第弐拾弐話 脱走開始
「調子はどうだ? むさ――」
ベッドの周囲に虚しく鳴り響く心拍数零の音。安定の落ちぶれた音を出しているモニタを前に、麻道は無言で仕切りを閉める。そして、他のベッドも調べたが、誰一人、虫一匹もいなかった。要するに、脱走されたのだった。大けがを負った四名の生徒に。しかも、まんまと、いとも簡単に逃げられたのだ。生徒でも、入学したばかりの、一ケ月しかまだいない壱年生でも、もう武士の心が形成されているのだ。
麻道は何事も、何かがあったようには思えないほど、無言で部屋を後にした。
「言っても無駄だったか……。ま、あとは、あいつらに任せるとするかな。見守るのも、からくりの役目だしな」
麻道はそう小さく呟くと、どうみても暇にしか見えない、フラフラとした歩きで長い廊下を歩いて行ってしまった。
「つばささん、誰か来てる?」
武蔵が心配そうにつばさへ聞いた。
つばさは目を凝らしながら、小さなからくり一体でも見逃さないように、辺りを注視する。
「大丈夫。今なら少しは距離を稼げるかも」
つばさがそう言うと、全員が息をそろえて、一斉に、斜め向かえの壁際まで移動する。その光景は慌ただしいものだった。それもそのはず。四人中二人は、車いすでの移動なのだ。それゆえに、見た目は非常にごちゃついて見える。もっと悪く言えば、品がない。移動に品を求めるのもあれなのだが、分かりやすく簡潔に言えば、汚い。これに尽きる。
「つばささん、もう少しゆっくり行けませんかね? 僕、片腕使えないんですけど」
「私の言ったこと聞いてなかった? きつかったら、ここで休んでていいよ、て」
つばさのその一言を聞いて、秦はシュンとした。言い返せなかった。
「つばさちゃん。誰か来たぞ」
疾風が近づく誰かに気付く。全員、まるで串団子のように、一列に覗き込んだ。
「あれって」
「あれですね」
「あれだな」
「あ……あ……」
「つばさ殿? 大丈夫でござるか? 汗が尋常じゃないでござるよ?」
武蔵をおぶっている鬼兜が、つばさにそう語りかけた。
尋常じゃない。それはもう、あの日、あの時、あの時間、見たものと同じだった。黒い、黒い、とっても黒い魂。通称、ゴキブリだった。
「き、きゃ――」
つばさは思わず、悲鳴と悪夢が入り混じった叫びを、廊下いっぱいに叫びそうになった。が、そこを全員で口を塞ぎにかかる。
「堪えて! つばさちゃん!」
「つばささん! こんな所で叫ばないで! 見つかる!」
「何か避ける策が絶対にありますから! 僕が考えますから!」
秦はそう言うと、懐から、お手製の藁人形を取り出し、釘を打ち付ける。
「これで大丈夫ですよ。あの時の僕たちに出来たんですから」
「おい、琵琶之秦。ちょっと見ろよ……」
「何ですか、武蔵さん。ちゃんと死んで……ない」
武蔵に言われ、秦は振り向く。すると、そこには、いた。黒い魂がいた。ゴキブリがいたのだ。あの時のように、死んでいない。その後、全員が釘を打ち付けたが、ゴキブリは死ななかった。むしろ、動きが機敏になっている。もしゴキブリ限定の大会があれば、優勝を狙えるくらい機敏になっていた。
「だお~」
そして、ゴキブリは動きを止めると、可愛らしい唸り声を上げた。その瞬間、全員が納得した。どうりで 死なないわけだ、と。
「おい。あれって」
「あれですね」
「あれだな」
「あれだよね」
全員が声を揃えながら、言った。
「今、誰かの声がしただお。いったい、誰だったんだお?」
正体は、この戦命学園のアイドル的存在であるだおちゃんだった。
だおちゃん。正式名称は黒薇。主人は化学担当の山柴隆教師であるが、基本的に自由奔放、自由気ままに行動をしているので、あまり一緒にいることは少ない。そして、それは現在進行形で言える。黒薇は今は一人でいる。
「どうするんだよ、見つかったら、絶対めんどくさいことになるぞ、自惚れくん」
「いや、俺に言われても……」
「秦くん、何かない?」
「何かと、言われても……あ」
秦は何かを、突発的に思い出し、懐から、いつもと変わらない物を出したのだが、少し奇妙な形だった。いつ作ったのか分からないが、なぜ作ろうと思ったのかわからないが、出した物は、藁人形の形をした服だった。小さい服。おおよそ、音無蜂にプレゼントをしようと思って、前もって作っておいたのだろう。
「今は、これで気を引くしかないです」
秦はそれを、黒薇の方へ投げる。すると、本物さながらに、黒薇は食らいついた。
「これは……」
黒薇は試着を試みる。抜け殻のように、ゴキブリの衣装を脱ぎ、藁人形へと姿を変える。新聞に載るとすれば、『恐怖! 喋る藁人形!』と見出しが載りそうだ。まさにその通りなのだけれでも、それ以外には例えられないのだけども、それくらい、黒薇に似合っていた。
「これは結構しっくりくるだお」
黒薇はそう言うと、再びゴキブリの衣装を身に纏う。抜け殻を捨て、抜け殻を着る。新種の昆虫のようだった。
「でもやっぱり、だおちゃんには、これがいちばんだお!」
と、言うと、黒薇はどこかに走り去ってしまった。ゴキブリ並みに。
「一体、何だったんだ?」
武蔵は呆然としながら呟いた。そして、その言葉は全員の心に染みついた。




