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020 星を乖離す駿馬

 一方、マリーは――――


 ヨハンたちを残した部屋とは少し離れた、広々とした応接室のような部屋に案内されていた。きっとここはお客が来た時に使う部屋なんだろうと、マリーは部屋に入って直ぐに思った。この広々とした部屋は、先ほど入ったトールの部屋や廊下と違って埃一つ無く、すみずみまで手が行き届いていてとても綺麗な部屋だった。

 

 長い木製の机にみんなで腰をかけ――――しかし、ハンプティとダンプティは眠いからと自分たちの部屋に戻り、他のニーズホッグのメンバーも早番の仕事があるため、今はホズとチェシャ、それに髪の毛がモジャモジャで鳥の巣のようなドーしか残っていなかった。


 マリーは、ドーが不慣れな手つきでいれてくれたコーヒーを飲んでいた。


「あなたたちも朝早いんでしょう? 私のことはいいから部屋に戻っていいのよ」


 マリーはコーヒーを一口飲み、気を使わせては悪いと思って小さな声で言った。泥のように濃くて苦いコーヒーはマリーの眠気を吹き飛ばしてくれたが、お世辞にもおいしいとはいえなかった。


「いえいえ、あっしらは大丈夫ですよ」


「御頭はいつも寝坊してくるんだもんな」


「そうそう、全くなんさ」


「うるせぇ」


 そんな調子で会話を交わす三人を眺めながら、マリーは別の部屋にいるヨハンのことを考え、同時にアジトに残して来たロキのことを考えていた。


「私はここに残ろう。二人で出掛けてくるといい」


 机の上に寝転がりながら低い声で言ったロキの言葉を、マリーは思い出していた。ロキがあんなに疲れていたのはきっと自分のせいだと反省し、やはりここには来るべきではなかったんじゃないかと、マリーはヨハン言われたことを振り返りながら考えていた。


 この町に来てから自分は迷惑ばかり掛けているんじゃないか、そんな風に考えると、マリーはどんどんと落ち込んでいき、砂漠の砂の中にどんどんと沈んでしまい、必死に暗闇の中でもがいているような気がしてならなかった。


 するとホズはそんなマリーの浮かない表情に気がついて、チェシャとドーと交わしていた下らない会話を切り上げて、マリーに話かけた。


「姉さん、どうかしましたか?」


 声をかけられたマリーは、沈んでいく意識の中から抜け出してホズに意識を向けた。


「えっ、――――私?」


 マリーはとっさの事だったので、自分がなんと声をかけられたのか分らずに尋ね返した。


「ええ。ずいぶんと浮かない顔をしていたんで、どうかしたのかと思って」


「別にたいしたことじゃないの」


 マリーは慌てて言葉を繕う。


「ただ――――」


 マリーは落とすように言葉の続きを発しようとしたのだが、しかし次の言葉を飲み込んで、再び沈んでゆく意識の中に潜っていってしまった。深い深い意識の穴の中に沈んでいきながら、マリーはこの場にいることすら忘れて、どこか遠くを眺めていた。


「ただ、どうしました?」


「えっ? ああ――――」


 マリーは慌てて何かを言わなければと思い、とっさに思いつたことを口にした。


「ねぇ、ヨハンの話を聞かせてほしいの、さっきあなたたち言ってたじゃない? 今自分たちがこうしていられるのもヨハンのおかげだって――――その話を聞かせてよ?」


 話を変えようと、マリーは思い立ったように言った。


 それを聞いたホズとチェシャとドーは、互いに気まずそうに目を合わせた。まるで目で会話をしているように、お互いの目を見合わせて困った表情を浮かべる。そして言いづらそうに、ホズが口を開いた。


「あのですね、姉さん――――ヨハンのアニキの話をしたいのはやまやまなんですが、あの、その、ヨハンのアニキは色々と詮索されたり、昔の話をされるのが嫌いなんで、その、あんまり、アニキの話をするのは――――」


 ハッキリとしないホズの喋り方に、「もうっ」と――――マリーは痺れをきらせた


「ハッキリと言いなさいよっ。それより、あなたたちは何なの? 大の大男たちが揃いも揃って、あんなチャラチャラした優男にペコペコして情けないわね」


 マリーは、憤慨して激しく言い放ち、それを聞いた大男たち三人はおそるおそる口を開いた。そして、まるで今のマリーの言葉がヨハンの耳に届いているのではないかと、きょろきょろと当たりを見回していた。


「姉さんは、アニキの恐ろしさを知らなすぎるさね。アニキは本当に凄い魔法使いで、怒ったら本当に怖いんさ」


 と、体を雨に濡れ猫のように震わせてチェシャ。


「ええ、本当ですぜ。以前にアニキの寝起きにアジトに訪問した男たちなんて、全員蛙に変えられちまったんですわ」


 と、顔色を紫芋のようにしてホズ。


「そう、そのあと蛙にされた人たちはナベの中で煮込まれたんだもんな」


 と、目をぐるぐるさせながらドー。


「それにアニキがその気になったら、このトールワーカーズだってあっと言う間にペシャンコさ」


 と、再びチェシャ。


「国の警備隊だってイチコロなんですぜ。なんたって、アニキはあんなに魔法法律を犯しているのに、一回も捕まったことがないって具合で――――」


 と、再びホズ。


「いい加減にしなさいよっ――――」


 マリーがついに我慢できずに、声をあらげながら机を強く叩いた。その瞬間、静まり返った部屋の中にいた大男たち三人は、頭から煙を出して怒るマリーを、驚愕の眼差しで見つめた。


「もう、いいわよっ。あなたたちのくだらないヨハンへのおべっかは聞きたくないわ。私が聞きたいのは、ヨハンの昔の話よ――――」


 先ほどのトールに勝るとも劣らない鬼のようなマリーの姿に、ホズはおそるおそる口をひらいた。


「いやっ、ですから――――」


 聞かずとも分かる言葉の先に、マリーは苛立ちともどかしさを覚えて、ホズの話の続きを塞いだ。


「わかったわ。あなたたちがヨハンを恐れていることは、もう十分にわかったわ」


 マリーは脅える三人に理解を示してみせた。そしてマリーのその言葉を聞いた三人は、ほっと息をついて安堵の表情を浮かべた。しかしマリーの言葉の続きに、三人は再び凍りついたように体を震わせることとなった。


「じゃあ、こうしましょうよ。今からあなたたちが話したことを、私は誰にも言わないわ。それならヨハンにもバレないし、私も話が聞けて一石二鳥じゃないかしら?」


 もうテコでも動きそうもない満面の笑みを浮かべて見せるマリーの意志に、ついに大の男たち三人も諦めて、結局ヨハンの昔話をすることにした。話を聞く前、マリーはドーにコーヒーのお代わりを聞かれたが、マリーはそれを丁重に断って三人が話を始めるのを楽しみに待った。


 そしてホズは、ついにその重い口を開けて渋々話を始めた。


「アニキに出会ったのは、嵐の夜でした――――」


 心に深く刻んだ思い出をなぞりながら、ホズはゆっくりと言葉を続ける。


「姉さんも“ローラシア大陸”に住んでいるのなら、“スレイプニル”を聞いたことがあるでしょう?」


「ええ、もちろん知ってるわ」


 マリーが知っていると答えた“スレイプニル”とは、ローラシア大陸全土を横断するほどに規模の大きい“大嵐”の通称のことで、古い言葉で“星を乖離(かいり)駿馬(しゅんば)”の意味をもつ言葉だった。スレイプニルは遥か(いにしえ)の時代から、このローラシア大陸に吹き荒れていたと数々の文献が残っており、一夜にして城下町の全てが吹き飛ばされたことや、スレイプニルに遭遇した飛空挺の編隊が壊滅したことから、“スレイプニルの通った後には何も残らない”と言われるほどの大嵐のだった。


「最悪の一日でした。あの日は本当に運が悪かった。今まで生きて来た中で一番と言ってもいいほどに、最悪の日でしたよ。あの日、あっしらは“ニーズホッグ”の飛空挺“ナグルファル”で空を飛んでいました。あれは一仕事終えてアジトに戻る途中、あっしらは突然目の前に広がるスレイプニルの中に、避けることも出きづに飲み込まれたんですわ。スレイプニルは数十年に一度起きるかどうかと言われていて、あっしらに言わせれば、そんなの気まぐれすぎる天気予報みたいなもの。あの日もそんな浮かれた気分で、目の前の嵐を舐めてました。だけど、そんな嵐の中に船は投げ出され、いつの間にか舵はおろか、針路さえどこを向いているか分からない状態でした」


 目を閉じたホズが重々しく口を動かし、頭の中で過去の出来事を詮索していた。そして、次に口を開いたのはチェシャだった。彼もまた、ホズと同じように目を閉じて嵐の光景を瞼の裏に浮かべていた。


「確かに最悪の一日だったさ。あの日ほど死を意識した日はなかったさね。これほど自分たちが無力だと感じたことも無かった。親父に拾われて空賊になってから、いくつもヤバイ山を乗り切り、何度も危ない目にあってきた。自分たちに空では敵うものはいないとう自負もあったさ。けど、あの日はそんなことすら忘れて、ただ立ち尽くすし、祈るしか無かったさね。ただただ、この嵐が去ってくれと」


 チェシャが言葉を切ると、次はドーが口を開く。


「最悪の一日」


 ドーは大きく頷いた。


「今まで見たこともない激しい嵐だったんだな。風が打ちつける度に船は激しく悲鳴を上げて、暴風雨に巻き上げられた浮遊物が甲板を突き破り、雷が鳴る度においらたちは縮み上がったんだな。あの親父でさえ、スレイプニルの前では無力に等しかったんだな」


 みんな、それぞれ瞼の裏に過去の惨劇を思い浮かべながら言葉を発し、話しが進むにつれて夜の嵐に巻き込まれてしまいそうに緊迫していくこの場の雰囲気に、マリーもニーズホッグのメンバーと夜の嵐に巻き込まれたような気分だった。張り詰めた空気の中、マリーは彼らの話に真剣に耳を傾け、もう言葉を挟むこともしなかった。


「あっしらを乗せた船は、そのまま嵐に流されてもういつ沈んでもおかしくない状態でした。もうほとんどのメンバーが諦めかけた時、吹きつける暴風雨、そして雷鳴の中から、不意に人影が現れたんです。この嵐の中を一体どうやってこの船内に入り込んだのか、それは銀髪碧眼で、肩に黒い子猫を乗せた少年でした。まだあどけなさの残る少年の顔は、それでもその吸い込まれ、引きつけられてしまうほどに大人びていて、そして身に纏った異様な雰囲気に、あっしらは全員目を奪われていました。それが、あっしらとアニキとの初めての出会いでした」


 マリーも自分がヨハンと初めて出会った夜のことを思い出していた。


「あっしらが黙ったまま、少年の異様な雰囲気に釘づけになっている中、少年はヨハンと名乗り、あっしらに言ったんですわ。“君たちを助ける、その代わりこれからは自分のために働いてほしい”と。それも自信満々に。それを聞いた親父は怒り狂い、少年を怒鳴りつけましたが、アニキはちっとも同じた様子もなく言葉を続けたんです。アニキは言いました。“空賊の誇りを持って死ぬのも結構だが、もう二度と空を飛べなくなる、それでもいいのか”と。正直、親父を含めて、あっしらは全員半信半疑でした。この嵐を乗り切れるなんて話を聞いたこともないし、ましてこんなガキに何ができると。だけど、アニキの言葉を聞き、あの瞳に見つめられると、不思議と不可能じゃない気がして来たんですわ」


 マリーは頷き、自分もヨハンに説得された時の不思議な感覚を思い出した。


「けど、あっしらもローラシア大陸で幅を利かせる大のつく空賊です。その誇りが邪魔してか、親父はなかなか首を縦には振らなかったんです。けどそんな時――――船に異常が起きたんですわ」


 ホズの口調が更に重くなり、マリーはごくりと唾を飲み込んだ。


「激しい嵐に耐えられずに船首が真っ二つに割れ、動力炉が動かなくなったんですわ。もうあっしらの船は飛ぶことすら出来なくなり、後はただ地面に落ちるだけになりました。それを見たアニキはあっしらの尻を叩くようにこう言いました――――“一つ忠告しておくと、このまま君らが無事にこの嵐を乗り切れても、嵐に乗じて出動した白獅子の軍隊に捕まることになる。どの道、君たちは二度と空を飛べなくなる”。そこまで聞いて、ついに親父はついにアニキ頼んだんです。あっしらを助けてくれと。それを聞いたアニキは、初めからこうなることを予想していたように、テキパキと仕事にかかりました」


 マリーはありありと思い浮かぶヨハンの行動に、昔からあの性格は変わっていないのね、と顔を顰めた。


「まずアニキは船の動力炉に行き、炉に魔法陣を書いたんですわ。他にも四個所、飛空挺の東西南北に当たる場所に魔法陣を書きました。そして準備が整った後、アニキが船に魔力を込めると、今まで死んでいた船が息を吹き返したんです。船はどんどんと高度を上げて雲の上に出ました。そこは、まさに天上の世界。長年、空を飛び続けるあっしらでも今まで見たこともないような、大きな太陽に、白い雲の大地。眩しすぎる光りに包まれて、死んでもないのにまるで天国にいるようでしたよ」


 マリーも、その天国のような光景を思い浮かべてみた。


「確かに、あの空はすごかったさ。美しいとか、綺麗とか、そんな言葉にできるようなもんじゃない。俺は、あの空にこの世の全てをみたさね」


 チェシャの言葉に残りの二人はぷっと吹き出し、ドーは笑いながらチェシャの背中を叩いた。


「また始まったんだな。このロマンチスト。その台詞聞き飽きたんだな」


「何とでも言うがいいさね。あれこそ、この世の宝だよ。どんな金銀財宝や、絶世の美女すら足元にも及ばない、究極の宝――――大いなる空、グランド・エアさね」


 またも二人は大笑いをした。先ほどまでの重い雰囲気は嵐とともにどこかに去り、今は太陽に照らされたような和やかな雰囲気が漂っていた。


「ねぇ、グランド・エアって? それであなたたちはどうなったの?」


 馬鹿笑いをしている二人と、膨れた面のチェシャにマリーは尋ねる。


「ええ、グランド・エアって言うのは飛空挺乗りに伝わる伝説ですよ。“大いなる空、偉大なる青、それはこの世の秘宝にして、始まりの場所――――グランド・エア”ってね。まぁ、誰も見たことがないんで、ただの伝説なんですがね」


「いやっ、あれは絶対にグランド・エアさね」


 チェシャは、頑として言い張った。


「その後、船は嵐が去るまで雲の上をゆっくりと飛行し、そして地上で警備網を引く白獅子の軍隊を通り越して近くの町に降りたんですわ。一命を取り留め、そして軍隊からも上手く逃げ延びたあっしらは、そこでヨハンのアニキに拍手喝さいをおくり、祝いの宴会を開いたんですわ。ぱーっと」


 マリーは容易に想像できる光景を頭に浮かべた。


「そんなことよりも、このアレクサンドリアで造船会社を作った話を聞かせてよ」


 ホズの代わりにドーがマリーの質問に答える。


「アニキがニーズホッグに出した条件は三つだったんだな。一つは侵略、略奪行為は止める。まぁ、これは元々あんまりやってなかったから問題はないんだな」


 マリーはあんまりと言う言葉が気になったが、あえて口には出さなかった。


「二つ目が、このアレクサンドリアで空賊の造船技術を活かして造船会社をつくることだったんだな。そのための面倒なことは、ぜんぶアニキがやってくれたんだな。じゃなきゃ、おいらたちみたいなゴロツキが、この王都で会社なんて経営できないんだな。あとから聞いた話じゃ、アニキが王室に頭を下げて頼んでくれなかったら、おいらたちはとっくに御用だったんだな。そして最後の三つ目は、空賊でい続けることだったんだな」


「空賊でいつづけること?」


 マリーは言葉の意味を尋ねる。


「そう。今まで通り空賊して、ニーズホッグとして活動してほしいって、アニキは言ってくれたんだな。あれにはおいら涙もんだったんだな。もう空には帰れないと思っていたから――――」


 心なしかドーの顔に涙が浮かび上がり、他の二人も感動の話に体を震わせていた。


「本当に全部アニキのおかげだよ。アニキがいなけりゃ、俺たちはあの日死んでたさね」


 チェシァも歓喜に沸き上がっていた。


「アニキ、サイコー」


 いきなり、ホズが雄叫びのように叫ぶと――――


「アニキ、サイコー」

「アニキ、サイコー」


 他の二人も同じように叫び出した。


「おいっ、ヤロウ共、酒を持ってこーい。乾杯だー」


 ホズがご機嫌で酒を要求すると、「了解」と声を上げて、残りの二人もご機嫌で席を立った。


 マリーはそんな微笑まし光景をにこやかな顔で眺め、そして半ば呆れながらも本当に慕われているヨハンに自分までも嬉しくなり、話を聞けてよかったなあと、マリーはとても満足していた。


 するとチェシャとドーがビールやぶどう酒を運んできて、マリーの前にもグラスが置かれた。ドーはマリーのグラスにも「さぁさぁ」と溢れんばかりぶどう酒を注ぎ、マリーは飲んだこともないお酒を目の前にして、そのグラスを促せれるまま手に取った。


「アニキにかんぱーい」


「かんぱーい」


 ホズが乾杯の音頭を取り、マリーも気分の良さからそのグラスの中身を一口飲んでみた。しかし苦くて渋いその味に、マリーは一口で飲むのを止めてしまい、それをぐいぐいと飲み干している男たちを訝しげに眺めた。そして、それを飲み干したご機嫌のホズが、ビールの泡を口の周りつけたままマリーに言った。


「今日の話、ヨハンのアニキには内緒にしてくださいね」


 マリーは快く了解したのだが――――


「ほう、いったい何の話を、いったい誰に内緒にしておくんだい?」


 後ろからそう言い放ったヨハンを見て、その場の全員が――――マリーでさえもが凍りついたのは、言うまでもなかった。


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