001 彼女は今夜も月を眺める
マリーは、今夜も月を眺めていた。
山岳地帯の奥深く、山と山に囲まれた谷間にある田舎町“ボロニア”。そして、ボロニアの東の山“エンピレオ”。蛇のようにうねった山道を降りてきたマリーは、黒真珠のように円らな瞳を夜空に泳がせて――――今夜も月を仰いでいた。
今夜は満月。
幾千もの星々の真ん中に浮かぶ満月は、真っ暗な夜空を金色の月明かりで照らしていた。
なだらかなエンピレオの中腹部、小高い丘のような場所に建てられた大きな館。ボロニアの町を取り仕切る名士であり、貴族――――オベリアル卿の暮らす館に、マリーは住み込みの使用人――――メイドとして働いてる。
一日の仕事が終わり、くたくたに疲れて使用人たちの宿舎へと戻っていくその帰り道、マリーはこうして山道に転がる大きな石に腰を下ろしては、しばしば月を見上げていた。
それは、幼い頃に母親が話してくれた御伽噺の影響だった。
満月の夜、風に乗ってやってくる異国の魔法使い。
マリーは幼いころから今日まで、この物語を忘れたことはなかった。マリーは、幼い頃に父親を亡くしていた。マリーの記憶さえないような、とても幼い頃だった。そして父親の死後、マリーは母親に女で一つで育てられた。朝早くから夜遅くまで働きっぱなしだったマリーの母親は毎晩帰りが遅く、マリーは毎日玄関の前で、母親の帰りを待っていた。
マリーは月を眺めながら、不意に母親のことを思い出す。
「ママ、お帰りなさいっ」
マリーは瞳を輝かせながら、帰宅したばかりの母親に勢いよく抱きつく。
マリーの母は疲れた素振りなど少しも見せずに、マリーの頭を撫でて優しい笑みを浮かべてみせる。
「ただいま、マリー。いい子にしていたかしら?」
「もちろんっ」
マリーは母親の足にしがみつき、とびっきり甘えて見せる。
もう離さないと言わんばかりに。
「ねぇ、早くお話の続きを聞かせて。早く早くっ」
マリーは母親を引っ張って行こうとしする。
「あら、せっかちね? ちゃんと寝る前に話してあげるから、まずは歯ブラシをして顔を洗うこと」
「はーい」
マリーは走って洗面所に向かう。
女で一つで母親に育てられていたマリーにとって、母親と過ごせる時間はとても短く、とてもかけがえのないものだった。だけど、マリーは少しも寂しさを感じることはなかった。一人でいる時はいつも頭の中で物語を想像し、一人空想の世界へと翼をはためかせる。
マリーは、いつも“魔法使いの物語”を想像した。
心の中に色々な世界を思い描き、物語の世界に耽っていると、不思議とマリーは寂しさを感じなかった。それに母親が帰ってくるまで良い子で待っていて、母親に頭を撫でてもらうのが、マリーにとって一番の楽しみであり、世界で一番の喜びだった。
しかし、その幸せは長くは続かず――――今のマリーにはなかった。
マリーの大好きだった母親も、マリーが十二歳の誕生日を迎える前に、病気でこの世を去ってしまった。それから孤児になったマリーは、母親が働いていたオベリアル卿の館に、住み込みの使用人として引き取ってもらうこととなった。
仕事はいつも大変だった。
夜仕事が終わる頃には、マリーはいつも揉みくちゃにされたシャツのようにくたびれていた。仕事の内容は、まるで舞踏会場のように広い部屋の掃除から、山のように盛り上がった洗濯物とアイロンがけ。山を下っての買出しは半日掛かりで、帰りの荷物はとても女の子が一人では持ちきれぬ量。大鍋何十個分もの食事の用意や、地平線が見えてしまうんではないかと思うほどの広さの庭の手入れ、それから子供のお守りまで。
仕事はいくらやっても片付かず、マリーはいつも世話しなくせっせと働いていた。
それでも、マリーは今の生活が嫌いではなかった。毎日が大変で厳しいものだったが、マリーは月にもらえるわずかな給料と、月に一回の休みが待ちどうしくてしかたなかった。それにこうして毎日忙しく働いていれば、母親がこの世を去った時のことを思い出さなくてすむ。忙しさに身を委ねていれば、嫌なことや、辛いことは忘れられる。
マリーはとにかく無心で働きつづけたいた。
しかし、それでもこんな満月の夜は、大好きな母親のことを思い出さずにはいられなかった。
マリーはそっと思い出の引き出しを開け、中に詰まっている暖かい思い出の余韻に静かに浸っていた。
しかし、不意に雷が落ちたかの様な轟音にマリーは無理やり現実に引き戻された。西の山の向こうから激しい轟音を連れてやってきたのは、山の様に大きく、城の様に頑丈そうな、空を覆い尽くさんばかりの巨大な飛空挺だった。
「なに、あれ?」
マリーは驚いて目を丸くしていた。マリーが驚くのも無理はなかった。マリーの住んでいるボロニアの町は、大陸一と言っても良いほどの田舎町で、最新技術や産業革命とは無縁の地域だった。
マリーは目の前に現れた、巨大な飛空挺――――六枚三対のトンボのような羽を持ち、大きく開いた船首は、まるで怪物が大きな口を開けているように見えた。飛空挺の船尾は蜂のお腹のように膨らんでいて、飛空挺全体は、猫の背中のように丸まっていた。
マリーはそれを眺め、体を震わせた。
飛空挺の羽が巻き起こす激しい風に山がおののき、草木は折れぬよう必死に耐えていた。マリーも近づいてくる飛空挺に飛ばされぬように体を岩の影に隠して丸くなり、耳を塞いで飛空挺が過ぎ去るのを待った。途中、激しい轟音の中でマリーが目を開いて空を見上げてみると、空はすっかり飛空挺の影に隠れていた。
マリーは飛空挺が通り過ぎたのを確認してから、おそるおそる岩影から出てみた。そして飛空挺が山の向こうに消えて行くのを、マリーは呆然と立ち尽くしたまま見送った。乱れた髪の毛を直し、使用人が館で働くときに着用するエプロンドレス――――フリルついた白いエプロン、黒いシャツと黒の長いスカート制服についた汚れや砂埃を払った。そして肩口まで伸ばした長い黒髪を丁寧に押さえつけ、顔や肌にくっついた砂埃を綺麗に落としてから、マリーは再び消えて行った飛空艇の方角を眺めた。
「いったい何だったのかしら? 飛行機だって滅多に通ったりしないのに」
マリーは飛空挺が完全に視界から消えたのを確認してから、急いで宿舎に戻ることにした。
マリーのような住み込みの使用人たちは、館から少し離れた場所にある使用人専用の宿舎で暮らしている。オベリアル卿の館の豪華絢爛さに比べれば建物は古くてみすぼらしく、先程の飛空挺が起こした激しい風で壊れてしまいそうなものだったが、それでも使用人一人につき一部屋を与えられ、必要最低限の物はそろっているので、マリーに不自由は何一つなかった。
マリーにとってひとつ問題があるとすれば、隣の部屋のアメリおばさんだっった。アメリおばさんは太った大柄のおばさんで、とても優しくていい人なのだが、いびきがとてもうるさかったのだ。まるで大掃除でもしているかのようないびき声に、マリーは夜な夜な悩まされていた。
「今夜はアメリおばさん静かに眠ってくれればいいんだけど」
そんなことをもらしながらマリーは帰りの道を辿り、ふと満月が恋しくなり夜空を見上げると――――マリーは満月の中に、人影のようなシルエットを見つけた。
「何かしら、人? そんなわけないわよね?」
そのシルエットは一瞬、マリーが瞬きをしている間に消えてしまった。
マリーは「疲れているんだな」とため息を付き、早く宿舎に帰ろうと足を進めた―――その時、夜空に月明かりでも、星の輝きでもない光を、マリーは黒い瞳の中に映しこんだ。
それは淡い緑色の光りだった。
まるで夜空から星が落ちてくるかのようにゆっくりと、その淡い緑色の光は山の向こうの平原地帯に落ちて行く。
「何かしら? よしっ――――」
マリーはその光りが何なのか気になり、いても立ってもいられずに走って光の元へと向かって行った。