結婚生活の終わりを思い出す
その日、僕は自分の結婚生活を思い出した。
僕が結婚していたのはもう一年前のことだ。
妻は夫の僕に言った。「あなたには確かに根性はある。それは認める。あなたには他人に負けたくない、負けられないっていう根性があるわよ。でもそれはどんな汚い手を使ってでも自分の暗い願望を叶えるような拗けた根性に見える。あなたはオタクで根暗なのよ。世の中で生きていくにはあなたの暗い根性とはまた別の『正しい根性』っていうものが必要なの。あなたにはその正しい根性が欠けている。だからあなたは世の中で上手く行かないと言っては仕事を変えて、その度に生活費を払えなくなって借金を抱えて、そして失敗して落伍者になったのよ。あんたはもう家まで失いつつある。あんたには本当の意味での正しい根性が必要だったのよ。あたしは墜落したあんたなんかに自分の人生を預けるつもりはないから。あたしは出て行く。といってもあんたもあたしも不動産屋に立ち退きを迫られて出ていかなければならない。どっちにしてもこの家を出ていかなければならない。だけどあたしは他人に追い詰められて圧力をかけられて出ていくんじゃない。あたしは自分の意志と選択で――自分の自由意志で――この家から出ていく。あんたという泥船にあたしはこれ以上乗っているつもりはない。あんたという船は沈んでいく。あんたは溺れる。その責任はあんたが自分で取ってやっていけばいい。海に沈んで死体になって自分の責任を果たしていけばいい。あたしは一抜けする。あたしはあんたとは別れて誠実で正しい根性のある新しい男性を見つけて、あたしの人生を幸せなものにしてみせる。あんたにはあたしの人生の邪魔はさせない。あたしは『出て行く』。自分の自由意志と選択でね」
そのように妻は僕に別れを告げた。口下手な僕には饒舌で雄弁な妻に言い返すことはできなかった。僕は情けない顔をして妻の言葉を聞き、そして聞き流すことなどできずに受け止めた。ぶきっちょに、言葉もなく、敗北するようにして受け止めた。
その一年後に僕は自己破産して家を失ったのだった。
年末に入った。
僕は町の郵便局で年賀状の仕分けのアルバイトをした。ただのバイトだが僕は家賃のいらない質素な生活をしているので一か月のアルバイト収入で半年は暮らすことができる。
津波前には防波堤の傍に郵便局があったんだがな、と僕は年賀状を仕分けしながら思った。津波で昔の郵便局は破壊されて、今は地面が嵩上げされた町の中心部に移転している。
真新しい郵便局だ。働いている間、僕の心は僕の家に暮らす母娘とともにあった。早く裸族の母親の全裸が見たいし、天使のようなルルにも会いたい。床下の部屋の中に帰りたい。そして僕はアルバイトを終えた。
夕方、豊かになった懐具合で僕は町を歩いた。高校の近くに平屋のアパートが三軒並んでいる。どの棟も住人で埋められている。多分、高校に職を持つ人たちが住んでいるのだろう。
この町の高校の近くには貸しアパートが少ない。昔は外国人教師がいて高校で英語を教えていたものだが、震災後に外国人の姿は見なくなった。僕はたかが津波くらいの災害で町を去った外国人たちが赦せない。この町は生涯かけて住むのに十分なくらいの良い町なのだ。
そんなことを思いながら家路に着いていると僕の家に住む母親の姿を見かけた。アパートの壁に貼られている不動産屋の電話番号を見つめている。もしや引っ越しを考えているのか、と僕は疑った。そんなに僕の家に住むのは不服か。平屋の狭いアパートの方が気楽でいいとでも言うのか。
母親の背中を見ながら僕の中に憎しみが込み上げて来るのがわかった。最も近くに住む隣びととして裏切られたような気持ちだった。
僕は母親のうしろを五十メートルほどの距離を置いて歩いた。要は後をつけたのだ。母親は僕の家に着いて道路から家を見上げている。ぼんやりしているようだ。
僕は母親の横に歩いて、こんにちはと声を掛けた。母親は僕を見た。毎日見慣れている母親だというのに、こうして現実に声を掛けてみると自分でも狼狽えるくらいに緊張して心臓が鳴った。
「よくジョギングしてこのあたりまで走って来るんですよ」僕は明るい口調を装った。「ジョギングして歩いて時々立ち止まって休んで、と繰り返すんですけどね」
僕は傍の自販機でジュースを三本買った。「新しく越して来た方ですよね、ご家族の皆さんでどうぞ」言いながら僕はジュースを手渡した。「簡単ですが引っ越し祝いです。このあたりの住民はあなたたちのことを大歓迎しますよ」
「あら、ありがとうございます」母親はやっと僕に視線を当てて興味を向けた。
「何か困ったことはありませんか?」僕は言いながらふと売れないお笑い芸人について思った。今は芸人などよりも僕の方が懐具合は温かいんだから、と自分を励ました。僕もまだまだ捨てたものではない。住む家もちゃんとあることだし。それにこの母親ならば本気で力になってやってもいい。元旦那というトラブルを抱えている母親なのだから。
「時々、壁の向こうから音が聞こえるんです」母親は僕に言った。「このあたりではよくあることなんですか。隣近所の音ではありません。家の壁の中から擦るような音が聞こえることがあるんです」
「このあたりには鼠やら野良猫やら狸やらがいますからね。不思議ではないです」僕はしらを切った。「でも時々音がするだけで特に害はないんですよ、ほんとに。この間は歯医者に行って椅子に横たわっている時に壁から妙な音がしましてね。ああ、歯医者さんの建物でも鼠か何かがいるんだなと思いましたね。田舎ではよくあることです。気にすることないですよ」
僕はとぼけた。母親は壁からの音で不審に思っていたのだと僕は知った。僕は壁の中を移動するとき少しばかり油断し過ぎていたかもしれない。
「ジュースをありがとうございました」母親は話を切り上げたがっている。僕は「では、また」と言い残してその場を去った。その僕の背中に向けて母親は不思議そうに、「土の匂い」と言った。
僕は一瞬、ひやりとした。床下に暮らしているから僕の衣服からは土の匂いがするのだろう。自分では気づかなかった。




