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052 あなたは、その眼に――――希望を宿すか

「マリーさん、貴方に会わせたい人がいます」


 音も無く部屋に現れたヴィクルが言った。


 部屋に備え付けのバスタブから出たばかりで、濡れ髪でバスタオルを一枚巻いただけのマリーは、体の火照りとは違う火照りで頬を赤らめて、小さく頷いた。


「では、これに着替えてください。マリーさんの服は汚れているので洗濯しておきますね」


 そう言われてヴィクルトに差し出された洋服は、彼女の瞳と同じ色をした紅のローブだった。


 ヴィクルトが部屋を出た後、マリーは渡され紅のローブに袖を通した。


 先ほどのヴィクルトの言葉を信じていない訳ではなかったが、それでもマリーはこの場所にいることに対して、完全に不安を拭い去ることができなかった。しかし、何もすることができないマリーは、当面ところ彼女たちに従うしかないと自分を納得させた。


 まるで羽のように軽く、シルクよりも着心地の良い不思議なローブに驚きながら、マリーは大きな鏡に自分の姿を映してみた。マリーは鏡に映る自分の姿を見て、直ぐにあることに気がついた。そこにはあるはずのものが無かった。ヨハンにもらった髪飾りがマリーの頭から消えていた。


 ――――今まで、どうして今まで気がつかなかったんだろう?


 マリーは急いで部屋の中をあちこち探しが、ヨハンにもらった髪飾りはどこにも見当たらなかった。


「ヴィクルトっ」


 マリーは思い立ったように、彼女の名前を呼んだ。


「着替えは終わりましたか?」


 ヴィクルトは音も無く部屋に現れた。


「マリーさん、どうかしましたか?」


 ヴィクルトは、マリーの切羽詰まった表情を見て尋ねた。


「私の髪飾り、知らない?」


「ええ、知っています。あの髪飾りなら、ランスロットが持っているでしょう」


「本当に? 良かった」


 マリーは安心のあまり体の力が抜けてしまった。


「後で彼にもって来させますね。支度は済みましたか?」


「えっ、ええ? いいわ」


「では、私の手に掴まってください」


 ヴィクルトはマリーに手を差し出し、マリーは差し出された手を握った。そしてマリーは差し出された手を握った瞬間、驚いてヴィクルトを見つめた。それはヴィクルトの手が、およそ生きている人間とは思えぬぐらい冷たかったからだった。まるで氷に触れているような、そんな冷たい手を握りながら、マリーはヴィクルトに視線を注いだ。


 しかし、マリーがヴィクルトの手を握ると急に部屋の景色が乱れ始め、胃が捩れ(よじ)てひっくり返るような感覚がマリーを襲った。


 そして、マリーが気がついた時には部屋の景色はすっかり変わり――――今マリーとヴィクルトがいる部屋は、丸いドーム型の天井に覆われた、まるで劇場のように広い場所だった。


 マリーは当たりを見回してみるが、部屋全体が薄暗く靄がかかったように白んでいるせいで、先がよく見えなかった。


「ようこそ、“聖杯の乙女”――――マリー・キャロル。我ら“テンプルナイト”の“大聖堂”へ」


 突然、厳かな声が部屋中に声が響くと――――部屋を覆っていた白靄は消え、太陽が東の空から顔を出すように、ゆっくりとこの空間の輪郭がくっきりと浮かび上がっていった。


 円蓋の天井からは七色の光が零れ出し――――マリーは天井に視線を移す。


 丸いドーム型の天井は世にも美しいステンドグラスで彩られており――――星や月夜、太陽、空や雲、騎士や天使、樹や花などが描かれた天井は、まるで一つの物語を語っているかのようだった。


 そのステンドグラスの中でも特にマリーが心を奪われ、目を引かれたのが――――黒いマントを靡かせた魔法使いと、赤い異国の服を来た女性が違いに手を伸ばし、その先にある光を掴もうとしている絵だった。


 しかしマリーが心惹かれたのは、何もステンドグラスの美しさだけではなかった。


 それは昔――――母親がマリーに話してくれた物語と、ステンドグラスが物語る情景がとても良く似ていたからだった。


 満月の夜、異国の風に乗ってやって来る黒衣の魔法使い。


 その物語に良く似たステンドグラスの絵はマリーの心に哀愁の風を呼び込み、それと同時にマリーの心を思い出のヴェールが優しく包み込んだ。


 マリーが天井のステンドグラスに瞳を奪われていると、聖堂の奥に作られた黒い大理石の壇上――――その壇上の上には、天井のステンドグラスにも引けを取らない程に見事な“騎士のステンドグラス”が、威風堂々と掲げられていた――――そこに設置されたとても背の高い椅子の上に深く腰を降ろしていた男が、静かに立ち上がり、ゆっくりと壇上の上から降り始めた。


 まるで王座のような壇上からその男は音もなく下り、そして音もなくマリーの元へ向かって行った。


 その男が近づいてくるのにもかかわらず、マリーは一切そのことに気づく事なく、心を奪われたまま恍惚と天井を眺めていた。それ程までにステンドグラスは美しく見事な物だったが、それでもマリーが近づいて来る男に気がつかなかったのは――――その男に気配がなかったからだった。


 足音もなければ、気配もなく、まるで生きてすらいないかの様に、その男はその存在を感じさせなかった。


 そして、近づいて来る男とマリーのとの距離が間近に迫った時、ヴィクルトがその場に跪いて頭を下げた。


 マリーはようやく自分に近づいて来る男に気がつき、驚きの余りに悲鳴を上げそうになったが、喉元まで出かかった悲鳴を無理やり飲み込み、マリーは近づいて来た男を強い視線で見つめた。


 マリーに近づいてきた男はヘイムデイルやランスロットと同様に、頭から体までをすっぽりと白いローブにその身を包み込んでいた。


 男は被っているフードの奥から深紅の瞳を光らせて、徐に口を開いた。


「良い瞳をしている。強い意志。揺るがぬ決意。拭いきれぬ不安。死への恐怖。そして――――」


 男は一旦言葉を止めると、被っていたフードを脱いだ。


 フードの中からは、凍りついてしまいそうなほど美貌が現れ、そしてこの世のものとは思えない素顔を露にした。


 マリーはその男の顔を見た時、とても不気味で恐ろしい印象を受けた。男は細く切れ長の目に紅の瞳を宿し、三日月のように弧を描く、血よりもなお赤い唇は禍々しさを感じさせた。


 しかし、マリーがその男を一番不気味に感じたのは、見た目は若く麗しい男性のはずなのに、その長い髪の毛が、まるで老人のように真っ白だったからだった。白髪には艶が無く、まるで萎れた花ように生気を感じさせなかった。それは何も髪の毛だけではなかった。白髪の男性の表情や行動、仕草の一つ取っても、その男は何一つ生きていることを、マリーに感じさせなかった。


 刹那、マリーの中を激しい悪寒が突き抜けた。


 マリーは今直ぐにでもこの場から逃げ出したい、そんな気持ちに駆られたが――――それでも必死に体に力を入れて、気を強くもって男を真っすぐに凝視し続けた。


 男は暫く沈黙を楽しんだ後、再び口を開いた。


「――――希望」


 男は、マリーの反応を確かめるように言葉を区切った。


「あなたは、その眼に――――希望を宿すか」


 男は三日月の唇を緩めた。


「その身に“パンドラ”を宿す娘よ。我ら“テンプルナイト”の大聖堂によくぞお越し頂いき感謝する。そして、ここに来るまでの数々の無礼――――深くお詫びしよう」


 男はマリーに跪くと、マリーの手を取ってその手の甲に口づけをした。

 マリーは驚きの余り悲鳴を声を上げて、口づけをされた手を宙に上げた。


「おや――――」


 男はそう言いながら立ち上がると、再び笑みを浮かべて言葉を続けた。


「男性に慣れていないのかな? これは失礼」


 男は胸に手を当てて紳士的に謝罪をした。


 マリーは大袈裟に驚いたことが恥ずかしくなり、そして口づけをされた手の甲を眺めて顔を赤らめた。


「失礼ね、少し驚いただけよ」


 マリーは精一杯強がってみせた。


「それは、尚更失礼した。紹介が遅れたが、我が名は――――ユダ。このテンプルナイトを束ねる魔法使いだ。“聖杯の乙女”マリーよ、本当によく来てくれた」


 ユダと名乗った男は、マリーに賛辞を述べた。


 マリーは先ほどユダを見た時に感じた、生を感じさせない、おぞましさにも似た雰囲気とはかなり掛け離れたユダの人柄に驚いた。


「別に、好きで来た訳じゃ無いわ。貴方たちに勝手に連れて来られたのよ。魔法使いっていうのは、本当に自分勝手な生き物なのね?」


 マリーは素直な気持ちを吐露した。


「よく魔法使いというものを分かっている。我々は――――この世の探求者にてこの世ならざる世の理解者。自らの理のためならば多少の犠牲は顧みぬものだ。マリー、あなたの知っている魔法使いも、そういう男であったろう?」


 マリーは考えるまでもなく、うんざりしたように口を開いた。


「ええ、そうね。ヨハンは、いつも自分勝手でわがままで、傲慢ちきで、それでいてうねぼれ屋で、自信過剰で意地悪、本当にろくでもない男よ。でも――――」


 マリーは思い出すように、瞳を過去へと泳がせた。


「本当はとても優しくて思いやりのある人なの。ただ、少し素直じゃないだけ」


 触れただけで壊れてしまいそうなガラスの声色で、優しくそう告げたマリーの視線の先には――――ヨハンと過ごした僅かな、それでも美しい日々が、どこまでも続く川のように流れていた。


「ほう、なかなか興味深い男だな、そのヨハンと言う魔法使いは? 出来れば、その高名な魔法使いにも会って見たかったが――――」


 ユダは薄い(まぶた)を持ち上げて、深紅の瞳を輝かせた。


「――――会えるわよ」


 マリーは声を強くして、不敵に言い放った。


「ヨハンは必ず迎えに行くって言ったわ。だから、必ずここに来る」


「ほう、この“アルバトロス”に追いつくと言うのか?」


 マリーの不敵な笑みを見たユダは、挑戦するように言葉を返した。


「ええ、追いつくわ」


 マリーはためらい無く言い切る。


「あなたの希望は――――その魔法使いというわけか」


 ユダはそう言って笑みを浮かべた。


「マリー、あなたも随分と興味深い女性だ――――もう少し、あなたの話を聞かせてくれないか?」


「いいわよ。でも、もちろんあなたたちの話も聞かせてもらうわよ?」


「喜んで話をさせて頂こう」


 ユダは穏やかな表情を浮かべ頷いた。


 それから二人は――――


 大聖堂の大きな円卓、その長い背もたれ椅子に座りながら話を続けた。


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