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アルヴァーがバイオリンを持って家に帰ると、両親は怪しみ、どこからもらってきたのかとうるさく尋ねた。アルヴァーは散歩の途中に出会った老人にもらったのだと答えたが、信じてはもらえなかった。母親は道ばたに古いバイオリンが落ちていたのを拾ったのだろうと考えたし、父親は口に出しこそしなかったが、どこかの家から盗んできたのかもしれないと思っていた。バイオリンはなかなか高価で、子どもにひょいっと譲ってやれるような物ではなかったからだ。
母親がうるさがるので、バイオリンを家で弾くことはできなかった。ネッケンのことが懐かしくなると、アルヴァーはバイオリンを抱えてあの池に行き、一人ぼっちで練習した。
あの日以来、ネッケンは姿を見せない。バイオリンの上手な弾き方や、新しい曲を教えてくれる人がいないので、アルヴァーは「きらきら星」ばかりをひたすら弾いた。「よい子は上手」や「よかった」のリズムで。
ある日、アルヴァーが家でバイオリンをいじっていると、父親が帰ってきた。その時たまたま虫の居所がひどく悪かった父親は、アルヴァーの手元のバイオリンに目を留め、いきなり怒鳴りつけた。
「こんなもの!」
それからバイオリンを息子から取り上げ、床に叩きつけようとした。
「やめて!」
悲鳴を上げ、アルヴァーはバイオリンに手を伸ばす。父親はまばたきをして、バイオリンを放した。
落下するバイオリンを何とか受け止めたアルヴァーは、ふと水滴がしたたるのに気づき、父親を見上げる。
ぽかんとアルヴァーを見下ろす父親は、水を桶一杯浴びたかのように頭からぐっしょり濡れていた。
アルヴァーがいつまでもバイオリンに夢中なのを見て、両親は考えを改めた。得体の知れない、何の足しにもならない楽器でも、いつか息子の役に立つかもしれない__そう思った父親は、バイオリンの教師を雇い、アルヴァーに楽器をきちんと習わせた。日に日に上達していくバイオリンの音色を、母親もうるさがらなくなった。
「末は音楽家か、楽器職人か」
息子がバイオリンを弾く姿を遠巻きに眺め、父親が母親に言った。
「でも、音楽の道で成功するには、たくさんお金がかかるというわ。私たちにそんなお金が払えると思う?」
言いつつ、母親は自分で首を振る。普通の学校すら、高等学校まで行かせられるかわからないのに。
しかし数年後、バイオリンの教師がアルヴァーに言った。
「君さえよければ、音楽の学校に入れるよう推薦してあげよう」
アルヴァーも、両親も喜んだ。教師はアルヴァーのバイオリンをじっと見た。
「そのバイオリン、どこの職人が作ったものかな? じっくりと調べたいから、しばらく貸してくれないか。勿論、その間は私のバイオリンを使うといい」
アルヴァーはネッケンのバイオリンをぎゅっと抱き、首を振った。
「僕は、このバイオリンがいいんです」
教師は何でもない顔で、ふうんそうかと相づちを打った。しかしそれが理由かは分からないが、音楽学校に入学する話はいつの間にかなくなってしまった。
音楽家にも楽器職人にもなることもなく、成人したアルヴァーは、やがて仕事場の女性と結婚した。アルヴァーの趣味のバイオリンを、妻は楽しんで聴いてくれた。子どもも生まれ、アルヴァーも家族も、つつましいながらに幸せな生活を送っていた。アルヴァーは妻や息子を連れてたびたびあの池の周りを散歩し、静かな池の眺めや水鳥が泳ぐ様子を楽しんだ。
しかし、ある日を境に物の値段が大きく上がり、また別の日アルヴァーは職を失った。次の仕事を探してもなかなか見つからず、日雇い労働の長い列に並ぶ時が何日も続いた。アルヴァーも妻もその時々の仕事で精いっぱい働いたが、わずかな賃金しか得られなかった。
ふさぎ込むアルヴァーの元に、古道具屋の店主がやってきた。
「いつか見かけたあなたのバイオリン、あれは相当な値打ちものだと思うのです。私に売ってくれませんか? きちんと代金はお支払いします」
店主に告げられた金額を聞いて、アルヴァーは驚く。古いバイオリンにそれだけの値打ちがあったとは、彼も妻も夢にも思わなかったのだ。息子がいつも腹を空かせていることをよく知っていたアルヴァーは、迷いなくうなずいた。
店主がバイオリンを引き取った時、庭でぞっとするような悲鳴が上がった。
「坊やが、井戸に落ちた!」
駆けつけたアルヴァーは、古い井戸に飛び込んで息子を助けた。無事助け出された息子の足には、水草が何本もからみついている。
アルヴァーは、昔ネッケンに言われた言葉を久しぶりに思い出した。
『このバイオリンを、決して手放してはいけない』
息子を抱きしめ、アルヴァーはがっくりとうなだれた。
「坊やが危ない目にあったのは、ネッケンの呪いか」
そして、バイオリンは売れないと店主に伝えるため、家の中へとぼとぼと帰って行った。
「バイオリンを売ることができたら、食糧を何日分も買えただろうに」
その夜、妻に向かってアルヴァーはそうこぼした。
「どうして、売ってはいけないの?」
「ネッケンと、約束をしたからさ。預かったバイオリンは、僕が六十歳になってから返すと。全く、つまらない約束をしたものだ!」
椅子の上にのせたバイオリンを憎々しげに睨み、アルヴァーはうめいた。ろうそくの火を受けて、四本の弦がきらきらと輝いている。上等なガット弦だと、バイオリンの教師が教えてくれた。
「こんなもの、何の腹の足しにもなりはしない!」
「ねえ、そんなこと言わないで、アルヴァー。わたしは、あなたが聴かせてくれるバイオリンの音色が好きだわ。また弾いてちょうだいよ」
「僕らの仕事が決まったらね」
アルヴァーはろうそくの火を吹き消す勢いでため息をついた。とんとんと小さな足音が近づいてくる。二人が顔を上げると、眠っていたはずの息子が側に来ていた。
「あら、坊や。起きちゃったの?」
「うん」
空腹でよく眠れなかったのだろう。息子の頭をなでながら、アルヴァーの気持ちはいっそう沈んだ。父親の胸の内を知らぬまま、息子はバイオリンを指さした。
「あれ、」
「うん? バイオリンがどうした」
「あれほしい」
「駄目だ。あれはお父さんが大切に持っていなきゃならないんだ」
妻が笑った。
「そう固いこと言わないで、触らせてあげなさいよ」
アルヴァーは、バイオリンと弓を両手に持って、息子に言った。
「左肩とあごでバイオリンをはさみ、右手で弓を持つんだ。決して落としちゃいけないぞ」
妻が見守る中、アルヴァーは息子にバイオリンの持ち方を教えた。続いて、音の出し方を。四本の弦の押さえ方を。
「音を出すのは、慣れてきたな。では、一番簡単な曲を教えてあげよう。「きらきら星」だ。「よい子は上手」のリズムで弾こう」
息子が弓を動かすのに合わせ、アルヴァーは口ずさむ。
「よい子は上手、よい子は上手、よい子は上手、よい子は上手……」
弾き終わった時、息子が笑った。それを見て、アルヴァーと妻も顔を見合わせて笑うのだった。
それ以来、バイオリンは半分息子の物になった。息子はかつてのアルヴァーのように、バイオリンを夢中で弾いて遊んだ。アルヴァーは帰宅してから息子にバイオリンの弾き方を教えた。そのうち、息子のバイオリンを聞きつけた近所の子どもたちが集まってくるので、皆にバイオリンを教えることになった。アルヴァーはなかなか教えるのが上手かったので、子どもたちの親がレッスン代を払ってくれるようになった。
ある時は公園でアルヴァー自身がバイオリンを弾き、子どもたちや通りがかった人々の喝采を浴びた。そこで集まったお金もかなりのものになり、アルヴァーたちの生活はいくらか楽になった。
息子がどんどん大きくなるごとに、アルヴァーも年をとっていき、いつしか彼は六十歳になった。隣町で働き始めた息子が結婚の報告をしにきた夜、ほろ酔い気分のアルヴァーは、バイオリンを持って外に出た。
涼しい夜の風を浴びながら歩いているうちに、アルヴァーの頭は冷めていった。バイオリンの弦をぽろんぽろんとかき鳴らしながら、昔歩いた林道を散歩する。
不意にかいだ水のにおいに足を止めると、いつの間にか彼は大きな池の前にいた。
「ああ……」
アルヴァーは手元のバイオリンと弓を見下ろし、ほうっと長い息をはいた。それから、どこへともなく呼びかけた。
「ネッケン、約束を果たしに来たよ!」
だが、あの老人は姿を見せなかった。
ふと池に目を向ける。月光が水面に落ちて、銀色の道を作っていた。その道をこっちに歩いてくる者がいる。
足音もたてず、水もはね散らかさず。やってきたのは、髪の長い娘だった。
「こんばんは、アルヴァー」
きれいな声でそう呼びかけられ、とっさにアルヴァーもあいさつした。
「こんにちは、お嬢さん」
娘は微笑み、アルヴァーの前で立ち止まった。
「こんな夜に、何をなさっているのです?」
「約束を守りに来たんだ。まだ自分が子どもだったころ、ネッケンという人にバイオリンを借りた。そして今、返しに来た」
娘はじっとアルヴァーを見つめた。美しい長髪に、水草がところどころ混ざっている。
「わたしは、ネッケンの娘です。父のかわりにあなたに会いにきました」
娘の言葉に、アルヴァーは驚き、少し腹を立てた。
「どうして、ネッケンが来ないんだ」
「父は、」
「まさか……死んでしまった? あの時、もうすっかりおじいさんだったから。それとも、どこか遠くに?」
「いいえ。父はそこに」
娘は、すっと水かきのある指でバイオリンを示した。
「ずっと、あなた方と共にいました」
アルヴァーはぎょっとして、バイオリンを調べた。
「どういうことだ?」
「バイオリンに張られた、ガットの弦。弓の毛。全て父の体から作られたものです」
バイオリンにそっと触れ、娘は語った。
「父もわたしも、水の精。水の国の女王のために、人間の子どもをさらわなければならないさだめです。あなたが父と約束をした時、ちょうど水の国では女王の誕生祝いの宴が開かれるころでした。父は、仲良くなったあなたを女王に差し出さなければなりませんでした……」
娘はアルヴァーの顔から目をそらした。
「けれど、父はあなたをどうしても水の国に連れてきたくはありませんでした。何百年も生きてきて、どうして今さら気が変わったのか。それはわたしには分かりません。とにかく父は、水の国の者たちに目をつけられたあなたを守ろうと、自分の体の一部を使ったバイオリンをあなたに贈りました。__わたしたちの本当の姿は、水馬なのです」
娘は一瞬だけ斑入りの馬の姿になってみせ、それから人間の姿に戻った。
「父のバイオリンがあなたのそばにある限り、水の国の女王でさえ、あなたたちに手出しはできません。でも、ひとたび目をつけた獲物を、わたしたちは決して諦めないのです。何十年経とうが、あなたは女王に狙われています」
「では、何故今になってバイオリンを返せと言うのだ」
「それが、父のできる最大限のことだったからです」
娘はため息をついた。
「女王があなたを水の中に引き込めないのは、あなたが父と約束をしたから。水の国でも、約束は強い力を持ちます。六十歳__十分に人生を楽しんだといえる年に、バイオリンを返す。その約束を果たすには、あなたが無事で、ちゃんと生きていなければならないでしょう? それ以上のことを望むことは、父にはできませんでした。宴のごちそうをお預けにされて、女王はお怒りでしたから」
「では、このバイオリンを返したら、私は水に引きずり込まれて死ぬんだな?」
「そうです」
アルヴァーは、ネッケンがバイオリンを弾いているところを思い出した。彼と交わした他愛のない会話と、教えてもらったバイオリンの弾き方も。
それから彼は、バイオリンを娘に差しだそうとした。けれど娘は、微笑んで首を振った。
「アルヴァー。私とも約束を致しましょう」
池の水面にさざ波が立つ。
「このバイオリンは、持ち帰ってください。それから、あなたの孫や、ひ孫に、弾き方を教えてあげてください。このバイオリンを壊してしまった時だけ、私はあなたか、あなたの子孫を迎えに行きます。その時まで、大切に守ってください」
アルヴァーは、娘の瞳を見つめ、ゆっくりとうなずいた。彼女の目は、父にそっくりだった。
別れる前に、アルヴァーは一つ質問をした。
「ネッケンは、水の国にいるか?」
娘は首を振った。
「いません。父はもう、どこにもいません」
そのバイオリンだけが父のいた証だと、娘は言った。アルヴァーは楽器を抱き、池から立ち去った。




