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056 偽りの時を過ごす代償

 まるで地震のように激しい揺れで目覚めたマリーは、目を摩りながら起き上がり――――ふと、窓の外に視線を移した。


 窓の外に広がる景色を、マリーは唖然と見つめ続ける。


 窓の外は荒れ狂っていた。


 昼間のはずなのに空は夜のように暗く、激しく吹きつける嵐に船体は激しい音を立て、悲鳴を上げていた。


 マリーの住んでいたボロニアにも嵐は来たが、こんなに激しい嵐を見たのは生まれて始めてだった。


 マリーは好奇心と不安の混じった、不安定な表情を浮かべながら、暫く窓の外を眺めていた。


 すると、


 「嵐は珍しいですか?」


 ヴィクルトが音もなく現れて尋ねた。


 マリーは振り向かずに首を横に振る。


「いいえ、嵐は私の住んでいた町にもよく来たわ。でも、こんなに激しい嵐は初めて」


「それは、そうでしょう。“星を乖離す駿馬”――――“スレイプニル”は滅多に姿を現しませんから」


 その言葉に、マリーは思わず振り返った。


「これが、スレイプニルなの?」


 険しい表情のマリーとは対照的に、ヴィクルトは穏やかに頷いた。


 マリーは直ぐに、ホズ達から聞いたスレイプニルの話を思い出した。


「この船、大丈夫なの?」


「ええ、この“アルバトロス”なら問題はありません」


 マリーの不安をかき消すように、ヴィクルトは簡潔に述べた。


 その言葉を聞いても、マリーは不安を拭い切れずにいた。


「ここは揺れます、昨日の聖堂に行きませんか?」


 そう言われて、マリーは少しだけ悩んだ。


 あの大聖堂に行くこと自体は、マリーにとって懐かしい思い出を蘇らせてくれ、それにとても居心地がよかったのだが――――あそこに行くまでの手段が、マリーにとっては気持ちのいいものではなかった。


 胃の捩れるような感覚が、マリーはあまり好きになれずにいた。


 ヴィクルトの手を握ると伝わってくる冷たい死の気配にも、マリーは心を乱され、不安と恐怖がマリーの心を揺さぶった。それに昨日のユダの話を聞いたら、なおさらあの冷たさを味わうのが、マリーは怖くて溜まらなかった。


 それでも結局、マリーはこの嵐に一日中揺られて気分を害するよりは、胃の捩れる思いをしてでも大聖堂へ向ったほうがいいのだろうと考えて、ヴィクルトの手を握った。


 辺りの空間が歪みはじめ、浮かんでいるかのような感覚から開放されると――――マリーは直ぐに大きな息を吐いて、地面の感触を確かめた。


 そして、マリーは七色に輝く、天井のステンドグラスに視線を移した。


「ようこそ、マリー。お茶の準備はできているよ」


 奥からユダの声が響き渡った。


 マリーは声のするほうへ足を進めた。


 そしてマリーは昨日と同じ、背もたれの長い椅子にゆったりと腰をかけた。しかし、マリーは昨日とは確実に違う複雑な気持ちで、過去にアルトリウスと言う名の王が座っていた席に腰を掛けていた。


 円卓の上には、注がれたばかりの紅茶とサンドウィッチが置かれていた。


 マリーは昨日から何も食べていないことを思い出し、円卓の上のサンドウィッチに腹の虫が動き始めたのを感じた。


「この大聖堂は、嵐でも揺れないのね――――魔法で空間を繋げてるのかしら?」


 空腹を感じてもマリーは円卓のサンドウィッチには触れず、好奇心が先に口を開いた。


「よく知っている、君の魔法使いに聞いたのかな?」


 ユダは感心したような素振りで口を開き――――どうぞ、と円卓の上の紅茶とサンドウィッチを指した。


「そんなところね」


 そう告げて、マリーは紅茶に口をつけた。


「だが、この空間は君の魔法使いが作るような――――空間を他の場所に移すだけの、簡単な“構築式”では出来てはいないのだよ」


 ユダは関心を引くようにわざと会話を止めて、マリーの反応を確かめた。


「どういうこと?」


「この空間は“時間軸”を切り離して構築しているのだよ」


「時間軸?」


 マリーは更に意味が分からなくなり首を傾げた。


 ユダはマリーの浮かべた表情を満足げに楽しんだ後、再び口を開いた。


「つまり、この場所は過去に存在した空間であり――――現在は存在しないということだ」


「じゃあ、今私たちがいるこの場所は?」


 マリーは困惑して尋ねました。


「この空間自体を、私の魔法で作り出している――――そう言う事だ」


「そんなこと、出来るの?」


「出来るとも。私の魔力と知識を持ってすれば、訳は無い」


 ユダは、更に自身を漲らせながら、言葉を続けます。


「それに、この空間はただ存在するだけではない。こんなことも出来る」


 ユダは天井に向けて指を突き立てた。


 マリーは一旦、ユダの指の先を経由してから、天井へと視線を向けた。


「すごい」


 驚いたマリーの声の先には、天井一面に描かれた七色のステンドグラスではなく、猛々しく荒れ狂う嵐の様子が映し出されていた。


 まるで水面(みなも)に空を映したように鮮明に、そしてその水面は波立つことも無ければ、波紋を広げることも無く、穏やかに天井一面に広がっていた。


 激しく吹き荒れる嵐を見て、その瞳を奪われているマリーを見て、ユダは更に言葉を続ける。


「これぐらいで驚かれては困る」


 マリーは再びユダに視線を戻した。


 すると、マリーたちが顔を突き合わせている円卓が赤く光りを放った。


 その赤い光は細い束へと変わり、いくつもの線を描いて行く。


 次第に、赤い光の線は四方に延びて形を作り、幾重にも重なりながら立体的な編み込まれていく。そして、円卓の上にある物を映し出していた。


 それは見覚えのあるものだった。


 今思えば、この物語の始まりを告げたものでもあった。


「“アルバトロス”」


 答えはmユダが先に告げた。


「私の魔法の知識を全て注ぎこんだ――――至高の飛空挺であり、最後の箱舟」


 マリーは、いくつもの羽を大きく広げたアルバトロスを無言で眺めていた。光は更に複雑に絡み合い、円卓の上に大きな立体的な地図を描いた。マリーは目の前に広がる大きな地図を眺めながら、アルバトロスが向かう先であろう“大きく窪んだ場所”に視線を落とした。


「あの場所って――――もしかして?」


 まるで隕石が衝突したかのように(へこ)んだ部分を指しながら、マリーは尋ねた。


「そう」


 ユダは頷いた。


「あれが――――“キャメロット”。今は跡形も無く消え去った栄光の(かげ)り。土は腐り、空気は毒を孕み、今もなお草木一つ生えぬ不毛の地。私は“獅子の戦”が終了した後、何度か“白獅子”や“黒獅子”の重鎮(じゅうちん)たちと、この変わり果てたキャメロットを訪れたが――――その時、奴らが何と言ったか分かるか?」


 突然、ユダは激昂(げきこう)し、その表情を死神へと変える。


「奴らは抜け抜けとこう言ったのだ。皆、口を揃えたように、同じことを―――この地は、もう死んだと。そうぬかしたのだ。あの愚か者たちは、貴様らが欲望の果てに持ち込んだ魔法石によって、キャメロットを跡形も無く消え去ったというのに、奴らはただ自分たちの責任を棚に上げて、この地は死んだと、そう告げた。その時、私は理解した。この者たちは知らないのだと。魔法使いの理と言うものを――――大いなる力には大いなる責任、そしてそれに伴う代償がつくということを」


 マリーは震えていた。


 しかしマリーだけではなく、まるで空間自体が震えているように、空気さえもがユダに脅えているように、ここに在る全てのものが震えていた。


 マリーは何故だか息が苦しくなり、余りの寒さに凍えてしまいそうになっていた。


「ユダ?」


 ヴィクルトが、ユダの座っている席の真後ろに現れ、強く声をかけた。


 そしてその声を聞き、瞬時に正気に戻ったように顔を(しか)めたユダは、表情を申し訳なさそうに強張らせた。


「すまない、どうやら取り乱してしまったようだ」


 死神の去った後のユダは、顔を歪めて謝罪を口にした。


「いいのよ」


 マリーは何がいいのか分からずに、ただそう答えた。そして、目の前のティーカップに視線を落とし、ギョッとして目を丸くした。そのティーカップの中に入っていた、先ほどまで入れたてのいい香りを漂わせていた紅茶は、今カチカチに凍っていた。


 マリーはその凍りついた紅茶を見て、自分もこうならなくて良かったと心から思った。


「マリーさん、大丈夫ですか?」


 音もなくマリーの背に移動したヴィクルトは、ストールをそっとマリーの肩に掛けてくれた。


「ありがとう」


「今、新しいお茶を入れますね」


 ヴィクルトは直ぐに新しいお茶を注いでくれた。


 それから、マリーは長い時間を魔法で作られた空間で過ごした。


 ヴィクルトと話をしたり、ユダが貸してくれた訳の分からない本を読んだりしながら、穏やかな時間を過ごしていると、突然部屋に戻ってきたヴィクルトが、少し険しそうな表情で口を開いた。


「ユダ、スレイプニルが激しくなってきたので雲の上に出ることにしました。今、ガラハッドとランスロットが舵を取っています」


「もう少し、スレイプニルの背に乗っているのも悪くないのだが――――振り落とされる前に下りるとしようか」


 険しい表情でユダが言葉を落とすと、次第に天井の景色が動き始めた。


 天上を見上げているマリーの瞳には、どんどん飛空挺が上昇しているように見えた。次第に天井の景色は荒れた嵐を抜けて、美しい紺碧の夜空を映し始める。


「マリー、私たちを見てくれ――――」


 視線をユダとヴィクルトに向けたマリーは、二人を見て言葉を失ってしまった。


 それは、彼らの体がここには無かったからだった。


 しかし、無いというのは少し表現が違い、彼らはマリーの直ぐ目の前にいた。

 

 それでも、それは彼らの姿であって、彼らではなかった。


 まるで薄い布越しに光を通したように、彼らの体は透けていた。


 今、マリーの瞳に映る姿の彼らは、骨と皮だけのおぞましい姿――――


 骸骨よりもなお醜い、たとえ百年の時を過ごしても、こうはならないだろうと思えるほどに、枯れ果てた姿だった。


「これが、我々が偽りの時を過ごす代償。月明かりの前では、偽れぬ真実の姿――――食べることも、眠ることも、感じること出来なくなった、我々に与えられた苦しみ」


 ユダは醜い体からは考えられない、とても穏やかな顔でマリーに言葉を投げかけた。


「マリー、あなたは優しい女性だ。このように醜い私たちのために、涙を流してくれる。マリー、あなたが“聖杯”に選ばれた“聖杯の乙女”で――――私は本当に良かったと思っている」


 マリーは頬を伝う涙を拭うことなく、ユダの言葉に耳を傾けていた。


 そしてマリーは、思った――――


 この人たちを救いたいと。


 心から、マリーはそう思った。


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