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058 汝足元を見るなかれ、汝の歩く道の先を見よ

「――――ヨハン、大丈夫か?」


 ロキは、意識のないヨハンに声をかけた。


「僕は――――眠っていたのかい」


 ゆっくりと現実に引き戻されたヨハンは、分厚い本の間に手を挟めたままロキに視線を向けた。


「ああ、ほんの数分だがな」


 ヨハンは顔を顰めた。


(しばら)く休め。そんな状態では、ろくに魔力も練れないだろう。とは、言っても――――」


 ロキはため息混じりに言葉を続ける。


「落ち着いている余裕は無いだろうが」


「ああ、ご名答さ。まだ“聖杯”については、何も分かっていない状態なんだ。テンプルナイトたちが、マリーから“聖杯”を取り出す手段を知っているとも思えない」


「確かにな」


 ヨハンは手の間に挟めた本を開き、ページに視線を落とした。


「それは、知ることでなく感じること――――幾千、幾億の知識を合わせ、束ね、重ねても、それの本質はおろか、形すら分からないだろう。それは見ることも、触れることも、知ることも叶わない、ただ感じるだけ。見ることは記憶することでは無く、触れることは確認することでは無い。そして、知ることは理解することでは無い。だが、感じることは全てである――――ドロレスへ、聖杯の魔法使い」


 ヨハンは天を仰いだ。


「これが、“聖杯の乙女”に向けて助言した、唯一の言葉なんて、笑えるよ。一体、これが何の助言になっているのだろうね? それとも、これは何かの暗号かい? 僕には、まるでお手上げさ」


 半ば投げやりになったヨハンを尻目に、ロキはゆっくりと言葉を投げかけた。


「ヨハン、覚えているか」


「何をだい?」


「ドラゴンを飼育していた、国家魔法使いのことだ」


「ああ」


 ヨハンは過去を思い出した。


「あの冴えない丸眼鏡の?」


「そうだ。こっそりと飼育していたドラゴンが逃げ出し、誰にも相談できないあの国家魔法使いが、店を開いたばかりのお前に泣きついてきた」


 ヨハンは思わず笑い出した。


「そうだった。ドラゴンを飼育するなんて大きな罪だし、神秘生物の保護団体が黙っていないだろう。あれがばれたら、間違いなく国家魔法使いの資格は剥奪(はくだつ)だ」


 ロキは頷きました。


「結局、ドラゴンは町の中心で堂々と発見され、民家三件を全焼させる始末。それで、“魔法省”は目撃した人間の記憶を全て消し、誰かが悪戯で放火をしたんだと、警備隊には公表させた。まぁ、大きな被害が出なかったことから、魔法使いも謹慎ぐらいで済んでよかった。だけど――――」


 ヨハンは不満そうに言葉を続ける。


「あんなに一日中走り回ったってのに、僕らに報酬の一つもないなんておかしすぎる」


「私たちが解決したわけじゃあるまい? 被害を防いだと言えば聞こえはいいが、あの国家魔法使いのそもそも依頼は、“魔法省”に見つかる前にドラゴンを保護することだった。しかし、あの時も今の私たちと同じくらい手詰まりだったな」


 ロキは、懐かしそうに瞳を緩める。


「ああ、そうだった。あの後、僕たちは一ヶ月以上、腹を空かせた生活だったよ」


「それはお前が、仕事の報酬をしっかり貰わないからだろう」


「確かにね。でも、僕の所に依頼に来る人たちは、みんな他の魔法使いたちが相手にしないような簡単な仕事や、そんな仕事の報酬すら払えない人たちばかりだ。そんな人たちからは、お金はもらえないよ」


「しかし、女性からも報酬を貰わないのはどうかと思うがな」


「あれは先行投資さ」


 ヨハンは言い訳がましく言葉を続ける。


「ああやって噂を広めて、太い客を掴もうという戦だったのさ。(なんじ)足元を見るなかれ、汝の歩く道の先を見よ――――今は無き偉大な魔法使いも言っていることさ」


「まぁ、私は金が無くても困らん。腹も空かぬしな」


 ヨハンはロキの言葉には答えず、黙って虚空の空間に瞳を落としました。


「がむしゃらだったな」


 ヨハンはどこか遠くの方を見つめて、感傷的に言葉を発した。


「あの頃は、本当に必死だった。初めて出る人の世、初めて訪れる町、初めて接する人たち。何もかもが新鮮だった。あの頃の僕なら、直ぐにマリーの気持ちが分かっただろう」


 ヨハンは苦笑いを浮かべた。


「そうだな。私もずいぶんと長く生きてきたが、お前と過ごした時間は新鮮だった。人間の言うがむしゃらに生きると言うのも、少しは理解した」


 ロキは、更に言葉を続ける。

 それは、いつものような淡々とした口調でなく、熱のこもった声だった。


「ヨハン、お前と過ごした時間など、私が生きてきた時間の中では、本当に一瞬だ。だが、しかし、これほど長く感じた時の流れも無かった。まるで夢を見ているような、そんな時間だった」


 それを聞いたヨハンは、驚いて口を開いた。


「おいおい、何を感慨にふけっているんだい? 君にはこれからも、僕の相棒としてやっていってもらうんだ。そんな最後の仕事みたいな口調はやめてくれよ」


「ああ、そうだな」


 ロキは失笑した。


「とは言っても、私の仕事はお前の説教と尻拭いだがな」


「そこが大切なんだよ」


 ヨハンは、屈託のない笑みを浮かべてみせた。

 

 その笑顔を見たロキは、呆れたように――――


「全くお前には適わない」



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