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005 笑顔の理由

 それからしばらく、マリーは車窓から流れる大陸の景色を眺めていた。


 先ほどまで見えていた(とげ)のような山脈が並んだ風景は、今では大地一面に緑色の絨毯をひいたような穏やかな景色へと変わっていた。


 マリーは目の前に広が風景を、初めて乗る列車の不規則なリズムの揺れに身を委ねながら眺め、しかし心の中では故郷のボロニアの景色を眺めていた。


 ボロニアの草原に咲きほこる白い水仙や、黄色いエニシダ。町の四方を囲む山には、オリーブの森にぶどう畑。夏の終わりにはエリカの花が野原を紫色に染めて秋の訪れを先駆け、秋が来れば山は紅く、森は黄金色に色づいた。冬が訪れて雪が積れば、ボロニア一面がその姿を白銀の世界へと変えていった。


 ボロニアの四季が織り成す自然の風情は初々しく、ロマンティックで、まるで初恋に落ちたような景色と賞賛されるほどの美しい自然だった。


 たくさんの思いでの詰まった自然や町並み。

 そのほとんどは母との思い出だった。


 マリーの母は仕事が忙しく、マリーと一緒にいられる時間は少なかったけれど、それでも休みの日には必ず母親と二人でピクニックに出掛けていった。森でドングリを拾ったり、小川で水遊びしたり、お花を積んだり、お弁当を食べたりと、マリーにとってはどれも宝物のような思いでばかりだった。


 マリーはそんなおもちゃ箱のように素敵なボロニアの町を離れると思うと、どうしても心を暗い雲が太陽を隠してしまったような憂鬱な気分になった。


 憂鬱な気持ちのマリーは、ふと母との会話を思い出した。


 それはマリーが母と交わした最後の会話だった。


 暗く沈んだ部屋。ベッドに横たわる母親。そして付きっ切りで看病していたマリー。医者も首を横に振るほどに、母親の病気は深刻だった。白く青ざめた母の顔、そしてかすれた弱々しい声で、マリーの母は幼いマリーに優しく言った。


「マリー、ごめんね。ママ、もうマリーと一緒に暮らせないみたい」


 小さく擦れた声が、暗い部屋に響いた。


「ママ、お願い。そんなこと言わないで」


 マリーの顔は、涙でグシャグシャに濡れていた。小さい身体はぶるぶると奮えて、(すが)りつくように毛布を握りしめていた。藁にも縋るような気持で。


「マリー、泣かないで。あなたは、強く明るい子でしょ? だから、さぁ笑って。笑ってごらん?」


 マリーは細い腕で目をおもいっきり(こす)り、一生懸命に涙を拭ってみせた。しかし、次から次にこぼれてくる大粒の涙は留まることを知らなかった。それでもマリーは無理やりにっと笑って、精一杯の笑顔をつくってみせた。


「にっ。ママ、ほら。わたし泣かないから、泣かないからね? 絶対泣かないから、だから元気になって。また、お話し聞かせて」


「そう、その笑顔がママは大好きよ。そうね、もっとマリーにたくさんお話してあげたかったわ」


「ママ、私もうわがまま言わない。もっといい子にするから。お願いだからそんなこと言わないで。ねぇ、ママ、どこにも行かないで。お願い、私と一緒にいてよ。私を一人になんてしないで」


 マリーは必至に笑顔をつくりながら言ったが、笑顔は泣き顔で崩れ、かすれた声は言葉になっていなかった。


「マリー、あなたは充分いい子だったわ。ママの自慢の娘だもの。ごめんね、マリー。いつも寂しい思いばかりさせて」


「そんなことない、全然寂しくなんてない。だって、私強い子だもん。ママがいてくれたら少しも寂しくなんてない。ほらママ、私の笑顔を見て。にっ。私、笑っているでしょ? にっ」


 それを聞いたマリーの母は、とても穏やかな顔で笑顔をみせた。そしてマリーをすっぽり包みこむんでしまうような、暖かく優しい言葉をかけた。


「そうね、マリーは強い子だもんね。だから、ママは安心よ」


 毎晩マリーに御伽噺を聞かせていた時の、小川のせせらぎのような穏やかな口調で、マリーの母は言葉を続ける。


「ねぇマリー、いつかあなたが大きくなったら旅に出てみなさい。世界は広いのよ。それに、世界にはママがマリーに聞かせた御伽噺みたいな、素敵な国や素晴らしい場所がたくさんあるのよ」


「ま、魔法使いもいる?」


 マリーは精一杯声を振り絞った。そうしなければ今にも泣き叫んでしまいそうだったから。マリーは必死に歯を食いしばりながら、母の言葉を待った。その間にも、大粒の涙は止まることなくこぼれ続けた。


「えぇ、もちろんいるわ。いつか、きっと、あなたの前にも現れるわよ。ねぇマリー、忘れないでね? ママは、これからもずっとあなたのそばにいるから、いつもマリーと一緒よ」


「うん、これからもずっといっしょ」


 もう、マリーの言葉は言葉になっていなかった。震えた声が部屋に木霊し、その後には深い静寂だけが残った。そしてマリーの母はゆっくりと目を閉じ、そして静かに眠りについた。


「ママ? ママ? ママっ、ママっ、ママー」


 マリーは幸せそうな顔で眠る母親にすがりつき、精一杯揺った。しかしマリーの母はもうマリーの言葉に応えてくれなかった。それでも、マリーは母に声をかけ続けた。


「ママ? お願い、目を開けて。行かないでよ。一人にしないでよ。お願い、死んじゃやだよ。ママー」


 マリーはもう涙をこらえることも、歯を食いしばることもできず、ただただ泣き叫んだ。雲の上まで届きそうな声で、マリーは泣き叫び続けた。暗い部屋でいつまでもいつまでの泣き続けた。


 母の死を悲しみ、母の死を受け入れ、そして母の死を乗り越えていった。


 マリーは泣きたい気持ちを押さえ込み、車窓の景色に重ねていたボロニアの風景を消し去るように、静かに瞳を閉じた。


 マリーは母親を失ったあの日から、一日だって涙を流した日はなかった。何度も挫けそうになり、涙をこぼしそうになったけどれ、それでもそんな気持ちを無理やり心の奥に押し込んで、笑顔だけを見せて今日まで明るく生きてきた。


 それが母との最後の約束だったから。


 マリーは絶対に泣かないと心に決めていた。自分は強くて明るい子だから絶対に泣かない。母が大好きだと言ってくれたこの笑顔を絶やさずにいようと、自分自身に言い聞かせてきた。だから今、こんな奇妙な事件に巻き込まれても頑張ろうと思い、持ち前の明るさで乗り切ろうと決意していた。


 マリーは心の中の故郷の景色に一旦別れを告げて、瞳を力強く見開いた。

 そして、心の中で呟いた。


「ねぇ、ママ。ママの言った通り、魔法使いに出会えたよ。私の想像していた魔法使いとはずいぶん違うけど。それと、これから少しだけ旅にでるね。ママが話したくれたような世界に出会えるといいな。ねぇ、ママ、私は元気にやってるよ。泣かずに笑顔でやってるから、いつも一緒だよね」


 故郷に別れを告げたマリーは、小さく――――「行ってきますと」告げ、車窓から身を乗り出して、透き通った水色の空に向かって大きく叫んだ。


「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」


 マリーの叫び声は客席の中にまで響き渡り、何やら分厚い本を読んでいたヨハンは驚いてビクッと体を震わせて、マリーに視線を向けた。しかしロキは机の上で体を丸めたまま、何事もなかったかのようにピクリともしなかった。


「一体どうしたんだい? この列車がそんなに気に食わない? それとも気でも触れたのかい?」


 マリーは首を横に振った。


「いいえ、あまりにも綺麗な空だから叫びたくなっただけよ」


 マリーはとてもスッキリした顔で言いった。逆にヨハンは、意味が分からないと言わんばかりに大きく広げた手を仰いでみせた。


「なら良いけど」


 そう言うとヨハンは、再び読書に戻っていった。


 マリーは澄み渡る空に向かって、とびっきりの笑顔を浮かべていた。

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