025 ヨハンは私の恋人だもんね
「もしかして、さっきヨハンが言ってたお客さん?」
「どうやらそのようだ」
ロキには分かっていたようだった。
次第に扉を叩く音が強くなり、マリーはヨハンのいる二階に視線を移した。
「出るなって言ってたけど、呼びに行ったほうがいいのかしら?」
マリーはロキに尋ねる。
「いや、問題ない」
ロキが短く告げると、二階からヨハンが飄々(ひょうひょう)と現れた。
「ようやくお越しか」
機嫌の良さそうな表情を浮かべて優雅に階段を降りて来るヨハンの姿に、マリーはびっくりして瞳を丸くした。
その姿は先程までの、くたくたのシャツに麻のパンツ姿でなく、今二階から下りて来たヨハンの姿は、先程とは見違えるほどに豪華で派手な服装だった。
大きく袖の広がった紫色の派手なシャツ――――シャツの縁を取る金色の刺繍はまるで蛇のようにくねっていて、シャツ全体に大きな象形文字のような模様を描いていた。大きく開いた胸元には何十にも重なったネックレスをつけていて、色取り取りの宝石がキラキラと輝いていた。黒いタイトなパンツに、純白の靴を履き、下ろした銀色の髪の毛には、大きめのビーズや銀の輪で作られた髪飾りをつけていた。
今からどこかの舞踏会場にでも出掛けると言い出してもおかしくはない、豪華絢爛なヨハンの服装を見たマリーは――――
「な、なんなの、その格好?」
と、自分の脇を通る上機嫌のヨハンに、呆れたように声をかけました。
「少しばかり特別な客人でね」
と、ヨハンはマリーにウィンクして扉を開きました。
「ヨハーン」
ヨハンが扉を開くと、無邪気な声と一緒に小柄な女の子が勢いよく部屋に飛び込んで来た。そして、小さな女の子は飛び込んで来た勢いのまま、ヨハンの腰の辺りに手を回して抱きついた。
ヨハンは女の子の仕草には動じず、大らかな眼差しで女の子を見下ろしました。
「これはこれは、どうしたのですか急に?」
ヨハンは丁寧な物言いにもかかわらず、驚いたように言ってみせた。
それを聞いた女の子は、ヨハンを見上げて嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
女の子はフリルがたくさんついた淡いピンク色のドレスを着ていた。そそて、ふわふわとした金髪の巻髪が、白いキャンパスのような肌をそっと包み、そこから覗かせる円らな青い瞳と、控えめな赤い唇が、白いキャンパスに鮮やかな色を添えていた。
女の子は幼くあどけないにもかかわらず、その美貌は類い希ないものだった。まるで見るものを虜にしてしまいそうな、そんな表情と雰囲気を体中に纏っていた。そして、天使のように無邪気な笑顔を浮かべる少女は、これでもかと言うぐらいの完璧な表情と仕草で、雲雀の泣き声のように美しい声を奏でた。
「来ちゃった。私ね、帰り道にヨハンの家の前を通ってってお願いしたの」
少女は上目使いでヨハンを見つめて言った。
「ヨハン髪の毛切ったのね? すごく似合ってる。それにそのお洋服もとっても素敵。ヨハンって本当に何でも似合うっ」
ヨハンはそんな美少女の誉め言葉にも浮かれることなく、落ち着き払った声を発した。
「身に余る光栄です。しかし、僕なんかよりも姫のほうがとても素敵ですよ。そのドレスもとてもお似合いです」
言い終えると、ヨハンは姫と呼ばれた少女の前に跪き、そっと手を取って手の甲に口づけをした。
マリーは二人の絵になる光景を、驚嘆の眼差しで見つめていた。しかし、跪くヨハンに姫と呼ばれた美少女は、不機嫌そうに頬を膨らませる。
「姫は、やめて。アレクシアって呼んでって言ってるでしょ?」
「これは失礼――――アレクシア姫」
「もー」
アレクシア姫は、泣きそうな瞳でヨハンを見つめた。
「ねぇ、もしかしてあの子がヨハンが助けたお姫様?」
マリーは小声でロキに尋ねた。
「そうだ、彼女がこの国の姫――――アレクシア・エメロード・アクサンドロスだ」
「綺麗な子ね」
マリーは天使のように可愛い姫様をうっとりと見つめた。女性から見ても母性本能を擽られるアレクシア姫の可愛らしさに、マリーもさっそく虜になっていた。
アレクシア姫は椅子に座って自分を眺めているマリーに気づき、視線をマリーに移しました。
「ヨハン、あの人、誰?」
アレクシア姫はマリーを指す。
「彼女はマリーと申します」
「ヨハンの恋人なの?」
ルナ姫は不安そうな瞳をヨハンに向ける。
「いえ、彼女は僕の助手です」
それを聞いたアレクシア姫の表情はぱぁーと明るくなり、再び天使のような美しい笑顔をふりまいた。
「よかった。ヨハンは私の恋人だもんね?」
「ええ、僕の心は姫のものです」
「ヨハーン」
表情に満開の花を咲かせたアレクシア姫は、再びヨハンに抱き着いた。
「姫様」
すると扉から老人が顔を出した。アレクシア姫の従者か執事なのか、老人は立派な白い髭を蓄え、分厚い胸板をもった肉体にぴしっとした黒のタキシードを纏っていた。
「お時間です」
老人とは思えぬ覇気と勢いのある声で告げると、アレクシア姫は頬を膨らませて老人を睨んだ。
「もう少しくらいいいじゃない。ジイのケチっ」
「ケチで結構。お時間です」
有無を言わさぬ物言いで、ジイと呼ばれた老人はアレクシア姫を促した。
「わかったわよ。ケチ」
ジイに悪態をついたアレクシア姫は、再びヨハンに向き直ってヨハンを見つめた。
「ヨハン、今度は凱旋式でね。その後のパーティにも出席するんでしょ?」
「ええ、もちろんです」
「じゃあ、その時いっぱいいっぱいお話しようね」
「喜んで――――そこまで送りましょう」
ヨハンは慎ましく言って姫を送って行った。
ヨハンのアジトの前には大きな黒い蒸気自動車が二台、道を塞ぐように止まり、そしてアジトの回りには、青い制服を着た警備兵らしき男たちが銃を構えて直立不動で立っていた。その光景は物々しく、まるで何かの事件がこの場所で起きたようだった。
ヨハンがアレクシア姫の手を取り、階段を降りようとした時――――アレクシア姫は急に振り返り、マリーをキっと一瞥した。そしてアレクシア姫は、小さい舌を出して片方の目を人差し指で引き、マリーに向かってアッカンベーをしてみせた。そして勝ち誇ったような微笑を浮かべると、アレクシア姫は何事もなかったように階段を降りて黒い大きな車の中に入って行ってしまった。
マリーは面食らったようにポカンと口を開け、心の中はとても困惑していた。
自分がアレクシア姫の気に障るようなことでもしたのかと思い当たる節を探り、それでも大体検討のつく答えにマリーは頭を悩ませた。
しかし、優雅な足取りで部屋に戻って来たヨハンにマリーは何も告げず、ただただ平静をよそおった。
「すごいわね、お姫様にまで気に入られているなんて?」
ヨハンはマリーの隣の席に座りました。
「別にたいしたことないさ。あの頃の年頃の女の子は、みんな年上の存在に憧れるものだよ」
「そんなものかしら?」
マリーは首を傾げた。しかしその心の中は乱れたままで、先程の出来事が、そしてロキの言葉がいつまでも、マリーの頭の中を駆け巡っていた。
その後、時間はゆっくりと流れ、ヨハンはまた分厚い本を広げて本の中身に没頭し、ロキはいつも通り体を丸めてくつろいでいた。
マリーはどこか心ここに在らずで夕食の準備をしはじめ、ぼんやりと言葉を呟いた――――
「素直になれ、か?」