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弔辞

作者: 歯磨き子
掲載日:2025/12/20

 君は助けてと言った。僕は君を助けられなかった。以来君の声が夢の裏にへばり付いた。君は素敵な人だった。僕には眩しいくらいに。それでも君は僕に寄り添った。だからこそ眩しかったのかもしれない。君は毎朝僕に「おはよう」に加えて「愛してる」と言った。僕は照れ臭くて「僕も愛してる」とは言えなかった。それでも普段から全力で僕に愛を表現してくれている君に報いたくて、それで君の誕生日に漸く君より朝早くに「愛してる」と伝えた。僕からしてみれば何故もっと早くに言えず今更になってしまったのかと内心で自己嫌悪に陥っていたのだけれど、君は少し驚いた表情をした後何も言わずただ優しい笑顔で抱擁を求めてきたんだ。抱きしめた時に君は「私も愛してる」と囁いた。僕を縛る腕の力は非常に強くて痛かったけれど、痛いなどと野暮な言葉を漏らしてしまうほど情けないことはしたくなかったのでそのまま僕も強く抱き返した。華奢な身体がこちらに寄ってきた刹那に、君の柔軟剤の匂いが鼻腔をくすぐった。朝、輪郭のおぼろげな時間に、君の体温だけがはっきりと分かった。最近、僕は君と同じ柔軟剤を使ってみたけれど、人間の鼻というものはなかなかどうして上手く利かないもので、君は何処にもいなかった。ただ寂寞の感だけが込み上げてきた。だからこそ、より一層もっと僕が「愛してる」と伝えられなかったことが悔やまれる。君を責めるつもりは一切ないけれど、ただ率直に素敵であると同時に罪な人だと思う。そこまで含めて愛していると言いたかったのさ。そういえば、君は多趣味な人間だった。この上なく豊かな人間だった。読書もすれば、絵も描く。探求心の尽きない人だった。そういった好きなことが一つ、また一つと増える度に僕に教えてくれた。普段は多くを語らない君がその時ばかりは饒舌になって魅力を語ってくれるのが僕は愛しくて、そして嬉しかった。一つの楽しみだった。ある時君は描いた絵を僕に自慢気に見せた。過去最高の傑作だと言って額縁に飾っていた。まさか、それが最後の作品となるとは思わなかった。君が描いたのは出先の公園で咲いていた桔梗だった。確かに君の描いた桔梗は奇麗だった。僕が奇麗だと思った所以は上手だったからではないと思う。君の絵はただの空間の模写ではなかった。君の主観というフィルターを介して見えた景色がそこには映し出されていた。君の見えている世界が僕にも共有されたような気がしたのが嬉しかった。それで、君の見ている世界はとても淡くて儚くて、奇麗だと思ったんだ。今でも君の絵は額縁に飾ってある。その淡くて儚い絵はまるで君自身のようでもあったと最近になって思ったんだ。君は温厚な人間だったけれど怒ったこともあった。ある夜、遅くに帰った僕に君は怒った。君の手元には僕が服用していた睡眠薬があった。「寝付きが悪いの?」そう言った君は既にどうして言ってくれなかったのかと次の質問を準備しているのを僕も察していた。僕はただ謝ることしかできなかった。君は怒る理由でさえ僕を心配してのことだった。本当に逞しい人だと思う。僕は君の夫であったことを誇りに思うけれど、同時に僕如きが君の夫であったせいで君を助けられなかった。僕にとって夫という立場は君への愛と僕への憎悪が絡み合って渦になる混沌となってしまった。


 夢の中ではいつも君が助けてと言ったあの瞬間だけが鮮明に映し出された。色のない世界で唯一、君の紅だけが飛び散っていた。情報が目まぐるしく廻り、喧騒が絶えないこの現代で、君は数ある事件の被害者の内の一人に過ぎない。けれども、僕は今でもあの時から抜け出せずにいる。皆が君を忘れて前へと進んで行く中で、僕だけは君を忘れられないで二の足を踏んでいる。君が特別だったからだ。最早これが、善い事なのか悪い事なのかも僕には判らない。今日も君の夢を見た。君が、僕を見つめている夢。僕もただ君を見つめているだけだった。それで目が覚めてから涙を流した。君を想って泣いたのはこれが初めてではなかった。君の愛への渇望が僕の中で絶えないんだ。この世はギヴ・アンド・テイクだとか持ちつ持たれつだとか言うけれど、僕たちだけはそんな関係から逸脱した真の愛で結ばれていると思っていた。けれどもそれは僕の勘違いだったのかもしれない。君は僕に愛を供給し、また僕が贈った愛に呼応した。僕が気付かないうちに、君は僕に様々なものをくれていた。君がいなくなった今、漸くそれに気が付いた。僕はもしかしたら、君という個人を愛していたのではないのかもしれない。僕を愛してくれる、愛情をくれる君という存在を機械のように見ていたのかもしれない。愛されなくともただ一方的に愛せるような、僕にはそんな気概がなかったんだ。結局のところ僕たちは僕のせいで真の愛で結ばれることは叶わなかったんだ。君だけは僕という個人を本当に愛してくれていたのに、僕だけが持ちつ持たれつの現世の理から抜け出すことができなかった。ごめんなさい。本当にごめんなさい。それでも僕は君の愛じゃなきゃ駄目なんだ。誰にでも愛をくださいと言って世界中を走り回れば、誰か一人くらいは僕に愛をくれるのかもしれないけれど、君の愛をくれるのは君しかいないから。もう僕は何をすればいいのか分からない。僕らの関係性はまるで太陽と月のようだった。君が太陽で、僕が月。君がいつも自ら光を放って、僕はいつも君の光に依って反射していた。僕はいつだって君に依存していた。太陽がなくなった月はどこに進めばいいか分からないんだ。あるいは、どこにも行かずに、絶望に砕け散ってしまえば良いのだろうか。君に会いたいよ。今度は僕も君に愛を伝えたい。


 あの日君はいつも通り輝かしい笑顔を見せていた。人質に取られるまでは。君の喉笛に鋭い白銀が突き立てられていた。君は、最期に僕を見て助けてと言った。瞬きの間に鮮血が飛び散っていた。手に汗を握った。脚が震えた。脳味噌が白く融けだして冷えた。世界から色が消えた。真夏の暑い日だった。頭の冷たさに対して心臓がぐつぐつと灼熱に煮えていた。


 今、君に会いに行こうと思う。目の前にある輪の奥で、いたずらに光の小人が踊っているんだ。手を繋いで、案内をしてもらう。もう少しばかり、待っていてくれ。僕の君。大好きだよ。

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