この母親は神経質だ
僕は近所を一回り歩いて時間を潰して家の近くに戻って来た。
母親がいないか確認する。母親はベランダにいた。物干しに洗濯ものを干している。母親が家の中に去ったのを確認してから僕はベランダの下から床下に入った。
僕は台所の床下の部屋で一休みしてから、外壁と内壁の間に入って這いずるように台所に移動した。母親は夕食の支度をしていた。今日は全裸ではなかった。ちゃんと衣服を着ていた。そして小学校から娘が帰って来る。僕は密かににこやかに笑いかけた。不意に自分が壁になった気がしてくる。こうして僕はあたたかな壁になって母娘を見護っているのだと。
娘は毎日、小学校へ行く。母親の方は職場は定かではないが――ああ、壁の中からいつも母親を見護っていてわからないことがあるのだ――とにかく働きに出かける。
その間、僕は家の中に自由に入ることができる。僕は台所でペットボトルに水を補給して、食べ物なんかも気づかれない程度に少しいただく。僕は家中を歩き回る。何と言ってもここは僕の家なのだから。
母娘は家に帰るとストーブをよく使う。僕が壁の中から断熱材を取り去ったから寒いのだろう。僕はいたく同情する。母娘がかわいそうでならないと皮肉に笑う。
母親の出勤に合わせて僕は家の外に出た。ジョギングする近所の人間の素振りを始めた。母親が車に乗り込むのを待ち受けておいてから、おはようございます、と僕は毎日声を掛ける。母親もおはようございます、と返してくれる。
「何か困ったことはありませんか」僕は聞く。
言いながら僕は家の周囲の塀が少しばかり傷んでいることを気にする。塀は僕の父親が生前、自分で作ったものだ。やはり素人の仕事だから時と共に傷みが出てくる。
「やっぱり壁から音がするんです」母親は言う。「ざりざり、って擦るような音です」
「気にすることありませんよ、鼠とかの動物ですから」僕は言いながらこの母親は神経質で鬱陶しい女なのかもしれないと思った。これだけ僕が気にするな、と再三にわたって注意しているのが理解できないのだろうか。
その日の夜中に僕は母娘が眠りに落ちた家の中を歩いていて、母親のスマートフォンがケーブルに繋がれて充電されているのに気づいた。僕はスマートフォンを開き(待ち受けの画面は母娘が海辺で笑っているものだった)、母親の知り合いの電話番号を全て僕のスマートフォンに移し終えた。これで母親の交友関係を知ることができるわけだ。僕はほくそ笑んで家の中の探索を続けた。
雛祭りの日が来た。僕はルルという娘が小学校に行っている間に娘宛てに手紙を残した。手紙はルルの子供部屋のベッドの上にちょん、と乗せておいた。
『ぼくはテレビの中から出てきたチャンネルお兄さんです』と僕は書いた。『ルルちゃんのことを時々、テレビの中から見ていますよ。ルルちゃん、いい子にしていてえらいですね。ぼくはサンタさんとお友達だから、クリスマスにはすてきなプレゼントをするようにサンタさんに頼んでおいたよ。それから、ルルちゃん。ぼくのことはお母さんにはひみつにしてください。おとなにぼくのことを知られたら、もう手紙が書けなくなるからね。ひみつだよ。ぜったいにひみつだよ』
翌日、ベッドの上に返事の手紙が乗せられていた。
『チャンネルお兄さん、こんにちは。ルルはまだ馬に乗ったことがありません。こんどサンタさんに会ったら、ルルが馬に乗りたがっていたと言ってください。チャンネルお兄さんの手紙のうらも見てみたけど、なにも書いてなかったよ。手紙のうらに絵をかいてください。ルルより』
かわいい娘だなと僕は思った。母親は壁の中を僕が移動する音を神経質に気にしている。だから僕は壁の中から天井裏に活動の場を広げるようになった。居間の上には二階部分がないので、天井裏から母娘の姿を見下ろすことができる。天井裏の天板にドライバーで小さな穴を開けてじっくりと母娘を見る。
その時、僕はつい体のバランスを崩して天板に手を付いてしまった。まさかこの僕がこんなミスを犯すとは。天板は凹んで穴が開き、その中から僕の掌が一瞬のぞいた。しまった、と僕は思ったが取り返しはつかなかった。穴から居間のようすを一瞬だけ伺った。母親が天井を驚いたように見ていた。僕は音を立てないように退散した。
僕は小物だ。台所の床下の部屋に戻って、気づかれたか、大丈夫だったか、と不安に体を震わせた。うまく誤魔化さなければならない。そこで僕は、母親が占いとスピリチュアルと心霊を信じていることを利用した。あの天井の失敗は心霊の仕業に見せかけることに僕は決めた。
僕は仏間の壁の中に移動して待ち続けた。そして母親が仏間に入ってきた時を見計らって仏壇の裏で音を立てた。初めは小さくノックして、そのノックの音を次第に大きくして母親を驚かせ、怖れ慄かせた。さも全てが仏壇の先祖の霊が絡んだ心霊現象であるかのように僕は見せかけた。
この日から母親は仏壇を毎日拝むようになった。天井の天板の穴からのぞいた僕の掌も先祖の霊のものと母親は思い込んだようだった。僕の策は成功した。
イエス・キリストが言ったように、死後の霊の方からは生者にメッセージは伝えられないと聖書にはっきり書かれているではないか。不勉強だから心霊なんかに騙されるんだぞ、と僕は心の中で母親をしかった。イエスが言ったことにちゃんと耳を傾けないといけない。僕はちゃんと隣びとを愛せよという聖句を守って君たちを見護っている。君たちは僕の愛に愛をもって応えなければならない。
僕はまだまだ耄碌する年ではない。何だ、あの天井裏のザマは、と僕は改めて自分に腹を立てた。僕は自分で自分の頬を思い切り平手打ちした。痺れるような痛さだ。仕方がない。僕はしくじったのだから。
僕は居間の天井の穴が修理されるまで、しばらく床下の部屋だけで過ごさなければならなかった。




