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092 ありがとう

「マリー、ありがとう」


 不意にヨハンは言った。

 マリーは黙ったまま、ヨハンを見つめる。


「君がいてくれなければ、僕はこの物語を終わらせることは出来なかった。君には迷惑をかけたけど――――僕は君でよかった」


 マリーは、しばらく黙ったまま夜空を仰いでいた。

 しかし不意に、マリーも口を開いた。


「ねぇ、ヨハン――――私、きっとあなたに会わなければ、“ボロニア”でずっと御伽噺(おとぎばなし)を夢見ている少女だったわ。少し強引で、それに無理やりだったけど、それでも私もあなたに出会えてよかったと思う。だって、私が夢見ていた御伽噺の世界よりも、この世界はずっと美しくて、幻想的で、とても衝撃的なんだもの」


 マリーは一旦言葉を止め、ヨハンをもう一度、始めて出会った時のような瞳で見つめた後――――口を開いた。


「――――ありがとう」


 その言葉を聞いたヨハンは安心したように笑顔を浮かべ、そして倒れるようにマリーに(もた)れ掛かった。


「ヨハン、どうしたの?」


 マリーは表情を変えて、ヨハンの顔を覗き込んだ。

 ヨハンは、穏やかな顔で瞳を閉じている。


「ヨハン?」


 先程の光景が脳裏に過ぎり、マリーはヨハンを揺すった。


「なに、大丈夫さ――――」


 ヨハンは疲れたように言った。


「実は、魔力を使い果たしていて、もう箒を操る魔力も残っていないんだ。自前の“アーティファク”も、もう全部壊れてしまっていて」


 ヨハンは力なく言って言葉を止めた。


 そして、ヨハンとマリーが乗っている箒も最後の力を使い果たしたのか、美しかった柄が真っ二つに割れ、地面に向かって落ちて行った。


 二人はふわふわと夜空を浮かび、まるで風に舞う花びらのように宙に浮かんでいた。


「これから、私たちはどうなるの?」


 マリーは特に気にした様子もなく尋ねた。


「しばらくはここに溢れる魔力の波に乗って風の上を漂えるけど、いつまでもつかは分からないよ」


「そう」


 マリーは穏やかな顔で頷いた。


「風を漂うなんて素敵ね――――なんだか翼が生えたみたい」


 マリーは無重力状態で空に浮かんでいる二人と、少しだけ赤らみ始めた東の空を眺めて、うっとりと言った。


「君は考えなしだな――――魔力が尽きたら地面に真っ逆さまに落っこちるんだよ?」


「大丈夫よ。何とかなる気がするの」


 マリーは微笑みを浮かべてヨハンを見つめた。


「それに、あなたとだったら、このまま空を漂い続けるのも悪くはないわ」


 マリーは東の暁に瞳を向けた。


 黄金色の地平線と紺碧の夜空――――二つの世界が織り成す二重奏は、美しく夜明けの旋律を奏でていた。太陽が物語の終わりを告げるようにゆっくりと顔を覗かせ、朝を告げる雲雀が目覚めはじめ、東から吹く春の風に煽られて、マリーは思い出したように口を開いた。


「もう直ぐボロニアの収穫祭だわ。小さな町だけど、とっても賑やかで綺麗なのよ。あなたにも見せあげたいわ」


 暫く、沈黙が二人を包み、そして――――


「マリー、ボロニアに帰りたい?」


 ヨハンは静かに尋ねた。


「ええ、もちろん帰るわ」


 振り返ったマリーは和やかな表情で答えた。


「ああ、君には帰る場所がある」


「ええ、けど“アレクサンドリア”にも帰りたいわ」


 マリーは嬉しそうに続けた。


「それに、まだ世界には見てないものがたくさんあるわ。妖精だって、ホビットだって、それにエルフも――――他の大陸にも入ってみたい。それに、あなたの故郷にも行きたいわ」


「そうだね」


 ヨハンは、言葉の高揚を抑えきれずに言った。


「ああ、それと」


 マリーは、思い出したように言葉を付け加えた。


「ドラゴンも」


「ドラゴン?」


 ヨハンは瞳を丸くしました。


「これから一緒に色々なものをゆっくり見て回りましょう。だって、私たちの世界は始まったばかりなんだから」


 マリーはつい先程ヨハンにかけられた言葉を、そのままヨハンに返した。


 ヨハンは胸から込み上げる暖かな気持ちに胸が膨らみ、しばらく口を開くことが出来ずにいた。


 ヨハンが黙っていると、不意に二人の体を覆っていた魔力の風が解け――――糸の切れた風船のように、二人の体が風に(あお)られた。


 二人は互いの手を強く握り合い、瞳を重ね合った。


 一瞬、世界が静止した後――――二人は地面に向かって落ちて行った。



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