タヌキもどき その1
ウズナは、深い深い山奥に、たった一人で住んでいたが、とある事情により、山を下り、人里で暮らし始めていた。
身寄りのなかったウズナは、修道院を頼り、そこで暮らすようになった。
「もし、神父様」
修道院には、旅の者を受け入れる義務が課せられていた。異教徒の者であっても、その慈悲は、広く開かれていた。傷があれば癒し、空腹であればそれを満たし、冷たい雨風が吹き荒れれば、それを防ぐ。
それが、この国で最も信仰されている、サリア教の教えであった。
この神父と呼ばれた青年も、修道院とは袂を分かった、異教徒であったが、この数日、身を寄せていた。
青年の持っていた薬は、どれも見事な調合であり、かつ無償で周囲の住民に配っていたため、余所者、異教徒であるにも関わらず、絶えず声を掛けられる存在となっていた。
しかし、この理由は、些細な事に過ぎない。
青年は、並はずれて優れた容姿の持ち主であった。
ネズミの尾のように、一点だけ伸ばされた髪は、風が吹く度に、ふわりと浮きあがり、それに肌を撫でられれば、その人間は、数日間、感触を忘れられず、赤面した。
白く透き通るような肌は、朝の僅かな光も、縋りつかんばかりに、光の線を何本も纏っていた。青と緑が混じった瞳は、海と森を溶かしたようだ。神々の玩具となるはずだった宝石を、その整えられた容姿故に、それを飾る一部にはめ込まれた、と、二つの輝きは尊ばれた。神々の宝を通して世が見えるようにと願われるほど、神々に愛されたと、噂がたった。色素の薄い、歪んだ形の唇すら、彼の美貌に艶やかさを彩る、光り輝く素材になったのだ。
背が高く、痩せているが、どんな時も率先して労働に加わり、決して疲れを顔に出さない姿は、頼りがいのある働き者として、人々の目に深く根付いた。
女顔だが、声は低く、背は高い。だが、体毛は薄い。
若い娘達にとって、あまりにも理想的な人間が、生身となって、現れた。
青年の傍には、いつの間にか、若い娘がいるという事が多かった。
娘たちは皆、抜け駆けはしないと、暗黙のルールを設け、誰が、いつ、どれくらいの間、青年の傍にいたか、目を凝らして、確認し合っていた。
しかし、たった一人だけ、そんな協定に参加しなかった者がいた。
それが、ウズナだ。
ウズナは、国の中心にほど近く、密集した住宅の傍にある、青年が身を寄せていた修道院とはまた別の、それなりに大きな修道院に身を寄せていた。
修道院で働く女性たちは、顔をほとんど隠し、肌を決して出さないように、首も、手首も覆い、地面に擦れそうなほど長いスカートを履いていた。
動きにくい姿での労働は、大きな負担であったが、ウズナは平気だった。
ウズナは、肌を出すわけにはいかなかった。
青年は、ウズナを気にする事はなかった。ウズナは、青年に興味を持っていたが、労働を優先した。
二人が話し合えたのは、それから、何日も過ぎた後だった。
かつて、この世を支配した病があった。
その病自体の感染力は弱かったが、患者は、増加の一途を辿った。潜伏期間が長いのだ。目に見える症状が出ないため、知らず知らずの内に、進行し、ある日突然、感染していたと告げられる事が多かった。
人々は疑心暗鬼にかられ、家族や友人に、近寄る事を拒み始めた。
些細なケガや病気にかかっても、医者という他人に会う事を恐れ、悪化してしまった末に、寝たきりになる事態も起きた。
人口が減り、取り締まる人間も、教育を授ける人間も、食べ物を作る人間も、娯楽を届ける人間も、消え失せていった。
暴力は繰り広げられ、苛立ちを抑える術も知らされず、考える材料となる知識も、奪い取られ、飢えに体の支配を乗っ取られた。生きる事に必死で、余裕など、言葉に出す事すら、タブー視された。
治療法が分からぬまま、墓の数ばかりが増えていく状況に、人々は、飢えと恐怖から、思考を少しずつ捨て、暴力的な人間、目に見える力を誇示する存在の後についていくようになってしまった。
思考を奪われた人間には、目を奪う、より衝撃的な光景を作り出した存在こそ、頼りになる、この状況を変えられる力の持ち主だと、過信し、崇めた。
いや、もしかしたら、信じたのではなく、早く、楽になれる方へ行ったに過ぎないのかもしれない。
それまでの身分、金も、関係なかった。
崇められた者の中には、それら全てを持っていなかった人間も少なくなかった。
それが、かつて自分より、何もかも恵まれ、裕福で、言葉すら通じないような別世界に生活していた者が、自分から、頭を下げたのだ。
彼らは新たな快楽を見出し、より強い刺激を与える事に躍起になった。
人々は、絶えず狂信的な信仰活動に、あるいは、無秩序に快楽に走るようになった。
病は、人類を滅ぼす為に遣わされた、かに見えた。
そんな過酷な時代であろうとも、子どもは産まれてきた。
病はやがて、疲弊し、人々の数に追いつけなくなり、静かに去っていった。
人々の数は増え、何事もなかったかのように、形を整えられた。
暴力を振った側と足を引きずる側、従わせた側と従った側、女をもらった側と娘を奪われた側、皆同じ村に置かれ、隣で畑を耕した。
食糧難により、これまで全く違う仕事をしていた者、体の弱さや財産に関係なく、農業に従事するよう、国が命じたのだ。
病は消えた。
暴力を生き延びたという事実は、その次に与えられた役割に対し、安堵を覚えさせた。疲弊しきった思考を使い続けた民は、考える力を取り戻せないまま、畑を耕した。
だが、一人だけ、この病について、研究を続けた男がいた。
彼は、以前、異国で大成功を納め、裕福だった。
病で人々が苦しんでいた時も、異国との繋がりにより、すぐに、外国へ逃げた。
病が沈静化し始めた頃に、戻ってきたが、それからは研究を始めたのだ。
暴徒の盗みを恐れ、病を研究しているなど、デマの噂を流したのではないかとささやかれたが、たった一人で死体が積まれた墓地、誰も行かず、何キロも離れた場所に見張りが立っている場所に入った姿が幾度も目撃され、どんな過激派でも、彼の家に盗みに入る事はなかった。
彼は、命知らずにも、研究に夢中になった。
そして、ある実験を開始した。野良犬、猫、オオカミ、ウサギ……動物たちを捕獲しては、病を植え付け、その死に行く様を、詳細に書き留め始めた。何年も続けながら、同時に、溢れんばかりに増えた浮浪児を集め、金と食事で釣り、その小さな体を、自分の代わりに実験室へ送り込み、病を植え付けたのだ。
彼は自分が特別残酷であるとは思っていなかった。
自分が生き延びなければ、これから、何百、何千と救える命を、救えなくなると信じ切っていた。
この病を解明できるのは、この世で自分だけなのだと、絶対の自信が、彼の、自分の行動への疑問を、打ち消していた。
彼は何度も繰り返した。地下に横たわる浮浪児は、やがて、何重にも重なり合うようになった。
成功の兆しは見えなかったが、彼なりの根拠は形を表し始めていた。
だが、彼の罪は白日の下に晒された。
彼は、成功者ではなく、猟奇的な犯罪者として、歴史を飾り、人生を終えた。
重なり合う浮浪児が運び出される事なく、そのまま燃やされようとしていた時、人々の目を盗んで、群衆に紛れ込み、走り抜けていった。
薄汚れた髪を振り乱し、油の匂いも、炎が弾ける音も届かない場所へと、後ろを決して振り返る事無く、必死で体を跳ねさせた。
それからたった一人で、山に入り、国にも、政治にも関与しない、原住民の仲間に入れてもらえるよう、懇願した。
そこで生活する人々と助け合い、家族として新たに生き始めた。
病が、自分の中に芽吹いていると知らぬまま、時が過ぎた。