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そして床下暮らしは終わる

     *

 僕の家に若い男の警察官が来た。

 僕は家の玄関の天井裏に身を隠して警官と母親の話を聞いた。玄関の天井裏は僕が気に入らない人間を殺すための場として取って置いてある。

 僕はボウガンを手に構えたまま警察官の話を聞いた。僕の矢には矢羽根など付いていない。ただの純粋な(はがね)の棒針で、撃たれた人間の体に深く食い込む。外からは傷も見えない。

 警察官は母親の元夫が傷害事件で前科があることを確認した。それから警官は自分がその件で呼ばれたわけではないことに気づいた。

「ベランダの下ですか?」若い警察官は驚いて()頓狂(とんきょう)な声をあげた。

 母親は無言で(うなず)いた。母親の顔はひどく青ざめていた。

 もしやベランダの下の出入り口に気づかれたのか、と僕は胃が痛くなるのを感じた。下宿人の男子高校生が破った、チャンネルお兄さんからの手紙を丹念にセロファンテープで修復したほどに神経質な母親だ。ルルの話から、自分でベランダの下をチェックしたことも十分に考えられる。

 どうするか、と僕は考えた。僕は息を(ひそ)めて天井裏の屋根板を少しずらした。家に来た警官は一人だけだ。僕の存在が見つかるはずはない、と僕は自分に言い聞かせた。男が一人、家の床下と壁の裏に生きているなど警察にわかるはずがない。この事件の中で僕だけが唯一、安全な場所にいる。

 僕はそのことで冷酷な安堵に(ひた)ろうとした。やはりこの家は、この家の隠れた主人である僕を(まも)ってくれているのだと。

 母親が、家の壁からいつも音が聞こえるんですと警察官に話した。母親は、チャンネルお兄さんという謎の人物からの手紙が娘の部屋に置かれていたことも話した。

「わかりました、天井裏から床下から壁の裏まで全部調べてみましょう」と警察官は言った。

 僕の頭にかっと血が上った。僕は正義のために悪人の男子高校生を()らしたんだぞ。チャンネルお兄さんの手紙は隣びとの愛によるものだった。その愛ある手紙を犯罪の証拠のように警察に提出するとは……! 僕が信仰する弁財天は女性の神様だ。僕が女の子を護ったことを喜んでおられるはずだ。

「床下に出られるような場所はありますか?」警官は母親に聞いた。「すぐに調べましょう」

 それが僕の我慢の限界だった。僕は天井裏からボウガンで警官を狙い、矢を放った。矢は警官の帽子を貫いて頭の中心に深々と突き刺さった。警官は何が起こったのかも理解できずに玄関に倒れた。母親の悲鳴が響いた。僕は素早く天井の天板を閉じた。

 すぐに他の警官が家に呼ばれた。これで天井裏と壁と床下を調べる、という警官の話はお流れになったかに思われた。彼らは警官が心臓発作でも起こして倒れたと思っている。僕のボウガンの矢は体に完全にめり込んで外からは見えないのだ。僕は隠れて冷笑した。


 翌日、母親はスマートフォンと連動する監視カメラを部屋に置いた。母親はカメラを一つ一つの部屋に置いていく。僕は壁の中からそれを見ながら胃が()け付くように痛むのを感じた。これで僕は完全に家の中に入れなくなった。ここは僕の家なのだ。それなのに自分の家の中に入れなくなるとは。母親は僕の隣びととしての愛をどう思っているのか。

 それから後のことはどうして起こったのか僕には理解できなかった。母親の別れた暴力夫が家に来たのだ。そいつが何のために僕の家にやって来たのか僕は知らない。

 ただそれは現実として僕の家で起こった。元夫は僕の家に来て、

「刑務所に入れられる前に何もかも、全部ぶち壊してやる!」

 と怒鳴った。元夫は母親を殴り、蹴り、そしてナイフを取り出した。元夫は私生活で何かまたトラブルを起こしたのだろう。おそらく奴がたび々起こして来た暴力事件を他のところでも起こしたのだろう、と僕は思った。元夫は追い込まれている。

 僕は壁の裏でスマートフォンを操作して――これは正直、気が進まなかったのだが――警察を呼んだ。

 元夫が荒く息を吐きながら母親の腹をナイフで刺そうとする。母親は必死で抵抗したが部屋の隅に追い込まれた。母親の顔が青ざめている。警察は間に合いそうにない。

 その時、僕はとっさに家の内壁を破壊した。内壁は石膏(せっこう)ボードに壁紙が貼られただけのシンプルなものだった。僕が部屋の中に一歩を踏み出すや、大穴を開けて崩れた石膏ボードが頭と肩と背中に落ちた。

 僕は絶叫して家の中に飛び出した。そして驚く元夫からナイフを奪って元夫の腹を刺した。元夫は床に倒れて痛みに体を丸めた。

 母親は何が起こったのか信じられずに僕を見ている。母親は元夫を見るよりも不気味な『怪物』を見る目で僕を見ている。

「待ってくれ、愛してるんだ」僕は慌てて言った。「本当に愛してるんだ。君もルルのこともだ。聖書に誓ってもいい」

「こっちに来ないで! 近寄らないで!」母親が叫んだ。

 外で警察のパトカーのサイレンが鳴った。パトカーが家の前に着いた。僕は我知らずに叫んでいた。

「ここは僕の家だ! ここは僕の家なんだ! この家の主人は僕だ!」

 僕は泣きじゃくった。

 僕はこの家を離れられない。この家の愛する母娘からも離れられない。大粒の涙が流れて止まらない。

 母親が表情を固くして僕を見つめている。

 僕は、これからはもう『僕』という人称(にんしょう)を使うまいと思った。下僕(げぼく)という言葉をつい連想して僕の支配者意識に抵触(ていしょく)する。

 僕はこの家の主人なのだ。主人は気に入らない下僕を家から追放することができる。逆に迎え入れることもできる。イエス・キリストが群れから(はぐ)れた一匹の羊が戻ったことを喜ぶように。追放するも、()らすも、迎え入れるも僕の支配の下にある。すると僕はキリスト同然ではないのか。

 だがその支配者の日々は終わった。もう何を言ったとしても言い逃れはできない。僕は壁から現れた怪物なのだ。それでも僕は何か言い(つくろ)うことができないかと言葉を探す。

「僕はこの家を離れないぞ! 必ず帰ってくるからな!」

 僕はただ繰り返した。そして両目から涙をあふれさせて嗚咽(おえつ)した。僕はかつて離婚した時のように口下手な男に成り下がってしまったのか。

「早く助けに来て!」母親が警察官たちに絶叫した。

 警官たちが家に踏み込んだ。その間も僕は壁から突然に現れた異様な怪物として彼女の前に立ちはだかっていた――。

                            ≪了≫



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