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080 振りかざされた杖

 ユダは高らかに告げたその言葉と共に動き出した。


 いつの間にか、その手には長い黒檀の杖を握り――――そして、ユダはその杖を地面に一突きした。


 杖から波紋のように広がった魔力の波は、ヨハンを襲う衝撃波となり――――ヨハンは魔力の波を手にした笛で一閃、何事もなかったようにかき消してみせた。


 そして、次にヨハンがユダに視線を移すと、そこはすでに無人の空間だった。


「―――――、ッ?」


 ヨハンは咄嗟に魔力の乱れた地面に視線を向ける――――


 すると、そこにあるヨハンの黒い影は、突如として縦長に伸び、風船のよう膨らんだ。


 膨らんだ影からは触手のようなものがいくつか伸び、その切っ先は槍のように鋭く尖り、先端がヨハンに向けて一斉に動き始めた。いくつもの触手の間を縫うように、ヨハンは素早く攻撃を交わし、辺りを逃げ回った。しかし影はヨハンの足から伸びており、いくら逃げても後から追ってくる。


 ヨハンは小声で単語をいくつか唱え、自分の影を炭のような粉に変えてしまうと――――離れた場所でこちらを睨みつけるユダに向かって、ヨハンは魔法を唱えた。


 するとユダの周囲で光が渦を巻き、その光はユダを飲み込もうと大きな口を開けた。

 開いた口は――――大鷲の(くちばし)のように、勢い良くユダに襲い掛かる。


「ぬるい」


 ユダは大鷲の嘴を見据え、杖で地面を叩く。地面から伸びる無数の影の槍が、即座に大鷲の嘴を串刺す。そして貫かれた嘴は、すぐさま姿を大潮の大波へと変え、大波はユダを飲み込んで激流の中に流してしまいった。


 ヨハンは波の中に視線を泳がせ、ユダの姿を追った。そして激流の中にユダの姿を見つけたが、ユダはたいしたことがないといった様に、波の中を我が物顔でゆったりと佇んでいた。


 刹那――――


 ユダは波の中からヨハンに向かって禍々しい笑みを浮かべてみせた。


 その浮かべた笑みがヨハンの脳裏から消えぬまま、ユダの体は突如膨らみ、そのまま風船が割れるように弾けてしまった。風船が弾けた轟音とともに、ヨハンの魔法の大潮は消え去り――――辺りには弾けたユダの白い破片が散らばっていた。


 ヨハンは散らばった破片に神経を尖らせながら、それらに視線を配る。


 すると散らばったユダの破片はもぞもぞと動き出し、やがてまた風船のように膨らんで、ふわふわとしたと人の形を形成した。


 いくつもの白い風船人形たちは立ち上がり、一斉にヨハンを睨みつけた。


 風船人形たちはガチガチと壊れたおもちゃのように動き出し、ヨハンへと向かって行く――――ヨハンは風船人形たちに捕まらぬように華麗にステップを踏み、まるで舞踏をしているかのように風船人形の追跡を躱していった。


 しかし、余りにも数が多すぎるため、一回風船人形の攻撃を躱すたたびにヨハンの動けるスペースは狭くなり、最終的には自分のマントが広げられる程度の空間しか残らなかった。


「チッ、やり辛いな?」


 咄嗟に、ヨハンは上に逃れようかと視線を上空に向けた。


 ヨハンが見上げた夜空には、月の写らぬ夜の銀幕が物語に水を差さぬように、静かに深いしじまを保っていた。しかし、ヨハンの瞳に夜空が写ったのはほんの一瞬だった。


 瞬き一回程度の僅か時が流れた後、ヨハンの瞳に写ったのは白い風船人形たちが上空から覆いかぶさってくる光景だった。


 ヨハンはもがくことすら適わず、風船人形たちに飲み込まれてしまった。そして、ヨハンを飲み込んだ風船人形たちは動きを止めず、次から次へとヨハンの上に覆いかぶさって行く――――ざっと数えても百は超えているだろう風船人形たちが集まると、それは山のように大きく積み上げられ、ヨハンはその山の一番下で下敷きにされてしまった。


 マリーはその光景に、必死に歯を食いしばり、掌に血が滲むほど強く手を握って、ただ静かに息を殺して見守っていた。


 暫く、静寂が漂った後――――風船人形たちが、ぼこぼことお湯が沸騰するように膨らんだり縮んだりを始めた。そして風船人形たちの山の間から、突如黒い翼のようなものが突き出し、突き出た翼は大きく広がり、空に飛び上がろうと力強く羽ばたいた。翼に弾かれ、風船人形たちは次から次へと辺りに飛ばされ、元のユダの破片へと戻っていった。


 そして、空に舞い上がったヨハンは、黒い翼からマントに戻ったそれを翻し、ゆっくりと地面に足を付けた。


 一方、白い破片が一つに集まり元の姿に戻ったユダは、目にかかる草臥れた白髪をかき上げながら、血の赤よりもなお赤い唇を、三日月のように弧を描いて不気味な笑みを浮かべてみせた。


「見事。あの頃のアフロディーテを彷彿させる――――全盛期の私たちに勝るとも劣らぬ」


「あなたこそ、そんな老いぼれの体に鞭を打ってよくやる」


 ヨハンは皮肉を込めてそう言った。

 その言葉を受けて、ユダは更に深い笑みを浮かべた。


「言ってくれる。全く若さとは良い、恐れを知らん。それでいて、知識を得ることに貪欲だ。貴様のような魔法使いがいるのなら、この世界は理を見失わずに済むのかもしれんな?」



「そう思うのならば、そろそろ引退したほうがいい。あなたが思うほど――――この世界の人達は盲目ではない」


「だが、そうもいかないのだ。私は長い間、苦しみの中を歩いてきた。凍えるほどに寒く、険しい長い道を――――だから、もう一度だけ、あの頃の篝火(かがりび)に身を委ねたいのだ。それに、貴様には聞こえぬか?」


 ユダは目を瞑り、耳を澄ませた。


「このキャメロットから響く悲しみの声が――――この声が私に語りかけるのだよ」


 ヨハンも耳を澄ませ、この魔力のざわめきに耳を傾けた。


「僕には、そうは聞こえないね。この地は、キャメロットは悲しんでいる。こんなことは望んでいない――――本当は分かっているんだろう?」


 ヨハンは表情を歪めて尋ねる。


「こんなやり方では、世界は変わらないし、この地で亡くなった多くの魔法使いも浮かばれないと――――あなたは分かっているはずだ」


「そうかもしれんな? もしかしたら、全て貴様の言う通りなのかもしれん――――しかし私には、もうこの杖をしまう機が見つからないのだよ」


 ユダは苦しそうな表情で、自らの杖を振りかざしてみせた。


 すると夜の闇が激しく振動し、夜空からまるで星座が崩れたように、次から次へと星が降ってきた。


「だったら、僕がその杖のしまう機を教えよう――――」



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