<十二>不思議な女
麻紀さんの出棺はもう終わってしまったかも知れない。それでも華子は弔辞が終わると皆の拍手に送られて麻紀さんの葬儀場、『静坂峠』へと急ぎ向かった。運が良いことにバスがすぐに来た。華子は飛び乗るようにしてバスに入った。
すると華子の後ろからもう一人バスに乗ってきた女性がいた。そして、その女性は他に誰も乗っていないのに華子の隣に座った。失礼のないようにこっそりと顔を伺うと、四十歳少し前くらいの『おばさん』だった。
その女性は一言、「私も、間違って皆に一緒に付いて行ってしまったのよ。まったく紛らわしいわ」と言った。
何故華子が葬儀場を間違えたことを知っているのだろう、と華子は思った。葬儀社の人以外、知らない筈である。
彼女は、バスの中で唐突に自分の夫の夢の話を明るく語り始めた。
「あのね。ウチの夫はね。実はインスタントラーメンの大ファンなのよ」
『実はね』と言われても、もともと華子はその夫を見たこともなければ会ったこともない。
彼女の夫は大企業の出世頭で、比較的若くして製造部長まで昇りつめているらしい。その夫が突然脱サラしてインスタントラーメン店を東京の田園調布に開きたいと言い出したというのだ。金持ちの有閑マダム達にインスタントラーメンのおいしさを知ってもらうという夢だ。
「私ね。夫に賭けてみようと思うの」
華子は会社勤めの経験はないが、完璧にこれは間違いだ、と思った。そして名だたる大企業の製造部長がするべきことではないと思った。
「あの。旦那様は大企業 帝国電機の製造部長でいらっしゃるのでしょう? 『夫に賭ける』っていうけど、それって普通は旦那様の安定収入がない時にする言葉じゃありません?」
「いいえ。夫はインスタントラーメンで東京のお金持ち層を征服しようとしています。その夢を叶えてあげるのが今の私の役目です」
「ですから、インスタントラーメンでお金持ち層を『征服』っていうのがよく分からないんです。それに田園調布がお金持ち層っていう旦那様の物差しがはっきり言って短か過ぎます。旦那様の言う『征服』は出来ないと思います」
華子は自分が彼女を説得出来たと思ったが、一方の彼女の方は何故か勝ち誇ったような顔をして言った。
「そう。あなたには分からない男の夢よ。ふふ。ふふ。ふあふあふあ。あははは」
華子は彼女の不敵の笑いに不気味さすら感じた。しかしその一方で、何だかこの夫婦のアタマの弱さというか何というか、妙な好感が心地良さを覚えた。この夫婦は馬鹿なのか、はたまたその逆なのか……。
「あのね。夫が言うのよ。『俺は社長だぞ。ラーメン店の社長だ! 社長はいいぞぅ!』ってね」
―― やっぱり馬鹿だ。
客層が田園調布の有閑マダムというストレートな狭い発想。商材もこだわりの究極ラーメンなどと言うのではなくインスタントラーメンという軽い発想。殆ど努力をしないでやって行こうという発想は人生そのものをバカにし過ぎている。第一まだ若くして大企業の部長まで行ったのはそれなりの才能や努力だってあったはずだ。それである意味、幸福を手にしてきたわけだし、今後もっと幸せを手にすることだって出来る筈だ。
その過去の努力と過去の幸せを未来に続けて行くことこそが人の生き方ではないのか。
その彼女はさらに訳の分からないことを言い出した。
「そんなものよ人生なんて」
「過去の幸せなど、もともとなかったことにすればいいのよ」
「そうは思わない?」
バスを降りる時、背中から、「でも、あなたの弔辞とてもよかったわよ」と彼女は言った。
「そうですか。何だかとんだ恥かきであんまり嬉しくないんですけどけど」
バスを降りると付いてきてると思った彼女がいない。華子は運転手に聞いてみた。
運転士は信じられないことを言った。
「ずっとあなた一人でしたが……。何か」