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 池のそばで、バイオリンの音を聴いた。


 散歩をする時、いつも通りがかる池がある。お気に入りの林道を少し外れたところにある、大きな池だ。水底が見えるのは岸のほんの少し先までで、そこからはどれだけ深いのか、それとも水がどうしようもなくにごっているからなのか、水面をのぞきこんでも何も見えない。池の真ん中には草が伸び放題に生えた小さな島があり、時々水鳥の親子がくつろいでいる。


 池の周りには、いつも誰もいない。釣り人も、渡し舟もない。とびきり暑い日だって、池で一泳ぎしようという者はいなかった。


 アルヴァーも、両親からは決して池で遊んではいけないときつく言われていた。万が一溺れたりしたら大変だからだろう。それでもアルヴァーは、池の周りを散歩するひとときが好きだった。


 ふと風が吹いた時に嗅ぐ、水のにおい。むきだしの脚をくすぐる雑草。水鳥たちや、水の中にひそむ蛙が交わす、意味も分からない会話。どうしてだか分からないけれど、それら全てをひとりじめできるのがたまらなく嬉しいのだ。


 だがその日、池に先客がいたようだ。

 

 まだ池に辿り着く前に、バイオリンの音色でアルヴァーはそれを知った。樹皮をうすくうすくはいで真っすぐ伸ばしたような、つややかなバイオリンが聞こえる。はじめはただ一音だけを鳴らし、それから別の音を静かに重ねた。頭上の木の葉がかすかに揺れていた。


 背丈の低い草の茂みをかき分け、アルヴァーは音のする方向へ急いだ。自分だけの秘密の場所に入り込まれたことに腹を立てながらも、いつもとは違う出会いにちょっぴり胸を騒がせて。


 岸辺でバイオリンを奏でていたのは、髪がすっかり白くなった老人だった。左の肩にバイオリンを乗せ、右手で剣のような弓を持ち、池の向こうをぼんやりとながめながら黒い指盤の上に指を走らせていた。彼が弓を上に下に動かすたび、音が生まれて池の上を走っていった。


 アルヴァーが近づくと、老人は演奏をやめた。

「おや、坊や。どうしたね?」

 アルヴァーは何だか急に恥ずかしくなり、下を向いた。知らない人とあまり話したことがなかったのだ。

「バイオリンが聞こえたのかね?」

 老人の洞察に、アルヴァーは黙ってうなずく。老人はちょっと笑って、また弾き始めた。ソナタという曲なのだと、アルヴァーはずいぶん後になってから知った。


 次の日も、また次の日も、老人は池のほとりでバイオリンを弾いていた。観客はいつもアルヴァーただ一人。時折、老人はアルヴァーの好きな歌を弾いてくれた。


 ある時、老人はアルヴァーに言った。

「坊や、このバイオリンを弾いてみるかね?」

 アルヴァーはこくんとうなずく。老人はまず、バイオリンと弓の持ち方から教えてくれた。あごと左肩でバイオリンをはさみ、左手に決して無駄な力は入れないこと。右手の弓は、指で犬の顔を作り、親指と中指・薬指でくわえるようにして持つこと。弓を自在に動かせるように、しばらく弓だけの練習をした。それからいよいよ、バイオリンの弾き方だ。


 最初は弦を押さえず、弓だけで音を出した。弦を弓の毛でこすると、ギギッと固い音がする。

「力を入れてゆっくり弓を引くと、そんな音が出る。力を抜いてごらん」

 すると今度は、へろへろと細い音が出た。老人の顔を見上げ、アルヴァーは笑う。老人も笑った。

「無駄な力を入れず、かといって音を出すことを怖がらず。まっすぐに弓を動かせば、いずれ良く響く音の出し方が分かるようになる。弓を自分の胸の方に引くのが、ダウン。弓を左肩の向こうに上げるのが、アップという。ダウンとアップの繰り返しだ」

 

 アルヴァーがバイオリンをただ弾くことに慣れてくると、老人は弦の押さえ方を教えた。

「親指とそれ以外の指で指盤を挟み、親指以外の四本の指で鳴らしたい弦を押さえる。弦を押さえると、音が変わる。正しい音を出せる場所を覚えなさい」

 

 老人は、指盤にしるしをつけた。

「はじめのうちは、印のついた場所を押さえなさい。覚えたら、印は消してしまおう」

 

 早く何か歌を弾きたいアルヴァーに老人が教えたのは、「きらきら星」だった。

「簡単な曲だが、音のリズムを変えることで、良い練習になる。まず__「よい子は上手」のリズムできらきら星を弾きなさい」

「はい」

 老人が歌うのに合わせて、アルヴァーは左手で弦を押さえ、右手で弓をダウンアップさせた。

「よい子は上手ドド、よい子は上手ソソ、よい子は上手ララ、よい子は上手……」


 なんとか「きらきら星」を弾くことができると、老人は筋張った手で拍手をして、にっこりと笑った。

「坊やはなかなか上手だ」

「『よい子』だからね」

 アルヴァーは得意げに言い返す。

「池にたった一人で来るような子が、『よい子』かな?」

 一転、アルヴァーは口をとがらせた。

「お説教はなしだよ、えっと……」

「ネッケン。わしはネッケンだ」

 アルヴァーはネッケンと名乗った老人の目をまっすぐ見上げた。池の水面と同じ、深い緑色のネッケンの瞳を。

「ぼくはアルヴァー。ね、明日もバイオリン教えて!」

「ああ、いいとも。明日は「ちょうちょう」を教えてあげよう」

 手を振って、アルヴァーはネッケンと別れた。


 それから毎日、アルヴァーはネッケンからバイオリンを教わった。ネッケンは辛抱強い先生で、アルヴァーの覚えが悪くても、ふてくされた態度をとっていても(その日は母親から叱られたばかりだったのだ)、声を荒げるようなことは決してなかった。レッスンの終わりに、ネッケンは自分でバイオリンを弾いて聴かせた。アルヴァーは自分で練習する時間も、ネッケンのバイオリンを聴く時間も両方好きだった。


 ある日、いつもの時間にアルヴァーが池へ行くと、ネッケンはいなかった。待っていればもうじきやってくるだろう。アルヴァーは大して気にもとめず、池のほとりをぶらぶらと散歩することにした。


 水面の波紋をなんとなく眺めていると、つうっと大きな魚が泳いできて、宙に飛び出した。アルヴァーはおどろいたが、また出てきたら捕まえてやろうといたずら心をおこし、草むらに身をひそめた。


 やがて魚は再び水上に顔を出した。アルヴァーがこっそりと見守る中、水鳥が一羽魚に近づいた。

 水鳥はくちばしを開き、人間の言葉でしゃべった。

「もうじき宴だ」

 顔を出した魚も、ばっくりと口を開けている。

「だけど子どもがまだだ」

 アルヴァーもあんぐりと口を開けて、この奇妙な生き物たちの会話を聴いた。


 その時、「アルヴァー!」とネッケンの呼ぶ声がして、アルヴァーは振り返った。その隙に、魚も鳥もどこかへ行ってしまった。


 いつものようにバイオリンを持ったネッケンは、怪訝な顔をしたアルヴァーに気がついた。

「どうした?」

「……変な魚と鳥がいたよ。しゃべってた」

 ネッケンの顔が強張った。

「……そうか」

 アルヴァーは老人を見上げる。

「今日は何をやるの?」

 ネッケンもアルヴァーを見下ろした。

「……今日は、君に別れを言いにきた」

「えっ?」

 ネッケンはわずかに悲しそうな顔をした。

「君にこの楽器を預かっていてほしい。わしのバイオリンだ」

 受け取ったバイオリンを見て、アルヴァーはいつもとの違いに気がついた。

「あれ、指盤に印がついてないよ」

「いつもの楽器とは違うからだ。……指はじきに覚えられるだろう。この楽器を、いつもそばに持っていておくれ」

 アルヴァーはバイオリンを脇に抱えて、うなずいた。

「ただし、いつかは返してほしい。時に、君のおじいさんはいくつかね?」

「今年で六十歳になったよ」

「では、君が六十歳になったら、バイオリンを持ってこの池に来ておくれ。約束してくれるかな?」

「うん」

 アルヴァーはネッケンと小指をからめ、約束をした。

「いいな、決してこのバイオリンを手放してはいけないぞ。何があってもだ」

「うん、でも……」

 ネッケンはどこかに行くの? そう聞こうとした時、池全体に強い風が吹いた。とっさにしゃがんでバイオリンと弓を守ったアルヴァーが次に顔を上げると、ネッケンはもうどこにもいなかった。


 アルヴァーは、その場でネッケンが戻ってくるのを待った。しばらく時間が経ってもさっぱり姿を見せないので、池の周りを探し回った。木のかげにも、茂みの奥にも、小島にも__ネッケンはいない。どこにもいない。


「アルヴァー」

 

 後ろから呼ぶ声がした。振り返ると、一頭の白い仔馬がいた。真っ白で目が黒く澄んだ、とてもかわいらしい馬だ。

 

「アルヴァー。水の中の国に行ってみたいと思わない?」


 仔馬が当たり前のようにしゃべったことを、その時のアルヴァーは不思議とも思わなかった。

「水の中?」

「そうだよ。かわいい女の子も、おいしい食べ物もたくさんあるよ。今日はみんなでパーティーをしているの。アルヴァーも来てくれたらみんな喜ぶんだけどなあ」

「うん、行く」

 アルヴァーがそう答えると、仔馬は水草そっくりの尻尾をぱたぱた振って喜んだ。

「濡れるといけないから、そのバイオリンは置いていってね」

 そう言われ、アルヴァーは抱えていたバイオリンを地面の上に置いた。仔馬が膝をつき、背中に乗ってとうながす。アルヴァーはわくわくしながら仔馬の背に乗った。


 ところがその時、アルヴァーはネッケンの言葉を思い出した。


『決してこのバイオリンを手放してはいけない』

 

 水の中に行くのなら、バイオリンは持っていかない方がいい。でも……


 馬が立ち上がろうとした瞬間、アルヴァーは手を伸ばしバイオリンを取った。


 その瞬間仔馬は激しくいなないて、アルヴァーを放り出した。地面に叩きつけられたアルヴァーが見たのは、首を荒々しく振りながら、池の中に飛び込む仔馬の姿だった。


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