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家に誰かが引っ越して来た

 週に一度の弁財天へのお参りから帰ると家の庭先に立札が立てられていた。

『売り家・セール中!』とあった。僕は舌打ちした。不動産屋の奴ら、勝手に僕の家を売りに出しやがって。近所の人間たちに僕がこの家を追い出されたと知られるではないか。みっともない。それにしても一体どこのどいつが僕の家を買うのだろう。

 僕は立札を地面から抜いて人に見られないように伏せておいた。周囲の目を確認してからベランダの下に(もぐ)り込む。土台のコンクリート片を外して穴を開き、床下に入ってコンクリート片で(ふた)をする。スマートフォンのライトを()ける。あとは安心できる我が家の床下が待っている。

 僕は台所の床下の部屋から耳を澄ませた。家の中から知らない男の声が聞こえた。不動産屋の男のものらしい声だ。男は空き家になった僕の家に内見者を案内している。僕の家はリフォームも済んできちんと整っている。不満を持つ客などいまい、と僕は自信を持った。

 だがその客は僕の家を気に入らなかったようだった。他の家を見たいですね、などと言った声を僕は聞いた。

 無礼者めが、と僕は床下から怒鳴りつけたかった。僕の家のどこが気に入らないというのか。僕は家の購入を断ったその客に腹を立てた。正直なところ、僕はその客を憎みすらした。この僕が床下に生活空間を作ってまでも住みたいと願った理想の家を買う話を簡単に断りやがったな、と。

 こいつをぶん殴ってぶちのめしてやりたい、と僕は思った。どんな面をした奴だろうと様子を(うかが)ったが床下からは声だけしか聞こえなかった。そいつの顔を見られなかったことだけがつくづく心残りだった。

 僕は床下の部屋でスマートフォンのライトを点けて聖書を読んだ。僕の信仰する弁財天は日本神道の神様で、教義の書かれた本がない。だから僕は聖書で代用している。

 聖書はいいものだ。キリスト教は一神教の宗教だ。モーセの十戒に、聖書の神の他に神はないと書かれている。だが僕は日本の弁財天を(あつ)く信仰している。矛盾しているかに見えるだろうが弁財天を信仰する聖書読みも存在するのだ。

 ユダヤ人は旧約聖書の時代にカナンに侵攻した際、カナンの土着の異教に対抗するために一神教の教義をがっちり固めなければならなかった。聖書はそういうかつてのユダヤ人の事情が反映された本だと知らなければならない。

 言うまでもないことだが現代の日本人はカナンの地を侵攻しているわけではないし、一神教に()り固まる必要もないと思うのだ。それでもキリスト教はあくまで一神教だ、偶像崇拝は(ゆる)されないと言う人がいるならば、その人は聖書のレビ記にあるように子羊を殺して生け(にえ)の儀式をするがいい。旧約時代に行われていた安息日の規定を守るがいい。キリストが言ったように六百十三ある律法を全て順守するがいい。聖書の神をそこまで信じると言うならば、聖書の隅から隅まで守るがいい。

 だが現代日本ではそんな不毛なことは誰もしていない。僕もそんな不毛なことはしない。聖書を読んで根っこのところを押さえていればいいのだ。聖書を読んで、やはり隣びとへの愛だよな、と思う。僕は僕の家に誰かが引っ越して来たら、その人を隣びととして愛する気持ちがある。それが聖書だ。

 翌朝、大切な聖書に(かび)が生えていた。床下の(こも)った空気が良くなかったらしい。そういえば僕も胸の気管支のあたりが苦しい気がする。ずっと床下の空気と一緒に黴の菌を吸い込んでいたのだろうか。

 僕は床下の通気口の前に電池式の扇風せんぷうを置くことにした。床下の空気の入れ換えを強制的に行う。これで床下の環境は増々よくなった。空気を入れ換えることで黴の匂いはなくなったし、湿った空気の匂いなどどこにもなくなった。また神が僕をお護りくださった。僕がよく聖書を読み、正しい生活を敬虔(けいけん)に送っているからだ。

 十月の末、家の中に誰かが入って来る音を聞いた。僕は床下から耳を澄ませたがその誰かの声は不動産屋のように大きくはなかったからよくわからなかった。ただ女のものらしい声と子供の声を僕は聞き分けた。

 女が電話で話しているらしく、家に引っ越しの荷物が着いていないと苦情を言っている。怒っていませんから早く荷物を届けてください、明日ですか? どうして今日届けられないんですか? と女は言っている。

 僕は僕の家に引っ越して来たらしい女と子供に同情した。今夜は布団もなく、町の店で毛布でも買って来て二人で(くる)まって眠るのかもしれない。女と子供が家の中を歩き回る音と気配が床下まで伝わった。お隣に住んでいる者です、よろしく、と僕は床下で(ささや)いた。

 夜、女と子供が寝静まってから僕は床板のパネルを外して台所に出た。

 隣の居間に紙の皿が置かれていて、その上に蝋燭(ろうそく)が一本立っていた。僕の家には電球の一個も残っていない。女と子供は秋の岩手の気候に辛抱して蝋燭の明かりを頼りに夜を過ごしたのだろう。

 今夜、女と子供は二階の寝室で眠っているようだ。規則正しい生活をしている人々だ。いい隣びとになれそうな予感がする。

 僕はいつもの癖で無意識に居間の引き戸を開けた。夜の家の中に戸が開かれる音が鳴り響いた。「誰?」と二階から子供の声が聞こえた。女が(間違いなく母親だろう)が寝室のドアを開いて廊下に出てくる気配が伝わった。母親が不審に思って階段を下りてくる。

 母子はおそらく寒さのせいで眠ることができずにいたのだろう。僕が家の中を歩き回る気配がはっきりと伝わっていたようだ。

 まずい、と僕は思った。僕は台所の床のパネルを見た。床のパネルを開いて床下に隠れるような時間はない。



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