影踏みの夏
誰かと出会うということは、自分の人生の一部を相手に差し出すことだと言われます。
では、一度も肌を触れ合わせたことがない相手、画面の向こうの言葉だけで繋がっていた相手との「別れ」は、私たちに何を残すのでしょうか。
指先ひとつで繋がり、指先ひとつで関係を消去できる現代のネットの海で、実体のない誰かを愛し、そして失ったときに訪れる、解けることのない「呪い」についての小さな独白です。
静かな夜に、かつて誰かの言葉に心を救われ、そしてその言葉に縛られているあなたへ届くことを願っています。
夏という季節は出会い、そして別れに満ちている。
世界を見渡してみれば、今日始まった出会いがあれば、今日終わった別れもある。それは年中そうかもしれない。ただ、その出会いの香りが濃いのは夏なのではないのか。
出会い、そして別れ。これを明確に表すのならどうするか。
ある人はこれを「呪い」だと表現した。
たしかに、出会うということは、その人に時間を割かなくてはいけない。でも、そしたら「別れ」はどうなのだろうか。私は、「別れ」も一生つきまとってくると思う。
なぜなのか、それは「別れ」を得ても何らかの事で思い出す、あの時こう話していたな。はたまた、この時あの人なら何をするだろうか。
全てにおいて、本来は出会わなかったはずの人のことについて考えてしまう。
そう、それは呪い以外の何物でもない。
本来なら、生きている時間の中で交差することすらなかった他県の人。ネットという、浅はかな、しかし深い波の中を進み出会った人。一度も、その肌の温もりを知らない。
一度も、同じ空間で同じ空気を吸ったことすらない。
互いの顔だって、画面越しに切り取られた僅かな光の断片や、加工された静止画でしか知らないのだ。それなのに、なぜこれほどまでに私は、存在すら曖昧な誰かの影に侵食されているのだろう。
指先ひとつで繋がれる世界は、同時に、指先ひとつで全てを無に帰せる世界でもあった。
ブロックボタンをひとつ押せば、あるいはアカウントを消し去ってしまえば、その人はこの世界から最初からいなかったかのように跡形もなく消える。物理的な距離すら存在しない。ただ「通信が途絶えた」という、無機質で圧倒的な現実だけが残される。
なのに、消せない。
日常のふとした瞬間にキーボードを打つ指が止まる。
「この言い回し、あの人がよく使っていたな」
「あの出来事、あの人ならなんて返してきただろう」
画面の向こうにしかいなかったはずの人の言葉が、癖が、思考の回路が、いつの間にか私の脳内に深く根を張っている。実体がないからこそ、思い出の中のその人は擦り切れることがない。匂いも、仕草の癖も、都合の悪い現実も持たない「純粋な言葉と声だけの存在」として、私の頭の中で完璧な形で生き続けてしまう。
出会わなければ、知らずに済んだ言葉があった。
出会わなければ、これほどまでに暗い画面を見つめて途方に暮れる夜はなかった。
画面の明るさを極限まで下げたスマートフォンの暗闇に、自分の歪んだ顔が映り込む。
ああ、そうか。
私が見つめていたのは、画面の向こうのあの人ではなく、あの人を通して書き換えられてしまった、自分自身の歪んだ影だったのだ。
実体のない愛のために流した、あまりにも実体のある涙。
顔も知らない誰かに心を明け渡し、そして置き去りにされた私は、今日もログの消えた暗い画面を指で撫でながら、二度と通知の鳴ることのない箱を抱えて生きている。
夏は、容赦なく通り過ぎていく。
部屋の窓を開ければ、夜のなかにぬるい風が吹き込み、遠くで鳴く蝉の最後のような声が聞こえる。この季節が終われば、世界はまた少しだけ冷たくなり、誰もが何事もなかったかのように次の季節へと歩き出すのだ。
二度と通知の鳴ることのないこの黒い画面も、いつかは日常の光に埋もれていくのかもしれない。
けれど、あの人と出会ってしまったという事実だけは、私の爪の先から髪の毛の一本一本にまで染みついたまま、消えることはない。
実体を持たないあの人は、私という人間の中に確かな傷痕として残り続ける。
それは呪いであり、同時に、私が確かに誰かを恐れずに愛そうとしたという、惨めで愛おしい証拠でもあるのだろう。
私はスマートフォンの電源ボタンを押し、完全に暗転した画面を机の上に伏せた。
静寂が部屋を満たす。
誰の影も映らなくなった真っ暗な部屋で、私は深く息を吐き出し、ただ一人で、静かに夜を迎える。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「一度も会ったことがない人との失恋なんて、本当の恋と言えるのだろうか」
そんな風に言う人もいるかもしれません。けれど、直接触れ合うことができなくても、交わした言葉によって救われ、自分の考え方や世界の見え方が根本から変わってしまうような体験は確かに存在します。
実体がないからこそ綺麗で、完璧なまま心に居座り続けてしまう。
その不確かで、けれどあまりにもリアルな痛みを描きたいと思い、この物語を書きました。
誰かの影を抱えて生きることは、重く、時には呪いのように思えます。しかしそれは、自分が誰かと深く関わろうとした確かな証拠でもあります。この物語が、過去の誰かの言葉を抱えて静かな夜を過ごすあなたの心に、少しでも寄り添えたなら幸いです。




