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綾小路櫻子はヒロインの母である。

作者: アーク
掲載日:2026/10/31

綾小路櫻子。


帝国五大公爵家のひとつ、綾小路家の公爵夫人。


夫である綾小路清孝公爵とは生家である西園寺伯爵家との間に結ばれた政略結婚ではあるものの、夫婦仲は極めて良好であり、長子の彩華(さやか)と嫡子の孝治(たかはる)、次男の孝利(たかとし)の3人の子宝にも恵まれている。


櫻子は所謂異世界転生者であり、自分がとある恋愛漫画のヒロイン、綾小路彩華の母親である事を知っている。


ヒロインの名前が漢字であり、装いも大正浪漫の大和撫子である事から和風ファンタジーなのかと思えば、ヒロインの生家である綾小路公爵家が治める領地以外はバリバリのヨーロッパ諸国風であり、彩華の婚約者の名前も「アウストリア・ザルツブルク」と言う西洋丸出しの名前である、剣と魔法の世界である。


さて、今日皇暦2026年11月22日はヒロイン綾小路彩華の17歳の誕生日であり、婚約者ザルツブルク侯爵令息との婚姻を天なる主に誓う為の、畏れ多くも皇宮のホールを皇帝陛下からお貸し戴いた上での夜会である。


この日の為にと、姑が八代前の当主が時の皇帝陛下から戴いたと言う、それは美しい総絞りの振袖を手入れしていた。


綾小路家に生まれた娘は、この着物を着て天なる主に永遠の愛情を誓う儀式を受けるのだと、漫画の内容からも櫻子は知っている。


転生前、日本で生まれた何処かの誰かだった頃に、着物に一言ある祖母と母親から総絞りの着物は如何に素晴らしいシロモノであるかは耳にタコが出来る程聞いているので、この後に訪れる出来事を考えると頭を抱えたくなる。


彩華は代々受け継がれてきたその着物に誇りを持っていて、漸く袖を通す事が出来た17歳の誕生日をそれはそれは喜んでいた。

後は、ザルツブルク侯爵令息に伴われて入場するだけ、と邸宅の自室で待機していたところに、ザルツブルク侯爵令息が現れる。


―――ザルツブルク侯爵令息の腕には、赤毛で肩や背中が大きく開いたはしたないデザインのドレスを来た「コレット・マーレ男爵令嬢」が縋り付いていた。


侯爵令息は「そのように古臭い装いで、自分の隣りに立つ事が出来ると思ったら大間違いだ」と言って、彩華に頭から葡萄酒(ワイン)や蒸留酒(ウィスキー)を掛ける。


「ごめんね、そう言う事だから〜」と男爵令嬢は言って、髪に差していた簪で「あ、ごめ〜ん。手が滑っちゃった〜」と彩華の着物を引き裂くのだ。


彩華は胸元に大きな裂け目が出来た上に酒の臭いが染み付いた大切な着物を、お祖母様とお母様に何と説明したら良いのか、と自室で大粒の涙を零す。


漫画の中の綾小路櫻子は「婚約者の心を繋ぎ止める事も出来ず、家宝とも呼べる着物をこんな風にしてしまうなんて」と彩華を責める。


櫻子は夜会にどうみてもふしだらな服装の女を伴って現れたザルツブルク侯爵令息の、「彩華は晴れの日だからと酒を呑んで家宝の着物を傷付けた」と言う発言を鵜呑みにしたからである。


漫画の彩華は着の身着のままで綾小路公爵家を追い出され、倒れていたところを綾小路公爵家で働いていた経験のあるエルマー・ラドウィックに拾われる。


実はエルマーは帝国の第3皇子であり、不穏分子の噂を聞き付けて容疑者のひとりであるザルツブルク侯爵令息の婚約者である彩華の生家で身分を隠して潜入捜査をしていたのだ。


彩華はエルマーと共に行動する内に恋愛感情が芽生え、やがて2人は結ばれる事になる。


大筋のストーリーは覚えていたので、姑の真理子夫人に「マーレと言う名前の男爵家を知っているか?」と聞いた事がある。


「あら。櫻子さんは醜聞(スキャンダル)に興味がお在りなのかしら?」


◇


真理子夫人が話してくれたのは、真理子夫人が嫁いだ頃の櫻子より少し若かった時代の話だった。


真理子夫人のひとつ上の年代に、当時の第4皇子チェスターは、ミリアム・アルフェスタ公爵令嬢と婚約をしていた。


しかし、教会が聖女として認定していた、「無駄に愛らしい顔と豊満な身体をした女」リーシャがチェスターとその側近達に近付いた結果、新年祭の場でアルフェスタ公爵令嬢を罵倒し、婚約破棄を宣言する暴挙に出た。


アルフェスタ公爵は帝国貴族の多数からの信頼が厚い存在であり、民族間で大きな問題も無く帝国の流通がスムーズに行われているのは、アルフェスタ公爵の人徳によるものだ。


アルフェスタ公爵との縁が切れれば、皇都はたちどころに流通の大半がストップし、場合によれば各地の人間が暴動を起こして皇都に押し寄せるかもしれない。


そこで、当時の皇帝陛下はチェスターを皇籍から廃籍し、断種を施した上で1代限りの「マーレ男爵」の地位を与え、帝国の最北にある砦の一室がマーレ男爵の領地である、と内外に知らしめた。


元皇子とその側近を誑かしたリーシャは聖女としての資格を剥奪され、妊娠していない事が確認された後にマーレ男爵の領地に向かう途中に事(・)故(・)に遭い落命した。


真実の愛であるリーシャの死を聞いたチェスターはすっかり気落ちしてしまい、新しい季節を迎える前に病(・)没(・)した。


だから、帝国で「マーレ」と言う名は忌避されているのだと、姑は言った。


漫画の設定ではコレット・マーレ男爵令嬢は臣籍降下した元皇子の子孫を名乗ってザルツブルク侯爵令息に近付いた間諜(スパイ)である事が描かれていた。


ザルツブルク侯爵令息が男爵令嬢の言葉を信じたとすると、教養不足であると言わざるを得ない。


市井の間では歌劇にもなっているし、祖父母や親の代は二度とその様な過ちが起こらない様に戒めとして自らの子供達の振る舞いが目に余る時や質問をして来た際には隠す事なく全てを話す。


知ろうと思えば知る事が容易な話なのだ。


生家である西園寺伯爵家の様に潔癖故にその話題を避け続けている様な家柄であるなら疎くても仕方は無いが、ザルツブルク侯爵家は件の代の皇女が降嫁した先でもある。


もしや身内の恥として隠しているのか?いや、漫画ではザルツブルク侯爵令息は「ある元皇子の滑落劇」を口にしていた。


自分はその様な愚か者とは違う、と。


そこで、彩華の婚約者であるザルツブルク侯爵令息に探りを入れる事にした。


無論、ひとりでは無く夫の清孝様と姑の真理子夫人の協力も仰いでの事。


その結果として得られたものは、品行方正、清廉潔白のアウストリア・ザルツブルク侯爵令息とは程遠い姿だった。


◇


漫画において、ザルツブルク侯爵令息には悪名高い双子の弟ロキ・ザルツブルクが登場する。

まあ良くあるパターンではあるが、実際にはロキの方が人柄の良い人間であり、幼い頃からアウストリアは自分が犯した悪行を全てロキに押し付けていた。


間諜(スパイ)であるコレット・マーレは先ずロキに近付いたが、噂とは異なり真面目で良く目が効くロキ相手ではボロが出るからと標的(ターゲット)をアウストリアへと変更した。


漫画と同じ様に、アウストリアはコレットと既に出会っており、手練手管に騙されてザルツブルク侯爵家が知り得る範囲での帝国の機密情報を酒の勢いで「ここだけの話」とコレットに伝えてしまっている。


「古(・)臭(・)い(・)着(・)物(・)を自分達で飾り付けしてやろう」、と皇宮のホールを貸し出して戴いた夜会の為に自室で待機する彩華に嫌がらせをするつもりでいる事も、孝治が開発した音声を記録・再生する事が出来る魔道具によって言質を掴んでいる。


魔道具が回収した音声を聞いた姑と、皇后陛下は表情こそ変化はないものの、室内の温度が氷点下に感じる程の威圧感を放っていた。


「…エルマーからも報告は受けてはおりましたが、そう。どうやら、ザルツブルク侯爵令息は皇室を侮辱している自覚がない様ですわねえ…」


皇后陛下は「帝国の伝統では花嫁となる令嬢は花婿からの迎えを自室で待つ事が慣例ですが、彩華嬢には皇宮の控え室でわたくしと共に過ごして戴く事にいたしましょう」と、背中に氷を入れられるかの如く冷たい声色で微笑みながらそう言って下さった。


「ザルツブルク侯爵令息は皇室からの贈与品に、指名されている人間以外が手を付ける事がどういう事か、学んでいらっしゃらなかった様ね」


侯爵令息に気付かれない様にザルツブルク侯爵と夫人に確認の1報を入れたところ、内密に綾小路公爵家へ謝罪に姿を現したのは記憶に新しい。


両親と双子の弟、そして5歳歳下の妹はまともなのに、突然変異だろうか、と櫻子は思った。


◇


夜会の入場時刻を40分以上遅れて、ザルツブルク侯爵令息はコレット・マーレ男爵令嬢を名乗る女と共に現れた。


先祖と違って公的な場で罵倒するでなく、着物に手を掛けて彩華が入場出来ない状態にする事で彩華側に婚約破棄の意思があるのだと説明するつもりでいたらしい2人は、上座に皇后陛下と並ぶ彩華の姿を見て目を見開いて口をあんぐりと開けていた。


五大公爵家の婚姻の夜会は皇宮の夜会ホールが貸し出されるものであり、皇室の人間、主に次代の皇帝となる皇太子が参列する事も慣例である。


ただ、皇后陛下が参列するのは前代未聞である、と言うだけである。


「あら。そちらのお嬢さんはどなたかしら?」


彩華さんは此方にいるし、貴族名鑑にもそちらのお嬢さんは記載されていない。貴方が連れて来たのはどなた?と、穏やかながら圧のある口調で皇后陛下は問いかけた。


「輝ける月であらせられるいと尊き皇后陛下。この娘はチェスター・マーレ男爵の孫に当たる、コレット・マーレ男爵令嬢でございます」


堂々と返すザルツブルク侯爵令息に対して、ホールに参列している貴族達がざわついた。


存在しない皇室の落とし胤を伴って、婚姻の夜会の為に解放されている神聖な皇宮のホールに入って来たのか、ザルツブルク侯爵令息は不勉強だ、と言う囁き声があちこちで広がる。


その声に対して、ザルツブルク侯爵令息は混乱した表情を見せる。


「ふふ。我が帝国で忌避される家名と身分を騙るお嬢さん。貴女がどちらからいらしたのかは存じ上げませんが、チェスター・マーレ男爵に子孫はいない、と言う事実はこの場にいる者達皆様が周知している事実。それとも貴女は、マーレ男爵の養い子であると言うおつもりかしら?」


何十年も前に既に天なる主の御許に帰天している男爵の?と皇后陛下が付け加えると女は焦った様な表情をする。


下調べが甘いなあ、と櫻子は思う。


漫画では2人が夜会ホールに現れた場面ではこの様な騒ぎは起きていない。エイドリアン皇太子は過去に興味が無く、2人の発言を信じていたと櫻子は記憶している。


だからこそ、漫画で彩華は綾小路公爵家から追放されている。


漫画の櫻子は西園寺伯爵家の教えの元に実の娘に罵声を浴びせた訳だが、物語終盤で皇帝陛下の前で事実が明らかにされると自分が娘に浴びせた言葉を悔やんで服毒自殺をするキャラクターだった。


責任から逃げるのか、と漫画を読みながら思ったものである。


「まさか、本日の主役が遅れて登場するだけに飽き足らず。婚約者ではない素性の知れない女性を伴って現れるだなんて思ってもみなかったわ、サー・アウストリア」


親しい間柄である皇太子が相手であれば口八丁で場を収める事が出来たのであろうが、帝国で一番礼儀に厳しいと呼ばれている皇后陛下が相手では押し黙るしかない様子だった。


「でも、安心して頂戴。本日は間違いなく、祝いの場。わたくしは新たな門出に立つ者の為にこの場にいるのよ」


皇后陛下は微笑みを崩さずにそう口にした。


◇


エルマー・ラドウィックを御存知かしら。


名前は覚えてはいなくとも、彩華嬢との交流において同席していた人物の顔は覚えておいででしょう?


エルマーはわたくしの第3皇子、エルネスタなの。


あの子は耳が良くてね、不穏分子の噂を聞き付けて数年前から身分を隠して綾小路公爵家に身を寄せて調査をしていたの。


何故、ですって?


古くから皇室の信頼の厚い五大公爵家がひとつ、綾小路公爵家の長子である彩華嬢の婚約者に怪しい動きがあると耳にしてしまったのならば、動かざるを得ないでしょう?


綾小路夫人からも、貴方の目に余る行動の報告は受けていましたもの。


…そう、サー・ロキの悪名であると言うのね?飽くまでも自分の話ではない、と。


サー・ロキが貴方の婚約の前後から現在に至るまで、海を越えた先の大陸で技術留学をしている事を御存知ないのかしら?実の兄弟でしょうに…


サー・ロキからも報告を受けているのよ。


大陸の小国に、我が帝国の技術が流出している、帝国が特許を持つ技術や、まだ実用段階に無い技術が数多く流出している、と。


ちょうど、貴方がそちらのお嬢さんと親密になった時期と重なるそうよ。


それほどまでにそちらのお嬢さんに心を砕いていらっしゃるのであれば、わたくしはそれを応援いたしましょう。


真実の愛、で結ばれていらっしゃるのでしょうから。


我が夫、我が帝国の太陽たる皇帝陛下の名代として、わたくしがアウストリア・ザルツブルク侯爵令息と綾小路彩華公爵令嬢の円(・)満(・)な(・)解消を宣言し、サー・アウストリアにはモルドヴァ国の諜(・)報(・)員(・)リ(・)タ(・)・(・)ハ(・)ミ(・)ル(・)ト(・)ン(・)との婚姻と、彩華嬢には我が息子エルネスタ第3皇子との婚姻が成された事を此処に宣言いたしましょう。


勅命として、サー・アウストリアはハミルトン夫人と共に3日のうちにモルドヴァ国へと渡る事。


モルドヴァ国において何かしらの手柄を立てる事が出来た暁には帝国への帰還を許しましょう。


◇


―――コレット、否、リタの顔色は青を通り越して白くなっていた。


モルドヴァの諜報員に失敗は許されず、失敗して国に戻った者には容赦の無い終わりが待っていると漫画でも描かれていた。


標的(ターゲット)であるザルツブルク侯爵令息に正体がバレた上に、帝国で婚姻が認められたと言う事実が付いてくれば裏切り者として扱われる。


コレットがどの様な最期を迎えたかはサラッと語られていたが、良く考えなくとも精神衛生上宜しくない内容だった事を覚えている。


愛する彩華の心が傷付く事無く今日を終える事が出来そうだ、と櫻子はホッと胸を撫で下ろすのだった。

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