話の種にもなるだろう。ゾンビに襲われる幻覚の話なんてしたら心配されるか気味悪がられるかだ。妙な夢を追い求めるよりよほど建設的、かどうかは知らないが間違いなく健全だ。
駅に向かって歩き出す。その瞬間、地面に落ちた影が揺れる。チラリチラリと明滅する影。周囲の音が消える。いや、地の底から響くような呻き声がそこかしこから響く。家々の窓から投げ落とされる光でそれなりに明るかったはずの路地は、いつの間にか大半が深い闇に包まれていた。光源はすぐそばにある、ちらつく街灯のみ。おかしい。明らかな異常。この一本の街灯以外の明かりが全て消えている。数メートル先は星明かりも月明かりも一切ない無明の闇。
前回は気づいていなかったが、たぶん同じだ。違うのは、闇の先。滲み出るように現れた人影。かなり小柄な少女。闇に浮かび上がる、本当に血が通っているのか不安になるほどに白い肌。自ら光を放つような金色のショートカットが片目だけを覆い隠し、熱に浮かされたように潤んだ赤い瞳がじっとこちらを見つめ、やたらひらひらしたドレスっぽい服の上に「悪い魔法使い」を想起させる重苦しいローブを羽織った痩躯が揺れる。
人間ではないと、直感的にそう思った。しかしゆっくりと湧きだしたゾンビたちに比べればよほど人間的だ。俺が反射的に手を伸ばすと少女はさっと身を翻して駈け出してしまった。追いかけようとしたがゾンビたちに道を塞がれ、あっという間に見えなくなってしまった。何者かは知らないが、このゾンビたちと関係が有ることは間違いない。追わなければ、追って……追って、どうする?
一歩退くとその分ゾンビたちが距離を詰めてくる。ひとまずはこの場を切り抜けなければ。そう思った瞬間手の中に馴染んだ重さが現れる。まるで体の一部であるかのように自然に。ゾンビもそうだが、こいつもそうだ。ジリジリと後ずさりながら手元に視線を下ろす。随分使い込まれた感のある長柄の斧。目の前の状況を打開するために現れたかのようなこの斧も、意味不明という点ではゾンビの群れと同レベル。これもゾンビと関係があるのか、あの少女を追いかければ何か分かるだろうか。
これ以上関わるべきではないと理性は言う。あれは誘いだ。これ見よがしに姿を見せつけて、ゾンビたちに道を塞がせる。今回は退路を断たれていない。逃げようと思えば簡単に逃げられるだろう。だが、あの少女は言っているのだ、再びゾンビたちを皆殺しにして追ってこいと。それに乗れば恐らくはこの意味不明な状況に対して何かしらの進展は得られるだろう。しかしそれは俺を死地に追いやる罠かもしれない。
底なし沼のようなこの深い闇の中にとらわれて二度と戻れなくなるのではないか、そんな恐怖に心臓が激しく鼓動を刻む。じっとりとした冷や汗が背に張り付きこの上ない不快感を与えてくる。だが、進む。なぎ払い、振り下ろし、袈裟懸けに、柔らかい腐った肉体を溢れ出る腕力で蹂躙する。理性の制止も、死への恐怖も何もかもを突き抜ける感情があった。
歓喜だ。
かつて生きていたであろうものを、醜く生き足掻く不死を、無数の死そのものを、切り裂き、打ち砕き、バラバラにする。その快感たるや筆舌に尽くしがたい。切れ切れに笑いが漏れる。狂ったような、自分のものと思えないような声が耳に響く。ゾンビ共のくぐもった汚らしい断末魔、鳴り止まない鼓動の響きと混ざり合い、それは冒涜を形にしたかのような音楽だ。元よりそう大した数はいなかったのか、あっという間に蠢く影はなくなった。
一つ一つ、前方の街灯たちに火が灯る。どれもが切れかけ、頼りない光を投げかける。揺らめく炎のようなそれは本来の、現実にあるものではあり得ない。ゾンビたちの死骸は消えず、無様な最期の姿を地に晒し続けている。しっかりとアスファルトで舗装されていたはずの道路は、何十年もの間放置されていたかのように盛大にひび割れ、毒々しい色をした奇妙な植物が隙間から顔をのぞかせている。
街灯の明かりを頼りに歩き出す。それはただ一つの道筋を示しており、迷うはずなどなかった。生ぬるい風が吹き、街の景色が消え始める。地面はすっかりむき出しの土だけになり、住宅は闇に消え、街灯は切れかけた蛍光灯のものから、観光地にしかなさそうな、よく分からないけど洋風のガス灯らしきものに変わっている。完全な異界。こんな所は歩いてたどり着ける所にはない。絶対にだ。
もはや誘いではなく、招待というべきか。道なりに進んだ先には大きな洋館がそびえ立っていた。錆びついた重苦しい金属音を響かせながら正面の門扉が口を開ける。暗がりの中に浮かび上がる洋館はすべての窓に板が打ち付けられ、手入れされていない荒れ果てた庭を晒し、人の気配は全く無い。
だが間違いなく中にはあの子が待ち構えているのだろう。目的が何かはわからない……いや、ことここに至っては俺も理解し始めている。洋館の前庭に足を踏み入れた瞬間に脇から高速で駆けてくる犬のゾンビに、斧を持った右手とは逆の手に虚空から取り出したナタを投げつける。肩口にナタを受け粘質のよだれを撒き散らしながら転げるゾンビ犬に斧を振り降ろし止めを刺す。背後から迫っていたゾンビ犬も同様に処理。
頬に飛んだ腐汁を拭う。こみ上げてくる笑いを無理矢理に押さえつけるがこらえきれず、くぐもった声が喉から漏れ出す。たぶん今の俺はとんでもなくひどい顔をしている。恐らくこれは先ほどの少女の、熱に浮かされたような、頭のおかしくなったような狂った笑みと同種の貌だ。まあ、あちらは人形のように整った顔をしていたために、怪しくも美しい、妖艶さすら感じさせるものであったが、こちらは贔屓目に見ても中の上、普通の男子高校生。場合によっては通報モノだ。通報する人間なんかこの世界にはいないわけだが、できれば隠したい。そう思うとすっと視界が狭まる。顔に張り付いたそれを剥ぎ取ると、どこかで見たような薄汚れたホッケーマスクだった。流石に確信を得る。つまりはそういうものなのだろう。理屈はさっぱり分からないが。
幼いころに見たそれは、ある種のトラウマを俺の心に刻み込んでいたらしい。マスクの人殺し。圧倒的な力でもって人々を恐怖のどん底に叩き落し、やっとの思いで殺したと思っても、不死の肉体で蘇る。たぶん今の俺はそうなっている。見た目は変わりないが、すっかりバケモノに成り果てている。この高揚もそのせいなのか、あるいは精神は元のままなのか。分からない。しかしそんなことはどうでもいい。この衝動を叩きつけたい。ゾンビなどではなく、あの白い肌に。
重厚な木の扉を押し開けて、屋敷の中に乗り込む。エントランスは屋敷の外から見たよりもひどく広く、ここが異界であることを否応なしに理解させる。玄関扉は重苦しい音を立てながら勝手に閉まった。もう逃さない、と。そういうことであろうか。しかし逃げる気などはなからない。正面に向き直ると、エントランスを照らす巨大で豪華なシャンデリアに乗った無数の蝋燭の火が揺らめき、そこに影がさす。次の瞬間シャンデリアがその上に潜んでいたモノごと落下し、轟音とともにガラス片や蝋燭を撒き散らす。その火は不思議と古ぼけた絨毯に燃え移ることはなく、足元から頼りない明かりを寄越す。そこに浮かび上がるのは巨大な影だ。2メートル以上はあるだろうか。今までの一般的な体格のゾンビとは比べ物にならない筋骨隆々の大男、その肉体は腐り果て、所々からウジが湧き出しているが間違いなく今までのものとは質が違うことがうかがえる。
雷鳴のような咆哮が響く。巨漢ゾンビは吠え終わるとこちらに向かって突き進んできた。マスクをかぶり直し、両手で握った斧に力を込める。正面から、激突。質量差により当然吹き飛ばされるが構わない。タックルしてきた丸太のように太い腕が、千切れかかって揺れている。壁にたたきつけられ、呼吸が止まる。普段であれば悶絶して動けなくなっているだろう。骨の一本や二本も折れたかもしれない。しかし今は何の問題もない。息がつまろうが血が無くなろうが動ける。殺せる。だってそういうものだ。
怒り狂ったように、あるいは怯えたように叫び声を上げる巨漢ゾンビに今度はこちらから突撃する。千切れかけた腕を切り飛ばすと同時、振り回された腕に弾き飛ばされるが、絨毯に散らばった蝋燭を踏み砕きながらいくらか滑り、踏みとどまる。俺を叩き潰そうと迫る巨大な拳に正面から斧を叩きつける。全身が軋み、視界がチカチカと明滅するが、斧はゾンビの拳を半ばまで両断していた。斧を肉に埋めたまま腕が振り上げられ、体ごと持って行かれそうになったのでしかたなく離す。再び叩きつけられた拳を懐に飛び込んで躱し、腕を振り上げた時には既に握っていたナタを腐り崩れた顔面に振り下ろす。
額をかち割られ何かの汁を撒き散らしながら咆哮するゾンビから距離を取り、叩きつけで外れて吹き飛んだのであろう、壁際に転がっていた斧を手に取る。ぐちゃぐちゃになった太い指で苦労しながらナタを引きぬき、地面に叩きつけたゾンビに相対する。頭蓋の中身までもが露出しているが動きを止める気配はない。もっと完璧にすり潰してやるか切り飛ばす必要があるのだろう。屋敷全体が揺れるような大股で踏み込んできたゾンビに再び正面から斧を叩きつける。既にボロボロだった腕の手首から先を切り飛ばし、そのまま片足の膝を叩き割る。
苦し紛れに振り回した腕からはみ出し、砕け、鋭く尖った腕の骨が肩口を抉るが気にしない。横に回り込みながら執拗に膝を狙い続ける。喚きながら振り回される腕に吹き飛ばされ、流れ出た血で視界が半ば塞がれるがこれも構わず突撃。ついに片足を切り落とす。巨体が倒れ伏し、もがきながら立ち上がろうとするが片腕と片足を失った状態ではどうにもならない。
ゆっくりと正面に回り、顔面に向けて斧を振り下ろす。一度、二度、三度。巨漢ゾンビは、あっけないほどにすぐ動かなくなった。笑う。笑う。笑う。怪我の痛みも全く気にならない。これからのことを思えば全てが些事だ。屋敷の中の探索を開始する。外にいたものより遥かに俊敏に動くゾンビや、恐ろしく膂力の強い執事服姿のゾンビ、化学薬品らしきものをぶちまけてくるメイド服姿のゾンビなど、色々いた。いたが全て正面からねじ伏せた。ケガは驚くほどの速度で塞がったし、痛みもむしろ感情を高ぶらせるエッセンスでしかなかった。
鍵のかかった部屋の扉を叩き壊し、本棚を打ち壊し、隠し扉をこじ開け、地下への階段をズカズカと進んだ。壁にかけられたランプの頼りない光のなかでも全てを見通せる気がした。恐るべき全能感。俺は不死身の怪物だった。俺をここに招待してくれた彼女の趣向をこらした仕掛けの数々を力づくで踏み破り、ついには最奥に到達した。
かなりの広さの、豪華な部屋。天蓋付きのベッドに彼女は腰掛けていたが、扉をぶち破った俺にゆっくりと顔を向けると笑顔で立ち上がった。カベに等間隔で立てられた蝋燭の明かりの下、彼女は袖のあまり気味なドレスに包まれた両腕を差し伸べた。まるで抱擁するかのように。まるで死を迎え入れるかのように。狂った笑顔と熱に浮かされた瞳。マスクの下の俺の顔と間違いなく同じ表情。
「いらっしゃい、待ってたよ」
「来たぞ。何もかも踏み潰して。不死身の怪物が」
「あなたは、そう、モンスターなんだ。素敵だね。私は人間だよ。ゾンビ使いの、世界の主。だけど人間。あなたをずっと探してた」
なにも分からぬままに、ただ本能の叫ぶままに。恋人との逢瀬を楽しむかのような彼女の前に立った。俺の肩ほどまでしかない小さな彼女はとてとてと俺に近寄るとギュッと抱きついてきた。ゾンビの冷たさとは違うやわらかな温もりに包まれる。上を向いた彼女とマスク越しに目が合う。ニヘラと笑った彼女の肩を掴み、引き剥がす。彼女は笑みを深めた。これからなにが起こるのかと期待している。これからどうしてくれるのかと想っている。これからどうされるのか理解っている。狂った笑みだ。愛おしさすら感じた。一目惚れというやつなのだろうか。
左腕で彼女を突き飛ばし、その瞬間虚空から取り出したナタを袈裟懸けに振り下ろした。細くやわらかな彼女の体はいとも簡単に引き裂かれ、片腕は千切れ飛び、開いた腹から臓物が溢れた。
「あっ」
不意に恋人に口付けされた、そんなリアクション。少しの困惑と遥かに大きな喜び、そしてその後のコトへの期待と媚を含んだような甘えた声だった。噴水のように血を流しながら軽い音を立てて倒れた彼女に馬乗りになる。腕の断面を素手で刳り、臓物を引きずり出し、吐き出される嬌声と血を浴びて酔う。足を少しずつ削いでいると彼女は残った片腕で俺の頭を抱き寄せ、マスクにキスをした。これが俺たちの交合だった。
気づくと俺は例の路地から少しだけ離れたところにある児童公園に突っ立っていた。乗るものもいないのに小さく揺れるブランコが小さく軋む音を立てていた。足元に転がっている鞄からスマホを取り出すと時刻は既に深夜を回り、終電がなくなったところだった。家族から何件か着信もはいっている。とりあえず、終電過ぎたので明日帰る旨をメールすると、漫喫で夜を明かした。
始発で帰宅し、軽く怒られながらもシャワーを浴びて、支度をし、学校へ向かう。いつものように、いや、いくらか寝不足でボケた頭で授業を受け、いつものように終わる。何もかもが夢のようだった。傷も何もなかったし、マスクも、斧も、ナタもどこにもなかった。だがやはりこれまで以上にすっきりした感覚を覚える。なんだかよく分からないが、まあ、いいや。忘れるほかないだろう。彼女にもう一度あってみたいと思ったが、夢のなかで出会っただけの女の子に恋をして、など有り体に言って頭おかしいしまさしく夢見がち過ぎる。
家路につき、いつもの道を通る。のんびりと晴れたいい陽気。ゾンビなんかが出てきたら一瞬で昇天してしまうだろう。少しこの辺をぶらぶら散歩でもしてみるか、なんて、未練がましいことを思っていると、後ろからとてとてと軽い足音が近づいてきた。足音はそのまま俺を追い抜いていく。近所の私立の女子中学校だったか、たぶんそんな感じのとこの生徒。小柄な少女が、俺の前で振り向いた。校則が緩やかなのか、鮮やかに染められた金髪の、片目だけを覆い隠したショートヘア。反対側の瞳がじっと俺を見上げた。
驚いた俺の顔を見てイタズラが成功したと笑う彼女は、あの異界で見た時とは随分と印象が違った。妖艶な雰囲気などはなく、単に可愛らしい少女だった。
「こんにちは私の怪物さん」
「こんにちは……ええと、俺の人間ちゃん?」
挨拶されたのでとりあえず返す。正直どう接していいか分からない。夢か、幻覚かなんかだと思っていたのに。
「お兄さん、ちょっと引き気味だね。寂しいなあ。あの夜はあんなに激しかったのに」
「人聞きの悪い事言わないでくれよ」
知り合いに聞かれたらロリコン犯罪者扱いまちがいなしである。あまり気味の袖を口に当て、クスクスと笑う彼女は非常に楽しげで、それに俺も少し釣られていた。
「わかってると思うんだけど、私はああいうのが好きで、一緒に楽しく遊べそうな人、ずっと探してたんだ。お兄さんは最高だよ。……だからさ、ええと、お友達に、なって、欲しいな。うん、どうかな」
お友達というのが、なんとも言えない含みを感じさせるが、少しだけ不安そうに彼女は言った。彼女の言い分は何となく分かる。アレがどういうものかは結局わからないままだが、とりあえず俺たち二人にとって酷く都合のいいものだということは確かなようだった。そうでなければ俺と彼女が再びこうして対面し、談笑するようなことは二度となかっただろうから。だが……
「いや、ええと、あの時は俺もちょっとどうかしててさ。ああいうのはちょっと、ヤバイっていうか。駄目でしょ」
駄目なのもヤバイのもたぶん俺。いや、二人ともなのだろうが、ここで安易に頷けばどこまでも深みにズッポリとはまっていってしまうような気がしたのだ。
「ウソ。駄目じゃないし、好きでしょ? すっごく興奮してたし、あのまま“使われちゃう”かと思ってドキドキしてたんだよ?」
使う、はともかく、アレで酷く興奮していたのは確かだ。……嫌悪感はある。罪悪感も。あんなことをした自分が信じられなかったし、雰囲気に飲まれて頭がおかしくなっていたのも間違いない。だがそれ以上の快楽を感じていた。もう一度アレができると言われ、相手もそれを望んでいて、どうして捨てることができるだろう。
「お兄さんはそういう生き物なんだよ。私と同じ。みんなおかしいって言うだろうけど、私だけは味方だよ」
すっと体を寄せ、耳元で彼女は囁いた。悪魔の誘惑とはこういうものなのだろうか。たらりと冷や汗を流す俺を彼女はにこにこしながら見つめていた。
「あー、そうだな。……ひとまずは、一緒にレンタルビデオ屋に行って、ホラー映画でも借りてこよう。んで一緒に見よう。そのへんから始めるのはどうだろう」
彼女はきょとんとした顔をしたが、すぐにニンマリと顔を歪め、俺の片腕に飛びついてきた。
「それじゃあ、これからよろしくね、お兄さん!」
彼女の温もりと柔らかさ、早くなっていく鼓動に衝動を感じながら、俺はもう自分がつま先から頭まで泥沼に浸かっていたことにようやく気づくのだった。二人でビデオ屋に行ったのがクラスの誰かに見られていたらしく、翌日から俺のあだ名はロリコンになっていた。実態は彼らの想像の遥か斜め下を行く惨状だった。でもまあ可愛いし、なんでもいいや。
長編が書けないなら短編書けばいいじゃないということで書いてみました。続きは書けそうな気もしますがやっぱり挫折しそうなので一話完結ということで。能力バトル長編を書こうとした名残がありますが細かい設定にあんま意味ないのでお気になさらず。可愛いロリっ子とイチャイチャできればそれでいいのです。