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猫の溜息

作者: たま
掲載日:2026/03/06

いつも読んでいただきありがとうございます。

他にも作品がありますので読んでもらえたら嬉しいです。

宜しくお願いします。

猫からの視線


こんにちは、ルナです。

一匹の黒猫ですが、飼い主はレオン・フォン・アルトハイム、若き侯爵で王立魔法学園の特待生なんです。

彼は執務室で山のような書類と格闘しながら、深夜まで魔法の研究に没頭していることが多いんです。

最近、彼のため息が増えたのは、ちょっと心配なんです。


理由は、まあ、想像がつくと思います。

彼の婚約者、貴族令嬢のセシリアと、彼の実妹であるリリアが、裏庭のバラ園でよく会っているんです。


今日もそうでした。

午後の柔らかな日差しの中、セシリアの金色の髪がキラキラして、リリアの栗色の瞳がキラキラして。

二人は手を握り合って、囁き合っていました。


「兄様には絶対に言わないでね、リリア」

「もちろんよ、セシリア。でも…本当に大丈夫? あの伯爵家の御曹司との縁談、断るつもりなの?」


私は木陰からこっそり見ていました。セシリアはレオンの婚約者なのに、別の男性との縁談を断るためにリリアに相談しているんです。

レオンは知らないんです。

彼はただ、セシリアが最近ちょっとそっけなくなったなって感じて、ため息をついているだけなんです。


レオンの一日は、本当に忙しいんです。

朝5時、侯爵家の執務開始。

領地の報告書に目を通したり、税務の承認印を押したり、農民からの請願を処理したり。

8時になったら魔法学園に急いで行ったり。

午前中は元素魔法の講義、午後は古代語の解読実習。

夕方になったらまた執務室に戻って、夜まで書類と向き合ったり。

その合間を縫って、婚約者セシリアに手紙を書いたりもするんですけど、返事はいつも短いんです。


「レオン様、お体をお大事に。セシリアより」


ちょっと寂しいですよね。

彼はそのたびに、深いため息をつくんです。


一方、リリアはというと。

彼女は兄の苦労をよく知っているんです。

だからこそ、セシリアの秘密を抱え込むことに罪悪感を覚えているみたいなんです。

夜、私が彼女の膝の上で丸くなると、彼女は私の耳元で呟くんです。


「ルナ、どうすればいいの? セシリアは兄様を傷つけたくないって言うけど…このままじゃ、いつか大変なことになるわ」


私は「にゃー」とだけ返すしかないんです。

猫にできることなんて、限られているんです。


月日が流れ、満月の夜がやってきました。


その日は、何かが違いました。

レオンは執務を早めに切り上げて、珍しく夕食を家族と共にしたんです。

セシリアも招かれていたんですけど、彼女の表情は硬くて、リリアと目を合わせるたびにそっと首を振っていました。


「レオン、実は…」セシリアが口を開きかけたその時、城の時計が九時を告げました。


突然、レオンの目が虚空を見つめました。

彼の体が微かに光り始めたんです。


「兄様?」リリアが立ち上がりました。


レオンは何も言わず、窓辺へ歩き出した。満月の光が彼を包み込む。

そして、次の瞬間――彼の姿が霧のように揺らぎ、消えた。


「レオン!」「兄様!」


セシリアとリリアの悲鳴が響く。


私は窓枠に飛び乗った。

外には満月が煌々と輝き、庭にはレオンのマントだけがひらりと落ちていた。


騒動は城全体に広がった。

使用人たちが駆け回り、衛兵が庭を捜索する。

しかし、レオンの痕跡はどこにもない。


リリアは蒼白になり、セシリアは泣き崩れた。


「私のせいよ…あの話を早く兄様に伝えていれば…」


「違うわ、リリア。私がはっきり言わなかったのが悪いの」


二人は互いを責め合いながらも、やがて決意に満ちた目を向け合った。


「兄様を探しに行くわ」

「私も行く。だって…だって私、本当は――」


その言葉の続きを聞く間もなく、私は窓から飛び降りた。

飼い主の匂いを辿らねば。

猫の鼻は鋭い。

レオンの残した微かな魔法の残滓が、森の方へと続いている。


森の奥深く、月光に照らされた泉のほとりで、私は彼を見つけた。


だが、そこにいたのはレオンではない。一匹の、大きな銀色の猫だった。


「…にゃ?」


銀猫は困ったように私を見下ろし、人間の言葉を話した。

いや、正確にはレオンの声で話した。


「ルナか…どうやら、満月の夜にだけ発動する、うちの家系の呪いらしい。曾祖父の日記に書いてあったが、本当だとは思わなかった」


私は呆然と彼を見つめた。

侯爵が猫に?


レオン、いや銀猫はため息をついた。猫の顔で、あの慣れ親しんだため息をついた。


「これでは執務も学園も行けない。しかも、次の満月まで一ヶ月ある…」


その時、森の小道から喘ぎ声が聞こえてきた。

リリアとセシリアだった。

二人は必死に走りながら、レオンを呼んでいる。


銀猫は耳をピンと立てた。

そして、私に言った。


「ルナ、あの二人に…そうだな、『にゃんにゃん』とでも伝えてくれ。

心配かけてすまない、と」


私は銀猫と目を見交わし、理解した。くるりと向きを変え、二人の元へ走り出した。


リリアとセシリアは、私が銀猫のいる方へ何度も振り返る様子に気づいた。


「ルナ? 何かあるの?」

「あの…あの大きな猫は?」


二人が泉のほとりに近づく。

銀猫は恥ずかしそうに(猫の表情でそれがわかるのだから奇妙だ)うつむいた。


「兄…兄様?」リリアが声を震わせた。


セシリアは一歩前に出ると、銀猫の首輪に光る侯爵家の紋章を見つめた。

そして、彼女の顔に笑みが広がった。


「あら、レオン様。猫になっても、やはりお忙しいのですね」


銀猫は「にゃ」と鳴き、まるで「その通りだ」と言わんばかりにうなずいた。


その夜から、アルトハイム侯爵家に奇妙な日常が訪れた。


執務室では、銀猫が書類の山の前に座り、前足で承認印を押す。

難しい書類は、リリアが読み上げ、銀猫がうなずくか首を振るかで意思表示する。


魔法学園には、セシリアが「珍しい魔法生物の研究のため」と称して銀猫を連れて行き、講義を代わりに受ける。

教授陣は首をかしげるが、セシリアの優秀なレポートの前には文句も言えない。


そして、最大の問題は、セシリアが抱えていた秘密だった。

ある夜、彼女は銀猫の前で、リリアと共に全てを打ち明けた。


「レオン様、実は…私は貴方との婚約が決まる前から、隣国との和平交渉の密使を任されていました。その任務が長引き、父が私に別の縁談を押し付けようとしたのです。リリアに相談していたのは、どうすれば貴方を巻き込まずにこの問題を解決できるか、でした」


銀猫はしばらく黙っていたが、やがて前足でインク壺をひっくり返し、床に文字を書いた。


『なぜ言わなかった』


セシリアの目に涙が光った。

「貴方の負担を増やしたくなかったからです。

でも…今ならわかります。

一人で抱え込む方が、よほどお互いを苦しめるのですね」


銀猫は深くため息をつき(猫のため息は意外と響く)、今度は別の文字を書いた。


『和平交渉、手伝う。猫は疑われない』


三人、いや二人と二匹は笑い出した。


それから一ヶ月、アルトハイム侯爵家は史上最もユニークな外交活動を展開した。

銀猫のレオンは、城の屋根を伝い、隣国の大使館に潜入。

机の下で会議を盗み聞きし、重要な情報をリリアとセシリアに伝える。

私はというと、見張り役兼、銀猫が罠にかかった時の救助要員だ。


満月の夜が再び訪れた日、銀猫の体が再び光り、やがて人間のレオンに戻った。

彼は一ヶ月ぶりの自分の手を見つめ、深く息を吸った。


「…書類が押しやすいのは、やはり人間の手だな」


その一言に、みんなが笑った。


その後、和平交渉は見事に成立。

セシリアの功績は称えられ、彼女とレオンの婚約はより強固なものとなった。

リリアは兄の執務の多くを引き受け、「猫になった兄よりはマシ」と冗談を言う。


そして今、私は暖炉の前で丸くなり、三人の会話を聞いている。


「でもレオン様、あの時なぜ猫になったのですか? 呪いだとしても、なぜ猫なのかしら」

「曾祖父の日記によると、『真のリーダーは、時には低い視点から世界を見る必要がある』と書いてあった。

猫の目線で領地を見ろ、という教えらしい」

「…それ、単なる曾祖父の冗談では?」

「そうかもしれない。だが」レオンは私を見て、微かに笑った。「確かに、猫の目線からは見えなかったものがたくさん見えた。君たちの秘密も、領民の小さな悩みも、そして…」


彼はセシリアの手を握り、リリアの頭を撫でた。


「家族の本当の絆もだ」


私は満足そうに「にゃー」と鳴いた。どうやら、この家の未来は明るそうだ。たとえ次の満月でまた誰かが猫になっても、きっと大丈夫。

だって、私たちには経験があるからね。

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