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071 千年の後

「ロキっ」


 ヨハンは直ぐにロキの元に駆け寄った。そして寄り添い、体を震わせてロキを見つめた。

 ロキは瞳を開くことなく――――ぜぇぜぇと苦しそうに息をしていた。


「何で、何でこんなことをしたんだ? 僕たちの契約外の魔力を使えば、君は――――」


「分かっていることは言うな。これしか、方法が無かったからだ」


「そんなこと、僕と君が力を合わせればどうにか出来たさ――――君が出しゃばらなければ、きっと上手くいった」


「無茶を言うな。もう魔力など残ってもいないせに――――それより上手く空間は繋げたのか?」


「そんなこと、愚問さ――――」


 ヨハンは精一杯平静を装い、言葉を続けようとした。

 しかしヨハンの言葉は途切れ、言葉の変わりに落ちたのは一筋の涙だった。


「僕は高名な、てん、さい、魔法使いだ。あれ、くらい、わけ、ないさ」


「これで、全てが整っただろう」


 ロキは擦れた声で優しくヨハンに告げた。


「ああ。これから君とアルバトロスに潜入して、マリーを助け出す。それに君のおかげで、やはり黒幕はキャメロットの魔法使い――――ユダだって確信が持てた。全て、僕たちの筋書き通りだ」


「そうじゃない」


 必死に言葉を発するヨハンに、ロキは穏やかに、そして説き伏せるように言葉を続けた。


「お前と私が交わした“血の契約”が切れれば、お前が私に分け与えた、お前の大半の魔力が戻る。そうすれば、ヨハン――――お前は、マリーを救うことが出来る。今、お前は大いなる力の代償を払った。後は責任を果たすだけだ――――全て私たちの筋書き通りだろう?」


「違うっ」


 ヨハンは声を荒げました。


「君を失っての筋書きなんて――――僕は用意した覚えは無い」


 ヨハンの顔は涙で歪み、悲しみの影が色濃く浮かぶ上がっていた。


「ヨハン――――もともとお前に拾われた命だ。私は、もう黄昏(たそがれ)だ。お前が気に病み、悲しむ必要は無い」


「頼む、ロキ――――行かないでくれ。僕を、置いてかないでよ」


 言葉にならぬ声と言葉で、ヨハンは懇願するように一人言葉を続ける。


「僕を、一人にしないでよ。ずっと、共に歩もうってあの森で約束しただろう? 覚えてるかい? 僕たちが始めに出会った、あの森を――――先生と一緒に暮らしていた、眠りの森を」


「ああ」


 ロキは力なく頷いた。


「僕は、友達が欲しかったんだ、ずっと先生と二人きりだったから、だから、君を見つけたとき嬉しくて――――」


 ヨハンは思い出の洪水に飲み込まれ、あふれる言葉と感情を抑えきれずにいた。

 しかし、ヨハンの言葉はただ虚しく虚空に響くだけだった。


「ロキ、僕を一人にしないで」


 言葉の虚しさに気づき、我に返ったヨハンは力なく顔を伏せた。


「ヨハン――――昔の泣き虫だった頃に戻っているぞ。ユグドレイシアと約束しただろう? 涙は魔法使いの恥だと。一生、人前で見せないと。まぁ、マリーの前では見せたがな」


 ロキはからかう様に言って言葉を続ける。


「それに、お前はもう一人じゃないだろう? もう私たちが出会った、眠りの森の魔女の弟子じゃない。今のお前は、アレクサンドリアの高名な魔法使いじゃないか。お前にはマリーがいる。彼女を助けるんだろう? こんな所で涙を流していてどうする? さっさと、私との契約を切れ――――」


 ヨハンは黙ったままロキの言葉に耳を傾け、静かに頷いた。


(なんじ)――――」


 ヨハンは涙で言葉が(にじ)み、張り裂けてしまいそうな胸の痛みに力なく頭を振った。


「出来ないよ、君との絆を切るなんて」


 それを聞いたロキは、ふっと失笑してみせた。


「それが近い将来、世界を変える魔法使いの姿か? ヨハン、私を失望させるな。私がお前に付従ったのは、何もお前に命を救われたからではない。お前いう存在に惹かれ、おまえ自身の可能性に、私はこの偽りの生を受け入れた。たとえ契約が切れたとしても――――私たちの絆は消えはしない。違うか、ヨハン?」


 ヨハンは歯を食いしばって頷き、震える腕で涙を拭った。

 涙を拭ったヨハンの瞳は力強く輝き、鋭く美しい翡翠の眼差しで、ロキを明るく照らした。


「そうだ、私が惹かれた光は――――その眼差しだ」


「汝――――」


 力強く。確固たる信念のこもった声で、ヨハンは言葉を続ける。


「我と契約せし、この世ならざるもの。汝と交わした血の契約を解き――――汝に分け与えし我が魔力を返還せよ」


 ヨハンの言葉が終わると、ロキは一抹の儚い光を体から発した。

 まるで一瞬の命に最後の力を込めたように、ロキは力強く光り輝いた。


「お前と過ごした日々は――――松明の光に照らされたようだった。暗く深い湖の底にいた私は、その光が眩しく、心地よすぎて、つい腰を下ろし過ぎてしまった。私はそろそろ行くとしよう、何も思い残すことはない。ただ気がかりなのは、お前の入れた紅茶が、二度と飲めないということだけだ」


 ロキはヨハンに向かって片目を瞑ってみせた。体を覆っていた儚い薄紫の光は、次第に輝きを失い始め、そしてロキの光が弱くなるにつれて、ヨハンの肉体には生気が戻り、活力が漲った。


「ロキ、僕は絶対マリーを救うよ。そうしたら、また三人でお茶を飲もう。君のために、とっておきの紅茶を入れるよ。だから――――」


 ヨハンが言葉を投げかけた場所に、もうロキはいなかった。


 そこには、すでに動かなった子猫の死体だけが、静かに横たわっていた。


 ヨハンはその子猫の死体に手を翳し、静かに言葉を唱えた。すると子猫の死体は、砂が風に舞うように青い空の中に消えて行った。


 ヨハンは青い空に溶けていくロキの姿を見送った後、ゆっくりと立ち上がり、そして空を眺めた。


 空はヨハンの心とは裏腹に、これでもかというぐらい澄み渡り、痛々しくヨハンの心を洗い流した。

 ヨハンはロキが消えた空に背を向け、もう一度涙を拭った。


 最後の涙を。


「もう、僕は二度と涙を流すことはないだろう。僕の涙は、今枯れた。だけど、決して悲しみに枯れたんじゃない―――――ロキ、君には分かっているだろう?」


 ヨハンは静かに言葉を続ける。


「僕の父であり兄弟、そして最愛の友よ、どうか安らかに星へ帰ってくれ――――そして千年の後、再び会おう」


 力強くそう言うと、ヨハンは颯爽とアルバトロス中へ入って行った。


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