世界を開く議論、世界を閉ざす議論
「論破する」と言う言葉を聞く機会が増えた。そんな気がする。私はこの言葉が苦手だ。論破する、論破した……そういう言葉を聞くたびに、少し寂しい気持ちになってしまう。
私は議論が好きだ。大好きだと言ってもいいと思う。しかし、議論をするときに論破しようと考えることはまずない。議論に勝ち負けなんてないと思っている。もし議論が勝ち負けを競うゲームのような性質のものだとしたら、私はそんなものをやりたいとは全く思わないだろう。
私にとって議論とは、分かりあうために行うものなのだ。それは決して下品な罵倒や中傷をやりとりするものではない。私とあなたの間にある認識の隙間、それを言葉を尽くすことで埋めていきたい……それによって、お互いの事を良く知り、意見を良く知り、共存できなかったはずの二つの意見の中から共存可能な新たな結論を作り出す、そんな素敵な行為が「議論」なのだと、私は信じている。
だから私にとって、論破とはつまり「失敗」を意味する。論破するというのは、相手の意見に無価値を叩きつけ、自分の意見を結論として祭り上げることに他ならない。それでは新しいものは何も生まれてこない。
論破を好む人は、自分の意見は絶対正しくて、相手の意見は間違っているのだから、教えてあげなければならないという義務感の中で戦っているように私には見える。それはある意味ではやさしさと言うべきものなのかもしれないとも思う。
もちろん、自分のプライドを守るために他人を攻撃したい、と言う人もいるだろう。特にインターネットと言う顔の見えないコミュニケーションにおいては、他者は一つの記号として認識される。画面の向こうに生身の人間がいることを忘れて、軽い気持ちで他者と相対し、意見を交わし、そして時には「論破」することが出来る。そういうある意味で「無色透明」な他者と言うのは貴重だ。どれだけ攻撃してもそのことによって自分が何か責任を負うというリスクは冒さずに済むし、もし失敗すれば逃げ出すことが許される。相手を傷つけているという罪悪感に苛まれることなく、お手軽に自尊心を高揚させられる。とってもとってもお手軽だ。顔の見える友人には言えないことも、簡単に言える。インターネット上での『議論』を見ると、そのたびに、私は憂鬱になる。
時には、表面的に「論破」を成功させるための詭弁やテクニックが駆使されることもある。そういうものは私を一層悲しい気持ちにさせる。それは一見すると、勝つためのテクニックの様に見えることもあるかもしれない。しかしその実態は「議論を破たんさせるための禁じ手」であることがほとんどであると、私は感じてしまう。
例えば、相手の揚げ足をとったり、論理の曖昧性、脆弱性を指摘して「貴方は間違っている」と言う事を執拗に主張し、相対的に自分の方が正当であると主張する行為。時として「相手自体を中傷し、その権威を失墜させることで論理の説得力をも貶める」と言う行為も見受けられる。そのようなものは人身攻撃と呼ばれる、立派な詭弁だ。そうして相手を追い込み、反論を封じて擬似的に「勝利」を掴むという行為には、本質を置き去りにした寂しさがある。そうして「論破された人」と言うのは負けたわけではない。ほとんどの場合「この人とは話にならない、もう良いや」と匙を投げてしまったように見える。ここに一つのコミュニケーションが、死んだ。
しかし、私は議論が好きなのだ。決して相手を負かすためではない議論が好きなのだ。分かりあうための議論が、相手の何が間違っているかではなく、相手の何が正しいのかを探りあう議論が大好きなのだ。
とても気持ちの良い議論と言うものが存在する。お互いが違う意見を持ち寄って、真摯に耳を傾け合い、考えたこともなかったものの考え方や価値観に触れて、新しい可能性に出会い、新鮮な気持ちで別れる。そういう素晴らしい経験が、人生で何度かあった。私はそれが忘れられない。
議論において必要なことは、しゃべることより聞くことだと思うのだ。この点私はしゃべりすぎてしまう傾向があり、その点は反省しなければならないと思っているが、それでも相手の意見や言葉を、それを支える価値観を、通したい論理を、一つ一つつぶさに確認していこうという気持ちは何よりも大事にしている。
曖昧なところや納得できないところがあれば、自分の価値観で処理してしまわない。相手は明確に、納得して話をしているはずなのだ。少なくとも、私が私に対してそうだと確信しているのと同じ程度には。
おそらくそこに発生している伝達の不備や納得不成立の原因と言うのは、我々のどちらかではなく、その中間に横たわっている。多くの場合、お互いに想定している前提条件や、ある物事に対しての「感じ方」、それから複数の要素に対しての「重点の置き方」が食い違っていることが、我々の間で理解を邪魔することが多い。
例えば、音楽家と証券マンの二人が会話していたとして、この二人の間で「最高の幸せとは何か」と言う話になったとする。この二人にとって、生活を取り巻く環境は何もかもが違うだろう。生活のスタイルも、仕事の性質も、それによって普段何を見て、何を感じ、何を考えているかも……
だから音楽家の言葉は、時として証券マンを混乱させるかもしれない。逆もまた然りだ。だけどそのときに「貴方は間違っている」と言い始めたら、話は終わってしまうのだ。
相手の言葉に真摯に耳を傾けて「なるほど、そういう風に考えている人もいるんだ」と、「それをそれとして」受け入れることが必要になることがある。自分が見ている世界は、あくまで自分のものでしかないことには自覚的にならなければならない。イスラム教徒が複数人の妻を持ったからと言って彼らの愛が偽物だとは言えないし、土足で家に上がることは必ずしも汚い行為ではないのだ。日本人である自分が、一夫一婦制の下で、靴を脱いで家に上がる文化圏で育っただけのことだ。そうでない人が無数にいるし、そうでない人にはそうでない人の物の見方、感じ方、考え方が備わっている。そういう自己に対する相対的な感覚を大切にしたい。
彼らの考え方を「理解しよう」と言う行為は、時として危険だ。それは「自分の価値観の中で」と言う前提をはらみ持っていることがある。「理解する」と言う行為は、自分の持っている材料だけで、特定の事実を切り刻むと言う性質を持つ。多くの物事は、そのように自分の経験と知識の中に吸収することで効率的に取り扱うことが確かに可能だ。しかし、それでは取りこぼしてしまうものもある。自分の持つのと全く違う前提の下で養われた概念が、自分の手持ちの材料では理解不可能だという事も良くあるのだ。だからこそ、我々は「それをそれとして」受け入れる必要がある。
どんなに頑張っても、私には生きたままの蛙を食べる、と言う行為は理解できない。「栄養の乏しいジャングルでは貴重なタンパク源だ」と言う説明は論理的であるが、それは私に、蛙を日常的に食べる人々を理解することを助けない。彼らは、私が「発酵した豆」を食べることに抵抗を感じないように、生きた蛙に抵抗を感じないのだろう。その感覚は「そういうものなのだろう」以上の理解を、彼らと前提を共有しない私にもたらすことはない。
複数の要素に対しての「重点の置き方」についても同じである。全く違う環境で育っていれば、大事だと感じることの優先順位は変わってくる。我々が砂漠の民族と同じだけ水を貴重だと思えないように、人によって大切だと考えることは違っている。自分が大切だと思うものを他人もそう考えていて当然だ、と言う傲慢さをどこかで誰かに押し付けていないか?その点にも注意しなければならない。大切なものは人によって違うのだから。
このような共通理解の難しさと言うものは、逆に言えば多くの可能性を含んでいる。その分真摯に、丁寧に議論を重ね、お互いがお互いの感覚を、価値観を「そういうもの」として受け入れていけば、そこには今まで知らなかった世界が顔をのぞかせることになる。一人で生きていては絶対に見えなかったものを、見る機会を与えてもらえるのだ。
充実した議論の後、私は新しい私になる。過去の私に見えなかった世界の歪さに気付くこともあるが、逆にその美しさが見えることもある。その新鮮さは私の凝り固まった思考を解きほぐし、また色々なことを考えてみようという気にさせてくれる。
そんな議論が、私は好きだ。
熱くなって突っ走ることはあるものの、少しでも相手を受け入れる議論がしたいですね。