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053 全てを受け入れる杯

 再び胃の捩れるような思いで部屋に戻って来たマリーは、複雑な気持ちでユダと交わした会話を思い返していた。


 まるで海の底に沈んで行く人魚のような表情を浮かべるマリーの手の中には、ヨハンから送られた髪飾りが、儚げにな光を放っていた。


 大聖堂を出る時に、髪飾りを返しにランスロットが姿を現したのだった。


「遅くなって申し訳ありません。少々汚れていたので綺麗にしておきました」


「ありがとう」


 マリーは、ほっと息を吐いて髪飾りを受け取った。


「その髪飾りの送り主は、よっぽどあなたを大切にしているようですね」


「えっ?」


「その髪飾りですが――――あなたに危険や危害が及ばぬように、いくつもの魔法が複雑にかけられていますよ。それに少々興味深い呪いも含まれていますね」


 マリーは驚きで大きく目を見開き、髪飾りに視線を落とした。


「しかし、ここまで見事な魔法と錬金術は見たことが無い」


 マリーはランスロットの言葉を思い出しながら、自分の胸の奥が暖かくなるのを感じていた。そしてマリーは髪飾りに視線を落とし、注意深く見つめ直してみた。


「ウソ? これって――――」


 髪飾りを彩る花たちが、どれも自分の故郷の花ばかりだったことに、ようやくマリーは気が付くことができた。そして、そんなことに気がつかないなんて、自分はなんて馬鹿なんだ――――と、両方の手で顔を覆い、ただ髪飾りをもらって舞い上がっていた自分を恥ずかしく思った。


 しかし、そんなこみ上げる気持ちも束の間――――マリーは直ぐに、ユダとの会話を再び思い出しました。


「全ては魔法使いのため――――」


 厳しい口調でそう告げたユダは、マリーの黒真珠のような瞳を深紅の瞳で睨みつけるかのように見つめていた。


 それはマリーが、


「どうして、あなたたちはこんなことをするの?」


 と、尋ねたことへの答えだった。


「そして、今は亡き偉大なる王――――古き友のためだ」


 そう告げたユダの表情は厳しく、その張り詰めた空気の重さに、マリーは閉じた口を開くことができずにいた。


「マリー、今貴方が座っている席の背もたれを見てくれ」


 マリーは言われた通りに、今自分が腰かけている椅子の背もたれを覗き込んだ。


 そこには深く、こう刻まれていました。


 ――――アルトリウス・キャメロット。



 マリーが再び、体をユダに向け直した時と同じくして、ユダは言葉をマリーに投げかけました。


「マリーは――――“キャメロットの悲劇”をご存じかな」


 マリーは黙ったまま頷いた。


「そうか――――」


 ユダは口を閉ざして頷き、重々しく額に手をついた。


 草臥れた白髪がパラリと目にかかり、それを疎ましそうにかきあげながらも、ユダは心ここにあらずと言った表情で、壇上に描かれた騎士のステンドグラスを見つめていた。


「――――アルトリウス」


 ユダは何か憑りつかれたかのように名前を呼んだ。


 「アルトリウス・キャメロット」


 とても大切な言葉のように、ユダは言葉をなぞる。


「ねぇ、ユダ?」


 ユダが余りにも長い時間、ステンドグラスに視線を向けているので、マリーはとうとう痺れを切らせて声をかけた。そして声をかけられたユダは、眠りから覚めたばかりのような虚ろな表情で、マリーに視線を戻した。


 ユダは目を瞑って、口を開く。


「酷い戦争だった」


 草臥れた声を漏らしながら、ユダは言葉を続ける。


「長い間、この世界を眺めて来たが――――あれほど悲惨な戦争は、ただ一度たりとも無かった。人は人でなくなり、大地は焦土と化し、ただ欲望と憎しみだけが渦巻いた――――恐ろしい世界だった。まるで“キャメロット”だけを切り抜いて、そのままこの世ならざる世に移したような」


 ユダはそこまで言葉を紡ぐと、大きく頭を振った。


「いや、あれは完全に人の世だった。あれが人間の持って生まれた性――――それとも人間が背負った業なのか?」


 ユダは自らを、そしてこの世の全てを嘲るように――――不気味な笑顔を浮かべた。


 影の落ちたユダの表情と、その不気味な笑顔が、マリーには一目見た時に感じた、この世のものとは思えぬ――――まるで死神の微笑みに見えた。


「いや、そんなことはどうでもいい」


 ユダは力なく頭を振りました。


「とにかく、あの場所――――“キャメロット”は、悲惨な戦場だった。我が友――――アルトリウスは、そのキャメロットを治める王だった。わずか十四歳で王になった少年王だった」


 恐ろしい死神の表情から徐々に穏やかな表情に戻って行くユダの瞳には、今ははっきりと光りが戻り、凍えるように冷たかった深紅の瞳も、今では宝石のように光り輝いていた。


「アルトリウスは少年にもかかわらず、ずば抜けた勇気を持っていた。それに人を引き付ける天性のものを、生まれながらに備えていた。王としての決断力もあり、剣の腕も一流、私は彼ほど王の素質に恵まれて生まれた子を見たことが無かった。始めはアルトリウスに不信を抱いていた家臣達も、次第にアルトリウスを信頼し、いつしか多くの者たちがアルトリウスの元に集った。まるでオアシを求める砂漠の民のよう」


 ユダは頷いた。


「アルトリウスは、オアシスのような男だった。決して涸れることのないオアシスだった。そんな男の元には、やはり一風変わった癖のある者たちが集まった――――渇き飢えた旅人が、その喉を潤しに来るように」


 ユダは懐かしみ、そして悲しむかのような瞳で、視線を過去の海へと泳がせた。


「ある男は――――人目見た時から彼に忠誠を誓い。またある男は――――決闘で敗れて。またある男は――――少年王の噂を聞き付け、四つ離れた国から遥々やってきた。そして始めは眺めているだけだった魔法使いも――――理を破り、いつしか彼に従うようになった。皆、アルトリウスと言う男に引かれ、アルトリウスと言う男に剣を捧げた。そして、アルトリウスが立派な成人の王になったころには、集った者たちは大きな騎士団へと成長していた――――それが“テンプルナイト”だ」


「ユダ、貴方たちは、一体?」


 マリーは重く閉ざした唇の扉をこじ開けて、精一杯の声を振り絞ってユダに尋ねた。


「マリー、私はただ取り戻したいのだ――――あの頃の栄光を。そして、全ての魔法使いを解放したいのだ――――この憎しみの鎖から」


 マリーは思わず身震いをした。


 そして、我に返って一人きりの自分と向き合った。


 マリーは、あの時のユダの表情を思い出すだけで、恐ろしくて仕方なかった。


マリーはユダとの会話を思い返すことを止め、星空に視線を向けました。


 数多に輝く星の瞬きに自らの意識を流しながら、マリーはこの星空のどこかにいるであろうヨハンのことを思った。


 しかし、マリーはとても複雑な気持ちを抱いていた。


 先ほどユダの話を聞いた時、“聖杯”は彼らの手の中に在るべきものではないかと、マリー考えてしまったからだった。それに、マリーはヨハンとユダを引き合わせたくないと思っていた。マリーはどちらが傷つくところも見たくなかった。


 マリーは、もしも二人が出会ってしまったら――――とても恐ろしく、不吉なことが起こってしまいそうな気がしてならなかった。


 そんな時、マリーはふとドロシーの言葉を思い出した。


「決して現実から目を背けてはダメ、たとえ死神の鎌が貴方の首を撫でようとも、決して目を瞑らないで、そして貴方を守ってくれる人を信頼しなさい、たとえどんなに遠く離れても、貴方達の絆は消えないわ、だから疑ってはだめ、貴方は全てを受け入れる杯、最後まで貴方の選んだ人を信じなさい」


 さらにマリーは思い出す。


「星の巡りは永遠、全ての物事には理由があり結末があるの」


 マリーは考えた。


 この物語に、自分が選ばれた理由があるのか?


 ヨハンと出会ったことや、“アレクサンドリア”を訪れたこと、そして今こうして惨劇の地“キャメロット”に向かっていることに、何か意味がるのか?


 その答えは、マリーの心の中でハッキリしていた。


 今、マリーは決して目を瞑る事なく、ただ真っ直ぐに向き合い――――この物語の結末を見届ける決意をしていた。


 たとえどんな結末が訪れようとも、自分は全てを受け入れる杯――――決して目を背けてはいけないんだと、マリーは自分自身に誓いを立てた。


 そして、そっと視線を自分の小指に落としたマリーには、しっかりと見えていた。


 たとえどんなに遠く離れても、決して切れることの無い――――


 二人を結ぶ絆の糸が。


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