桜咲く
まだ携帯がない頃のお話です。
憂鬱だ。ピンク色のあの木が咲いてしまった。風と一緒にひらひらと落ちてきた花びらを、みがきたてのローファーで踏んづける。並木から二、三メートル離れた反対側の道を歩いていく。
存在を見せつけるように咲き乱れるものを見たくなかった。あんなもの、ずっと咲かなければよかったのに。
「さくら!」
なんであちこち植えられているんだろう。いやでもあちこちで目に入る。
「さくらったら!」
「痛っ」
後ろから平手で背中をおもいきり叩かれた。早苗だ。部活が終わったのかジャージ姿のまま下校するらしい。
「さっきから呼んでるってのに、さっさと先に行かないでよ」
「ごめん」
答えたくなかったのは名前のせい。
桜の咲く季節に生まれた私は「さくら」と名付けられた。ずいぶん短絡的な性格の両親だ。
「結構前にあんたのお兄ちゃんと門のところで会ったよ。もう帰ったって思ってたのに、どこいたの」
「図書室寄ってた」
「不審者が学校近くで目撃されてるから気を付けるようにってHRで先生が言ってたでしょ? もしかしてそれで迎えに来たんじゃないの? あんたんとこすごく仲いいじゃない」
もう一ヶ月近く家で兄を避けて顔を合わせないようにしていたのに学校まで来るなんて。もう、すぐだからか。
「別に」
「なーにひねてんのよ。あーあ、優しいお兄ちゃんを持って幸せだよねえ。私もあんな頼れる兄が欲しいよ。あんた二人もお兄ちゃんいるんだから一人くらいちょうだい」
兄は外面がいいから。いかにもいい人そうな顔でにこっと笑えば、誰だって早苗のように思うだろう。能天気な早苗の感想に少し腹が立った。兄はちっとも私に優しくない。
「あっそ。のしつけてあげるよ。持ってくなら早くしてね。あー、そうそう早苗んとこの岳志くんととりかえっこがいいな!」
「つくづく薄情な妹だなあ!」
早苗は背後に回って人さし指でこめかみをぐりぐりしてきた。
「いたい、いたいってばー!」
「うちの弟とトレードしてほしいのは山々だけど、あんたのとこにやったらこき使われるのがオチだからね、やっぱやめとく」
こっちとしては半分くらい本気だった。弟なら、兄のようなことにはならないから。
「妹だからってあんまり邪険にして愛想つかさても知らないから」
「はいはい」
兄に関しては一歩も引かない私に業を煮やしたのか、早苗はいつもの分かれ道ではなく、その二本手前の信号で「寄るとこがあるから」といって走って行ってしまった。
ようやくひとりになれて、ため息をつく。
後ろから走り寄る足音がして、無言で肩を捕まれた。一目で男とわかる大きなその手の平。
不審者だ。
カバンにつけた防犯ブザーを手でたぐりよせる。
「さくら!」
そう思った瞬間に兄の声がした。
スイッチのヒモを外そうとしていた手は、すんでのところで兄に止められていた。
「俺だ、俺」
「なんだ……」
力を入れていた手がゆるむ。つられて安堵の表情が兄の顔にも浮かぶ。その時、油断していた兄の目の前で私はカバンから防犯ブザーをぶちっと外して兄に投げつけ、ブザーのスイッチのヒモだけを持ってその場を駆け出した。
「うわあっ、さ、さくらっ、こら!」
あわてふためく兄と鳴り響くブザーの本体を置いていく。
ちらりと振りかえると大音量のブザーは周辺を歩いていた人たちの注意を引きつけ、不審者へ向けるような視線をたっぷり兄に注いでいた。もう一度振り返ったとき、昔スポーツをやっていたような体格の真面目そうなサラリーマンに腕を掴まれている兄が見えた。
しばらくして兄が帰ってきた。階段を昇る足音が、私の部屋の前で止まる。
ノックが二回あった後、ドアの向こうから兄の声が聞こえてきた。
「さくら。今、いいか? ……向こうに行く前にさくらとちゃんと話したい」
「私はしたくないもん」
真剣な兄の声に、思わずいじけるように返した。
拗ねた私をなだめてあやすのはいつも下の兄だった。兄とまともに顔を合わせて話してしまえば、結局私は兄に勝てない。だからこそ今までずっと逃げて避けてきた。
今だって胸の奥で会いたい、話して、甘えたい気持ちがうずうずしてる。
ずっと当たり前だった日常の何気ない会話、私の頭をなでる手、一緒に過ごす時間。この一ヶ月全部我慢してきた。そうしたら、兄がいなくなったらどんな気持ちになるのか、いやでもわかってしまった。逃げるのをやめるのが、こわくなってしまった。兄がいなくなることを認めてしまいたくなんかない。
「わかった、ここで俺が勝手に話すから聞いても聞かなくてもいい」
ヘッドホンを手に取り、どこにも繋がっていないそれをつける。
「もうこれで最後にするから」
ドア越しに小さく届いた「最後」という言葉に、胸がぎゅっと締めつけられた。ヘッドホンを両手で押さえ、長いコードをひきずってドアの前に座り込む。
「さくらが生まれたときから、俺たちずっとこの家で一緒に過ごしてきたんだもんな。それがいなくなるって聞いたらびっくりするよな。ごめんな。なかなか言い出せなくて」
私の気持ち、全部わかってるのに。それでも置いて行くんだ。もう決めたことだからって。
「さくらの悲しい顔思浮かべたら、つい先延ばしにしてた。俺もできるなら、このままいられたらいいと思ってた。……さくらが小学生の頃、ひなたぼっこしに屋根に上がって危なかった時があっただろう? あの時は俺たちが側にいて助けられた。もしまたあんなことがあったらどうしようって、あの後何度も考えたよ。お前はおてんばだったからな。昔から。できるなら、ずっとお前を見守っていたい。でも……ずっとは無理なんだ。俺もさくらも、大きくなれば世界は家や、中学校、高校だけじゃなくなる」
急に屋根に上がりたくなった。私を置いて遠くへ行ってしまう兄の言うことなど聞きたくなかった。この先の言葉を聞くのがこわかった。別れの言葉なんていやだった。
ヘッドホンを床に投げ捨て、窓を開け、張り出した屋根に上がる。小学生の頃はよく上がっていた馴染みの屋根だ。久しぶりの高い所に、壁に手をあて慎重に足を進める。
「あっ」
ひやりとする。靴下だと滑りやすいことをすっかり忘れていた。しゃがみこみ、壁によりかかり右の靴下を脱ぐ。左も、と足を上げたら体がよろけて屋根に倒れこんだ。体が滑り落ちていく感覚に悲鳴を上げる。
とっさに動かした素足の右足と、手の平がブレーキ代わりになって途中で止まった。
恐くて、もう手も足も動かせなかった。
「……兄ちゃん……小兄ちゃん!! 助けて!」
大声を上げて呼ぶと、すぐさまドアが開く音がした。
「さくら!」
頭上から小兄ちゃんの声が聞こえた。
「今そっち行く。そのまま動くんじゃないぞ!」
「うん……」
気が遠くなるような長い時間だった。
屋根に上がる足音、近寄る気配。
足がしびれ。手が震える。
「もうちょっとだからな。がんばれ、さくら」
「……小兄ちゃ」
力強い大きな手が、左腕を掴む。右腕も掴まれて、体が上がる。
抱えられる瞬間、小兄ちゃんの体ごと一緒にぐらついた。もうだめだと目をつぶる。ぐんと何かに引っぱられた感覚の後、しっかり抱えなおされる。あとはもう石像みたいに固まったまま、抱っこされて部屋に戻った。
「よかった、さくら……無事で、ほんとよかった……はあ」
大きなため息と一緒にぎゅっと抱きしめられ、やっと助かった実感がわいてきた。
「ありがと、小兄ちゃん……ありがとう……こわかった」
二人で床にへたり込んで、泣き笑いになる。
よく見たら小兄ちゃんの腰に黒いコードが結ばれていた。目でたどっていくとベッドの足にヘッドホンごとコードがくくりつけられている。
「ああ、床に転がってたから命綱代わりに使ったんだ。長いコードで助かったよ。中の線が切れてないといいけど」
「大丈夫だよ、たぶん。もしそうでも立派に役目を果たしたんだもん。ヘッドホンだって本望だって」」
普通に小兄ちゃんと話している自分に気づいて、顔を斜め下にそむける。安心してゆるんだ心をきゅっと引き締めた。
一度はうつむいたものの、小兄ちゃんがどんな顔しているのか気になって、ちらりと盗み見た姿に目元がじわっと熱くなる。
髪はぼさぼさで、帰って来たときの服の上にヘッドホンの黒いコードを巻きつけ、両足とも裸足でどこかにひっかけたのか赤い線をひいたような傷ができていた。
いつだって、全力で私を助けてくれた小兄ちゃん。
どんなときも側にいてくれた。ずっと、ずっと。
私が困っていたら、いつでも手を差し伸べてくれて。
もう、その手がなくなるなんて。
小兄ちゃんいなくなるなんて、信じられない。
やっぱり、離れたくなんかない。
いやだ。
「う…………っ。やっ、やだよぉ……小兄ちゃんまで……うぅ……いなくなっちゃうのやだよぉ……っ!」
こらえきれない涙が次々頬をつたって落ちていく。
「さくら……」
「さびっ、しいよ……朝起きて、いないのやだよぉ……置いてかれるの、もうやだぁ。私はっ……うっく、お兄ちゃんたちと……ひっく、ずっと、ずっと一緒がよかったのに……どうして……ずっと同じがいいのにぃ……っ!」
いつのまにか抱きしめられていた。小兄ちゃんの手が背中を優しくぽんぽんと叩いた。
もうこうしてなぐさめてもらえないと思うと、余計に涙が止まらなくなってしまった。
声にならない声が喉にひっかかって、唇に力を入れて我慢する。への字口になって、小兄ちゃんから見たら情けないことになっているんだろうとわかっていても、どうしようもなかった。
「また、子供みたいに……だだ、こねてって……うぐっ、お、思ってるんでしょ」
「さくらは昔とちっとも変わらない泣き虫の、俺たちの大事な妹だよ。だだこねてもこねなくても」
「うぅ……うー……しょ、小兄ちゃ……っ」
「うん」
相づちが耳に温かく届く。
そっと私の髪をとかすように小兄ちゃんの指が頭をなでる。
ぎゅっとしがみついて、私は思い切り声を上げた。
さんざん泣いた後はきまりが悪くて、顔を合わせることができず、ぐしょぐしょに濡れた兄の服に頭を押しつけてごまかした。
小兄ちゃんは困った声でぽつりと言った。
「さくら……ごめんな」
もう謝らなくていいのに。
私がお兄ちゃんたちをひきとめてきたのは私のわがままだ。この気持ちはどうしようもない。泣いて、小兄ちゃんに気持ちをぶつけたせいか、体の中のもやもやした苦しさがどこかへ行ってしまった。残ったのはひたすら脱力感だった。
まだ少し涙声が出て、精一杯つっぱってみせた。
「……鹿児島でも、北海道でも、沖縄でも、どこへでも行けば。私のお兄ちゃんたちはみーんな薄情だもんね」
「さくら、俺だってお前と離れるのは……寂しいよ」
「全然寂しくなんか思ってないくせに。大兄ちゃんも、小兄ちゃんも。私を置いてけぼりにして」
自分で口にして、悲しくて、腹が立つ気持ちがむくむく起き上がってくる。
どうしても唇が尖ってきて、拗ねた声になってしまう。
「出てったら、もううちになんてお盆とお正月くらいしか帰ってこないんでしょ。私のことなんかどうでもいいくせに」
「さくら。お前は大切な妹だ。たった一人の妹なんだぞ? 俺だって兄貴だって忘れるわけない。お前、兄貴が鹿児島行ってから兄貴のこと忘れたか? 兄貴が盆と正月以外帰って来なかった年があったか?」
「……ううん」
「だろ? まあ、入学当初はちょっと忙しいからそう頻繁には無理だろうけど、それが過ぎたらできるかぎりさくらの顔見に帰るから。……そうだな、俺は兄貴ほど遠くには行かないから、さくらがまた来たのかってうんざりするくらいちょくちょく帰るよ」
ちょくちょく、と聞いて胸にぽっと明かりがついたみたいにうれしくなる。
頭をあげて小兄ちゃんの顔をじっと見た。
「ほんと?」
「ああ。だからさ、笑顔で見送ってくれないか? さくらががそうしてくれたら、きっとこれから何があってもさくらの顔を思い出して頑張れるんだ」
「……小兄ちゃん…………ずるい、言い方」
「そうか? さくらもなかなかずるいぞ。かわいいい妹に引きとめられたら、行けるもんも行けなくなるだろ」
「行くなっていっても行っちゃうくせに」
「お前に見送られて行きたいよ。まあ、実際の見送りは家でいいけどな」
「……行くよ。駅まで。しょうがないから、行ってあげる」
「ありがとな、さくら」
「あのね小兄ちゃん。私のこと……忘れないでよ?」
「そんなことあるわけないじゃないか」
「帰ってくるときはおみやげないと、うちに入れてあげないからね」
「ああ、いい子にして楽しみに待ってるんだぞ?」
そういって私の頭をなでる手が優しい。私を甘やかしてくれる声が優しい。
「あの、ね……帰れないときは無理しなくていいから。……その、さ、電話してよ。声だけでも帰ってきて……」
うつむいて小兄ちゃんの胸にまた頭をぶつける。
「ああ、絶対だ」
小兄ちゃんの腕の中にすっぽり包み込まれたまま、目を閉じる。温もりの心地良さから離れられなくて、そのまま私はいつの間にか眠ってしまった。
満開の桜が見える駅のホームで小兄ちゃんを見送る夢を見た。