<二>行ってきまぁす!
「行ってきまぁす!」
松下華子はいつもの通り、甲高い声をあげて玄関から短い石畳を踏み、丈の低い垣根の扉を開けて出て行った。徒歩での出勤である。正午を少しまわったあたりの時刻だ。
彼女は独身で今年三十六歳になり愈々(いよいよ)アラフォーの仲間入りをした。彼女の勤めは司法書士事務所の事務員である。司法書士事務所といっても、法務局OBの年老いた司法書士の先生と受付兼事務員兼営業員兼雑用係である華子の二人だけだ。いや、厳密には司法書士の先生は普段横浜の自宅にいるので、殆ど毎日が彼女一人きりだ。このため事務所に急に法律相談に来られても素人の華子では対応できないので話を取り次ぐだけである。そんな生活を十四年以上続けていたので、華子には恋人どころか親しい友人も無く、ますます婚期が遠ざかっていくばかりである。
華子の一家は、両親と弟の昭雄の四人家族で永年東京都内に暮らしている。華子にとっては毎日が単調で金銭的にも決して余裕があるとはいえない地味な生活の繰り返しではあったが、家族は互いに仲が良く、日一日、小さな幸せを拾いながら暮らしていた。華子の父は四年前に勤め先の中小企業を定年退職し、既に年金生活に入っている。
「ねえ。猫飼っていいよね」
華子とすれ違いに弟の昭雄が玄関から入ってきた。腕には痩せたトラ模様の猫を抱いている。昭雄も姉の華子と同じく独り身である。しかも彼の場合は、大学を十年前に卒業したのち就職が決まらず、ファストフード店でアルバイト店員をしたりしなかったりと職が定まらない状態だった。
母親が言う。
「何か汚い猫だねえ。背中禿げてるし、病気じゃないの?」
「まあ、そう言わないで。スーパーの入り口でみゃあみゃあ鳴いてるから買った刺身の一部を与えていたら、店長さんらしき人が出てきてね。『野良猫に餌を与えないでって書いてあるでしょ?』って貼紙指差しながら、スゲエ怒ってるんだよ。鬼の様な顔して」
「だから、俺も頭にきて『失礼な! 野良猫だって? これは俺の飼い猫だから!』って言ってやった! 店長さん、らしき人は言葉に詰まっていたけど。それでも、疑っていたんだよね」
「俺が猫抱いてね。『みーちゃん野良じゃないもんねぇ』と言って、『すいません、ご迷惑お掛けしました……』と言ったら、店長、多分体育系だよ。大きな声で『申し訳ございませんでした!!』って」
「ええ!? 呆れたねえ。それで連れて来ることになったって訳かい?」
「そういうこと。そういうこと」
昭雄の腕の中で同調するように猫が鳴いた。
「みゃあみゃあ。みゃあみゃあ」