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母親には暴力夫がいた

 母子の引っ越しが終わった。

 居間からテレビの音が聞こえた。僕は再び壁の中の人間に戻った。子供が僕に背を向けるようにしてテレビを見ている。母親が居間で段ボール箱を開けて生活道具を取り出していた。

 僕は初めて母親の姿を目で見た。背が高く、長い黒髪の女だった。髪が少し乱れていて生活感が出ている。母親は体の線が出るタイトなジーンズを()いていた。年齢は三十代の半ばくらい。頬骨が高い顔立ちをしていて、ずっと上機嫌に鼻歌を口ずさんでいる。

 母親は子供に声をかけて生活道具の整理を手伝うように言った。子供が振り返る。僕は一瞬、はっと息を呑んだ。子供はまるで天使がそのまま人間の子になったかのような美少女だった。まだ小学校に入りたてくらいだろうが笑顔も肌も幸せそうに光っている。笑顔の中の口元には乳歯が抜けた跡があって、子供らしさを感じさせた。

 母娘(ははこ)が車に乗って出かけてしまうや、僕は動き出した。壁の中を移動して家の柱に手を当てた。柱を伝って二階に上れるように、柱に金槌(かなづち)梯子はしご状に取っ手をとり付けた。これで二階にも自由に這い上がることができる。

 僕は二階の壁の中に移動して、壁にドライバーで小さな穴を開けた。これは思っていた以上の成果をもたらすことになった。

 家に帰るや、母親が二階で服を脱ぎ始めた。母親は部屋で全裸になるや上機嫌に鼻歌を口ずさんだ。この世には裸族(らぞく)という人種が一定数いるらしいが母親はその一人のようだった。母親は全裸で家財道具の整理をして、全裸で家の中を歩き、全裸で娘と会話をした。

 娘は母親が家の中で全裸のままでいても特に疑問を感じていないようだった。娘も母親が裸族である事実を受け入れているのだろう。カーテンを付けてから裸にならないと家の外から覗かれるぜ、と僕は心の中で注意した。だが母親は一日、全裸のままだった。

 僕は風呂ふろ屋に行くためにベランダの下の通用口から外に出た。家のシャワーは残念ながら使えない。家のボイラーは湯を出すと盛大な音を立てるし、浴室全体に水の滴も大量に残る。僕の存在が母娘に知られてしまう。だから家のシャワーは使えない。

 風呂屋から帰ると家の外に中年の男が立っていた。顔のエラが大きくて(ひげ)()り跡の青さから(あご)(ひげ)の濃さが(うかが)える。筋肉質の男で、痩せ型・中背の僕よりも一回り体格が大きい。見たことのない男だった。

 人目がある間は、僕は外から床下に入ることができない。僕はゆっくりと通り過ぎるふりをして男の様子を窺った。

 男は僕の家のドアベルを鳴らした。そして玄関に出て来た母親と何やら口論を始めた。僕は彼らの死角に入ってベランダの下に潜り込み、床下に素早く入った。そして玄関下の床下に移動して耳を澄ませた。

「……家には接近してはいけないっていう裁判所からの命令があるはずよ」母親の声が聞こえた。「私を殴って蹴るだけでは満足できなかった? ここまで付きまとわなければ満足できない? 私はあなたのその無神経さから、ねちこい性格から足のすね毛の濃さから何から何まで気に入らない。警察を呼ぶわよ」

「待ってくれ、ただ話がしたかっただけなんだ」男は(あわ)てて言った。「引っ越し祝いにクッキーの詰め合わせを持って来た。ルル(というのが娘の名前らしい)が、クッキーが大好きだろう? 俺は君たちを不快にさせるために来たんじゃないんだ。俺は君とやり直したくて……」

「もう十分、不快だわよ。あなたに殴る蹴るの暴力を受ける毎日がやっと終わって私とルルは新しい生活を始めたの。その生活の中にはあなたは入ってない。もうあなたの顔を見たくないの。警察を呼ぶから」

「待ってくれ。もう帰る。不快にさせたとしたら謝る。君たちの生活が安定するまでは姿を見せない。さよなら。ルルにパパが会いに来たと伝えておいてくれ。クッキーを受け取ってくれ、さあ」

「クッキーなんていらないし見たくもないわよ。もう帰って。二度と来ないで」

 母親は玄関の扉を閉じて鍵を掛けた。それでいい、と僕は床下で聞いていて思った。暴力を振るうような元夫を僕の家に入れてはならない。よりを戻すなどあり得ない。一番身近にいる隣びととして僕はそう思う。

 男は歩いて帰ったようだった。車のエンジン音が聞こえなかったから。この町の人間か、と僕は思った。僕はその元夫の男を憎んだ。僕の家のまわりをうろついて、元妻に手を出そうとするとは。あの男には注意しなければならない。



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