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家の床下に住む男の誕生

 僕は台所で発泡酒を飲み、酔い(つぶ)れた。

 僕は台所テーブルで朝、目覚めた。床に、床下に繋がる出入り口のパネルがあった。そこは、もとは床下に野菜などを収納できるスペースだったのだが、その収納ラックが野菜の重みで落ちてしまった。その落ちたプラスチックの収納ラックが取り去られ、床下の地面が直接見えるようになった。

 子供の頃にこの床下に秘密基地を作ってよく遊んだな、と僕は思い出した。僕はふと考えた。自己破産した事実は変わらない。家を売却しなければならない事実も変わらない。ならば全ての家財道具を売り払って最低限の生活道具と衣服だけを持って床下の秘密基地で生活できないか。

 僕は台所の床のパネルを開いた。床下には秘密基地の跡がまだ残されていた。

 僕は物置きからスコップを持って来て、台所の床下の地面を掘り始めた。大人になった今、もし床下で生活するとしたらそれなりの深さのある空間が必要になる。その空間を作るために僕は毎日、土を掘っては外に運び出す作業を続けた。

 働き始めてから一週間後、僕はついに床下に自分が生活できる部屋を作り出した。僕は床下全体をきれいに掃除して家中の床下を移動できるようにした。床下に虫一匹でも僕以外の生き物が存在することは許されない。床下はきれいに片付けられた。

 僕は家の壁の中から(ひそ)かにコンセントの電線を外して床下に電気を引いた。これでスマートフォンの充電もできるし、電気コンロで調理もできる。だが外に出るための出口が台所の床だけというのは心許なかった。

 僕は床下を移動して一階の寝室の押し入れのベニヤ板を外せるように細工した。これで床下からこの押し入れの奥を使って家の中に出入りすることができる。家の中に出たら玄関のドアなり、縁側の戸窓なりを開いて出入りすればいい。僕は不動産屋に家の鍵を二つ渡したが三つ目の合鍵を持っている。

 さらに僕は家の基礎部分のコンクリートをドリルで少しずつ削って、コンクリート片を取り外しできる穴を作った。男が一人、外部に通り抜けられるくらいの穴だ。穴は一階のベランダの下に隠されているので人目に付かない。

 コンクリートを地道に削る作業というのは根気が必要とされたが僕はやり通した。僕はつくづくアルカトラズ刑務所から脱獄を果たした囚人の気持ちがわかる気がした。思えば彼ら囚人たちも独房の床のコンクリートを削って外部への穴を作ったのだった。

 さらに僕は台所の床下に通じる出入り口のパネルに床下から鍵を掛けた。スライド型のシンプルな鍵を四つ取り付けて僕以外にその入り口を使用できる者がいないようにした。これでもう安全だ、と僕は思った。僕はこの家に――精確にはこの家の床下に――住み続けることができる。こうして僕は家の床下に隠れ住む奇怪な生き物となった。

 僕には妻も子供もいない。両親とも死別した。僕は家庭を持たない。三十七歳にして僕は家の床下で気ままな(というか、いくぶん不気味な)独り暮らしを続けることになった。


 裁判所からの退去命令の期限日が来た。

 その日は寺の住職を家に呼んだ。住職が読経しているのは家の仏間兼客間だ。住職が長々と経を読み、五千円のお布施(ふせ)を受け取って帰ると、僕は最後に仏壇を始末した。

 僕は自己破産したから古い仏壇は家財として処分しなければならなかった。仏壇には父親と母親の遺影が飾られていた。それも処分しなければならなかった。

 仏壇の上には神棚があって僕の信仰する弁財天が(まつ)られている。僕は弁財天の木彫りの像を意図的にそのまま残した。僕はこれから家を追い出されるが、台所の床下に新しい部屋を作ったのだから実質、この家に住み続ける。弁財天だけがその僕の秘密を知っていて、僕の新たな秘密の生活を守ってくれる。

 僕は家の中を見回した。家は家財道具の全てを失って空虚になった。だがこれで最後ではない、と僕は思った。僕は台所に歩き、床のパネルを開いて床下の空間に入った。そして床のパネルを閉じてスライド式の鍵を四つ締めた。スマートフォンのライトを点ける。新しい床下の部屋が照らされた。

 三畳ほどの広さの空間だ。子供の頃の秘密基地よりももっと本格的な部屋になっている。土の床にはカーペットが敷かれて、部屋の隅にしき布団ぶとんが畳まれている。二リットルのペットボトルが三本あって水道水が入れられている。差し当たっての食料となる袋ラーメンと鍋と電器コンロがある。炊飯器も無洗米もある。

 衣類は最低限しか残していない。最初のうちはコインランドリーを利用することになるが、新しい住人が家に来て洗濯機を置いたら(ひそ)かにそれを使わせてもらおうと思っている。トイレは家の水洗便所を拝借(はいしゃく)――といってもトイレも台所も何もかもが僕の家なので借りるわけではないのだが一応『拝借』――したり、それが無理な状況になったら近所の公園まで歩いて公衆トイレを使わせてもらうつもりだ。

 狭い空間に暮らす圧迫感というのはもちろんある。だが僕は岸田きしだしゅう氏という思想家がかつて別荘に作った母胎ぼたい部屋というのをイメージした。岸田氏は、人間の赤ん坊は母胎の中にいる時に腹を空かせることもなく迫害してくる他者の存在もなく、全能感の中に生きている、と説いた。そして岸田氏は別荘を作った時に、極度に狭い部屋を作ってそこにテレビを持ち込み、本も論文も(そば)に積み上げてベッドに横たわり、寝床の下にお茶の用意もして狭いが疑似的な母胎を再現して暮らした。

 僕は今、台所の床下に母胎暮らしをしている、と僕は仮定した。僕の母胎暮らしは十月十日で終わるわけではない。僕が死ぬまで、あと三十年は続けられるだろう。

 床下を()い進むと家の基礎部分であるコンクリートに穴があり――それはベランダの下の空間に隠されているのだが――出入り口となっている。だがまだ新しい住人が家に住んでいるわけではないから僕は台所の床パネルを開けて堂々と玄関を使って家から出る。

 差し当たってお金は三十万円ある。足りなくなったらアルバイトするとして、取り()えずは床下で質素な暮らしができればいい。スマートフォンでユーチューブ()けの毎日を過ごすのもいいだろう。何と言っても僕は『母胎暮らし』をしているのだから。



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