①3月21日(土) 曇り I県:自宅アパート【手記メモ:復職二ヶ月目、彼女もできて好調。でも気になる事が二つ。】
【手記メモ:復職二ヶ月目、彼女もできて好調。でも気になる事が二つ。】
病気療養から完全復職して二ヶ月が経った。今日は祝日で、日中は明日引っ越してくる同居人を迎え入れるための片づけに追われている。
ようやく社会の歯車に戻れた実感が湧いてきた最近、奇跡のような出来事があった。俺に彼女ができたんだ。
名前は百足日織。二十四歳で俺の二つ年下。最近職場に入ってきた新人で、乃木坂の賀喜遥香にスーツを着せて儚げにしたような美女だ。久しぶりにできた恋人は、正直俺には勿体ないくらいの女性だった。
俺たちの馴れ初めは古典的かつ運命的だった。オフィスのエントランスで、パンプスの踵を折って泣きだしそうな顔で立ち尽くしていた彼女に声をかけ、社員駐車場までおんぶして連れて行った。
先輩の真島さんと同僚の市村から「望月は可愛い子には親切だ」と冷やかされたが、そんなことはどうでもよかった。
見返りを求めたからでも周囲からの評価を良くしようと思ったからでもない。
ただ幼かったあの日の『罪』を償うためだ。
緊張しながらおんぶした時、背中に伝わってくる彼女の体温がなぜか驚くほど低かったのを覚えている。ダイエットで朝食を抜いているのかも知れないと思っていた時、彼女が言った。
「ありがとうございます。あの……もしかして、ちーくん?」
あれ、どこかでこの声。
軽い既視感に驚いて振り返ると、視界の端に映ったネームプレートに『百足日織』とあった。 それと同時に誰にも見せずにひた隠しにしている胸の奥の一番柔らかい部分がずきりと痛んだ。
遠い記憶の彼方に、隣のT県で過ごした小学校時代がよみがえってくる。転校生でいじめられっ子の「ひおりん」の泣き顔が、目の前の美女と重なった。
俺はあの頃、泣いている彼女を慰めに行きながらも、「いじめ」そのものは止めなかった。限界まで泣かせてから、ヒーローのように颯爽と現れて手を差し伸べる。そうすれば、俺は弱者である彼女の「庇護者」かつ「支配者」になれるからだ。
そんな卑劣な打算を隠し、親父の転勤で隣のI県に引っ越すまで、俺は彼女の「兄貴分」として笑顔と偽善を振りまいていた。
「ひ、ひおりん?」
罪の意識から再会を喜ぶ彼女にコーヒーを奢り、職場の悩みを聞くうちに、自然といい雰囲気になった。
プライベートで何回か飲みに行って、仕事のアドバイスをしたりたわいもない話をした。休日は趣味で小説を書いていると言ったら、「ちーくん、昔から頭いいもんね。誰ともつるんでなくて、どこか一歩引いててみんなと違って大人びてたな」とひおりんがまぶしそうに俺を見た。
「いや俺暗いし。それにバカだし」
そう答えながらも、いたいけな表情にぎゅっと心をつかまれ、かつこの世のすべての害悪から彼女を守りたいと思った。
それと同時にかつての醜い自分が浮かび上がってきて、あの時抱いていた卑劣な感情を絶対に隠し通さなくてはならないと誓った。本当は懺悔したい、けれど正直に話したら彼女が傷つき俺に失望するだろうと思った。
そして先月の上旬、飲みに行った帰り道で告白された。泣いてばかりいた弱虫ひおりんが自分から男に告白するまでに成長しているとは思わなかった。驚くほどに美しくなっていたことも感慨深かった。
それと同時に自分が過去にした過ちがよみがえってくる。あの頃の自分はクラスに馴染めず居場所を求めていた。周囲の会話に置き去りにされないように、いつも必死だった。認めてくれる人が欲しかった。そんな中で、日織だけが学校で浮いている自分を見つめてくれた。
やがて時が過ぎ、大学生になってから小説を書き始め、文芸サークルで心許せる小説仲間と出会い、次第に劣等感や孤独が薄れていった。仲間から優しくされるうちに自分がしていたことの醜悪さに気づいた。そして彼らの影響で俺も少しずつ他人に損得抜きで心から優しくできるようになっていった。
幼少期の罪悪感を持て余しながら二十六まで生きてきて、運命的に日織と再会した。パンプスが折れて途方に暮れている彼女を助けたのは、困っている誰かを助けたいと言う心からの思いだった。
彼女は可愛いし気立ても良いが、仕事の相談に乗ったのも告白を断らなかったのも小学生の頃の罪悪感が根底にあるからだ。
そこに恋愛感情が混じって、自分でもどうしたらいいのかわからなくなっている。
彼女は今でもあの頃と同じ心酔した瞳で俺を見つめる。臆病者でずるい俺は、彼女に尊敬されたいという打算と承認欲求、そして優位性を保ちたいと言う過去の欲望を、告白を受けることでなかったことにして都合よく忘れようとしていた。
明日から彼女がうちに来て一緒に住むことになったのだが、二つばかり気になることがある。
一つ目は、彼女が鏡を異常に嫌がること。恥ずかしいからだと言っていたが、日織くらいの美人なら鏡で自分の姿に見惚れる事はあっても、嫌がる理由は無いはずだ。なのに洗面所ですらも顔を背けるようにして素早く通過する。
二つ目は、彼女の見ている異常な動画のことだ。昨日、俺の部屋でひおりんが熱心にスマホを見ていた。推しのアイドルでも見ているのだろうか。手元の本を眺めるふりをしてこっそり盗み見た瞬間、思わず凍りついた。画面の中では大きな黄緑色の物体の一部が奇妙な動きを繰り返していた。
それは、産卵後のメスのカマキリが顎だけを動かしてまだ生きているオスを捕まえ、頭から喰いつくしていく接写動画だった。
頭部がなくなっても生きてもがき続けるオスの脚が見える。イヤホンで封印した咀嚼音が今にも漏れ聞こえてくるようだった。まるで大切な宝物でも眺めるように恍惚とした表情で動画をリピート再生するひおりんの異常性に、背筋が寒くなった。
「ひ……ひおりん? 何見てるの?」
本に目をやりながら声をかけると、彼女が一瞬で画面を消し、花がほころぶような笑顔で振り向いた。
「んー? ちーくんとデートにいったお店だよ」
彼女が手に持ったスマホには先ほどのおぞましい映像はなく、二人で飲みに行った店のインスタ画像が写っているだけだった。
「ねえちーくん、今度動物園に行きたいな。ふわふわのレッサーパンダのしっぽが見たい」
そう話す天使のような彼女の姿に、あれはきっと見間違いだ、復職明けの疲れのせいだと俺は思い直すことにした。




