そんなかなしいキスはいらない
「お腹がすいたときに、物を食べる以外の対処法を知っているかい?」
会社の上司であった彼はわたしに尋ねた。
「水を飲む、ですか」
「違うな。そうすると哀しくなる」
「じゃあ眠る」
「それも違う。空腹で眠るのは虚しい」
「もういっそ、踊っちゃうとか」
わたしは茶化して両腕を振ってみせた。
「ちょっと近いかな」
彼は咳払いをするようにこぶしを鼻に近づけた。
「食べるでもない、眠るでもない、人間の欲求の残りひとつを満たすといいよ」
彼はなんでもないことのように、今度彼氏と試してみな、と言った。
まあそれは、いま思えば、世間的にはセクシャル・ハラスメント以外の何物でもなかったが、わたしは彼を罵ったりすような気にはならなかった。それはもちろん、その言葉たちを発したのが「彼」だったからである。
けれどわたしはそんなことはしなかった。ただ、言った。
「それを今、松山さんと試せませんか?」
左手の薬指から鈍い光を放つ男にそんなことを言ってしまったのは、もちろんわたしが彼に恋をしていたからだ。恋、ああ面倒くさい、くだらない。
いける、と思ってそう言ったわたしだったが、彼は、ははは、と笑って、
「また今度、そういう機会があったらね」
と、なんとも無情にほかされてしまったのである。わたしは唖然として彼を乗せたタクシーを自宅の前で見送った。それから駅前にU‐ターンダッシュして、吉牛をかっこんだ。
しかし恋の炎はリサイクル可能である。少なくとも、わたしには。そのときから、いや細かく言えば翌日から彼にアタックを続けると、ちょうどタクシーの件から二カ月経ったとき、「参りました」と彼は言った。
あれからもう二年経つ。そして今、まさに今、彼とわたしは深大寺に来て別れようとしている。なんとも縁結びの神様に失礼な話だが、しかたない。だってわたしは天の邪鬼なのだ。
少し前のわたしは恋の始まりの、あのタクシーのときの自分を思い出すと、布団を被って声にならない「あああ」を発してしまったけれど、今は違う。もうまるで、砂時計の砂を一粒一粒見送るように、水平線が描かれている一枚の絵を見つめるように、ひっそりと時間が止まる。なのにそれは少しも甘美ではなく、わたしの心を不穏に粟立たせてしまう。もう、終わっちゃうのか。はじまりは、あそこだったな。ずいぶん遠くまで来ちゃったな。もう帰らなきゃ。遠足は、おしまいだ。
「ひとつ訊いていいですか?」
『そばごちそう』というそば屋に入り、一息ついたわたしは、できるだけなんでもないように、大好物の天ぷらの海老をつつきながら彼に言った。
「うん」
彼はいま、とろろに夢中だ。生卵が苦手な彼は、太陽のような真ん中の黄身を崩さないように、周りのとろろだけを食べれるように、注意深く、悪く言えば女々しくとろろを食べている。
「黄身、食べてあげるよ」
「黄身だけを? それって気持ち悪くないかい?」
「白ご飯でも頼むよ」
「蕎麦屋にあるかな?」
「あるわよ、きっと」
すいません、とわたしは店員さんに声をかけ、白米はありますか、と訊いた。すると、お待ちください、と四十代と思われる女性の店員さんは奥へ駆けてゆき、すぐに戻ってきて「メニューにはないんですけども、特別に、ご馳走します」と言ってくれた。
わたしは礼を言い「黄身の廃棄危機を救った」と言って胸を張った。
「それで、なに」
「え、なにがですか?」
「『ひとつ訊いていいですか』」
「ああ」
わたしは海老天のしっぽをかじる。
「『今』別れなきゃならない必然性はあるの?」
すると、彼は目を丸くした。
「きみ、僕の妻が妊娠したことを怒らないの?」
「怒らないよ、べつに。夫婦でしょ、子どもくらい作るよ」
わたしはそばをつゆにつけ、ぞぞぞっと音を立ててそばをすすった。彼は神妙にとろろそばを見つめ、いや、と口を開いた。
「きみにはまだわからないかもしれないけれど、子どもが産まれるっていうことは一大事なんだ」
「もう子ども、いるじゃない」
「だからだよ。息子のためにも、もっと真摯に家庭に向き合わないとならないと思った」
「ふーん、ねえ、ごはん来たから、黄身ちょうだいよ」
彼は、はあ、と溜め息をついて真ん中を窪ませたわたしの白ご飯に黄身をくれた。ばかやろう。わたしは醤油をひと回しして、ほかほか白ご飯をかっこんだ。
「きみさ、そばに白米って、炭水化物の摂りすぎじゃないかな」
「大丈夫、ほらわたし、胃下垂だから」
「いやそういうことじゃなくて……いや、そういうことなのか?」
「そんなこと言ったら焼きそばパンはどうなるのよ」
「あれは、ぼくは存在自体認めていないから、問題外だ」
「松山さんが認めなくても世の中に存在するものはたくさんあるのよ」
わたしはなんの気なしに言ったふうを装ったが、少し怒っていた。
別れなんて呆気ない。次の約束をする資格を持たなければ、もうそこで終わりなのだ。思いがけず直線は切れる。ぷつん。彼がそば屋で会計を済ませ、じゃあ、と別々に別れた。彼は三鷹行き、わたしは調布行き。
彼は別れ間際に「しとくか」というような、軽々しいキスをした。それはティッシュペーペーよりも軽い、意味を持たないキスだった。その想いはわたしに伝わり、わたしは彼をひっぱたこうかどうしようかと0.5秒迷ってやめ、その右手をバイバイと振った。バーカ、ああ、本当に、馬鹿な野郎を好きになってしまったもんだ。
綺麗な紫のツツジがわんと咲くのが見える、調布行きのバスに揺られて駅に着くと、わたしはケータイを取り出した。彼とお揃いにしたi‐Phoneはもう、指が太いわたしにとって、メールを打ちにくいガラクタにすぎない。そのガラクタの電話帳から、見慣れた名前までスクロールして、触れる。
「はい」
「あ・た・し」
「勘弁してよ、徹夜明けなんだよ」
「まだ何も言ってないわよ」
あー、とうなだれる男は、なんだかんだでわたしの誘いを断らないでくれる唯一の男だ。
「そうですね、なんですか」
「これから海に行こう」
「ほら出た。だからオレ、徹夜明けなんだって……」
「ありきたりな失恋には、ありきたりな場所に行くのが良いのよ」
「あれ、なにおまえ、不倫男に失恋したの?」
「不倫男言うな」
すったもんだのあげく、わたしはわかったよ、とその男に言わせて電話を切り、京王線に乗り込んだ。
府中駅に着いた幼馴染の男は本当に疲れているようで、わたしはすこし、胸が痛んだ。どうぞ、と紳士的にドアを開けてくれた男の好意にがぶりと噛みつき、わたしは、どうも、と車に乗り込む。
どこの海? とお互いのハナたれ時代を知っている男は訊く。わたしは、どこでも、と答え、呆れた男はアクセルを吹かす。
松山さんとも、よくドライブしたなあ、なんて思うと、なんだか自分にも運転するこの男にも、ものすごく失礼な気がしてかなしくなる。すこし窓を開け、目を閉じる。風は生きている、空も生きている、わたしも生きている。それでいいじゃないか、もう。わたしはさっきの心ないキスを払うように、唇を拭う。ばか。
神様からわたしへのお見舞いのように道はすいていて、赤信号にもさほど捕まらず、方向音痴なわたしにはどこの海なのかさっぱりわからない海まで到着した。
「さ、着きましたよ、姫」
「あ、待って。小腹がすいたからコンビニまで行って。できればセブン・イレブン」
「いままでいくらでもコンビニあっただろ! 死ね!」
慣れ合った男は再び車を出す。偶然なのか、運転手のささやかな復讐なのか、着いたコンビニはセブン・イレブンではなかった。
店に入ると、わたしは次から次へとカゴの中にモノを入れた。絶対にそんなに食えないね、という男を無視し、ぽいぽいと食べ物やら飲み物をカゴの中へ放る。7080円という買い物をしたわたしは満足し、さ、開けて開けてと男を急かしてドアを開けさせて車に乗り込む。
「これをふたりで食べきるのよ」
「ほんと勘弁して。オレ眠くて食欲ゼロだから」
「だからよ。人間の三大欲求の別のところを満たして、やり過ごすのよ」
「無理。余計に眠くなる」
男はだるそうに言い、わたしは言う。
「だよねえ。欲求は変換なんて、できないよねえ。もっと欲しくなるだけだよねえ」
「なんでおまえ、嬉しそうなの」
「バーカ、これが嬉しそうに見えるか」
わたしは気づけばぽろぽろと涙をこぼしていた。
「涙は海までとっとけ」
男はぽんぽんとわたしの頭を優しく叩き、わたしたちは再び海へ向かった。
曇天。道半ばからわかってはいたけれど、空は笑っていなかった。わたしは車の中の一泣きで思いのほかすっきりしていて、すぐに花より団子、コンビニ袋に飛びついた。
「はい、これを一緒に食べよう」
わたしは男に125円の焼きそばパンを差し出す。
「ほんと食欲ないんだって……無事に帰りたければ、オレにはホールズだけ渡して、その袋の中身ぜんぶ食え」
「お願いだから、これ一緒に食べて」
思いがけずまた、つんと瞳の奥が痛くなり、声が潤んでしまった。物分かりのいい男はわたしから焼きそばパンを受け取り、袋を裂いてかぶりついた。
「おいしい?」
わたしは訊いた。
「うまいよ」
男は言う。
「ほんとにおいしい?」
「うまいって」
「焼きそばパンについて、なにか、思うことある?」
「しいて言うなら、口の中がぱさぱさするから、なんか飲み物くれ」
「うん!」
わたしはその答えに満足し、男にミニッツメイドの果汁100%のオレンジ・ジュースを差し出した。
幼馴染。水平線。海水に濡れてとろけるような砂。コンビニの袋に入った大量のお菓子。わたしはその袋の中身を見つめ、幼馴染に「なんか遠足みたいだね」と言うと、口いっぱいに焼きそばパンを頬張った男に「フン」と言われた。
読んでいただきありがとうございました。
あらすじを書いていて、」「」
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