母親が気づき始めた
翌々日、ルルは膝に絆創膏を貼って寝室から居間に現れた。
隣の台所では男子高校生が表面を軽く焦がして焼いたトーストを食べている。その目がルルの全身を舐めるように見つめるのを僕は壁の中から冷ややかな目で見ていた。
ルルは小学校で遊んでいて転んで膝を擦りむいたのかもしれない。膝に二枚、絆創膏を貼っていた。
僕は密かに心を痛めた。ルルのように肌のきれいな子供だって膝を擦りむくことはあるだろう。だがもしそれが傷痕として残ったらルルは将来、スカートを履く度にその傷を晒すことになる。女の子はそのような形で自分の体の傷を晒すべきではない、と僕は思った。体の傷と、肥満後にダイエットして体の肌が弛むような痕跡は女の子には相応しくない。
男は、そのような傷や体の皮膚の弛みのある女性だって愛することはできる。性行為の度に男は女性の傷や弛んだ皮膚に口づけして女性の心の傷を癒すだろう。男はそれだけ女性に関して心を痛めるということだ。女性は体に傷や醜い痕跡を残したまま生きるべきではない。特にルルのように天使めいた子供ならば尚更だ。
だが男子高校生はルルの膝の絆創膏を見て不気味な笑みを浮かべた。それはルルが膝を擦りむくほどの子供だと確認しての不気味な笑みだった。この男子高校生はルルが水色のランドセルを背負うところもよく見ている。ルルの乳歯が抜けた後の口元もよく見ている。とにかく男子高校生にとってルルは性的な興奮を煽られる肉の塊としてしか存在していないのだ。
僕はそんな男子高校生にルルの近くに寄って来てほしくなかったし、同じ家に同居してほしくもなかった。彼女たちと同居が許されるのは僕のように聖書を嗜んで道徳を身に付けた男に限られる。そして男子高校生はその男の範疇には入らない。
僕は再び『チャンネルお兄さんからの手紙』をルルに書いた。ルルが男子高校生とかくれんぼした時に、押し入れの中で奴に抱き着かれたことと体の匂いをしつこく嗅がれたことを母親に言いつけなさい、ということを僕は優しい言葉で切々と説いた。奴はろりこんのマンガをおしいれにかくしていますと。でもこの手紙をチャンネルお兄さんが書いたことだけはお母さんには秘密にしてねと。そして手紙をルルのベッドの上にちょんと乗せておいた。
その日の夕方、男子高校生がいち早く家に帰って来た。奴にとってはルルの待つ家に帰ることが何よりも汚れた喜びであるに違いない。
奴はルルの寝室に勝手に入って、ベッドの上に置かれたチャンネルお兄さんからの手紙を読んだ。そしてその場で手紙を細かく破り捨ててゴミ箱に捨てた。へっ、と男子高校生は鼻で笑った。
それを壁の中から見ながら僕は自分の中から憎しみが湧き上がるのを抑えることができなかった。……神からの抹殺命令だ。イエス・キリストの聖名に於いて殺してやる、と僕は高校生を睨んだ。男子高校生よ、キリストとともに十字架に架された二人の犯罪者の名誉を与えてやる。地獄に行くか、イエスとともにパラダイスに行くか自分で決めるがいい。後は男子高校生をどんな風に殺してやろうか、と僕はそればかりを考えていた。
その日の夜、床下の部屋で微睡んでいた時、家の台所から母親の大声が聞こえて僕は目覚めた。僕は床下を移動して台所の壁に入り込み、家の中の様子を見た。母親が『チャンネルお兄さんからの手紙』をセロファンテープで繋ぎ合わせて男子高校生に詰め寄っていた。本当なの! どうなの! と。
男子高校生は狼狽えていた。大人相手には小物らしくすぐに動揺するのが小児性愛者なのだ。
「一週間以内にこの家から出ていって! それまでルルには近寄らないで! これは警察を呼んでもいい話なのよ!」母親はヒステリックに叫んだ。「だから男を下宿させたくなかったのよ! 本当は女の下宿人を探してたの!」
僕はこのやり取りを壁の中から見ながら、胸が空く思いがしていた。殺すまでもなかった。あの男子高校生は僕の家から追い出された。二度とルルに近づくこともない。事態は一気に解決されたのだ。
僕は台所の床下の部屋に戻って安堵の息を吐いた。
*
その日、母親は(ここからは『彼女』と呼ばせていただく)ベランダで洗濯物を干していた。そこで彼女は、ベランダの床下から化け物が出て来て走り去るのを見た、と言ったルルの話をふと思い出した。
彼女は玄関でサンダルを履いて庭に出た。そして身を屈めてベランダの下を覗き込んだ。ベランダの奥、家の基礎部分のコンクリートに奇妙なヒビのようなものが走っている。地震でヒビが入ったのだろうか、と彼女は思った。家の強度は大丈夫なのだろうか。だがそれだけの話か、とも彼女は思った。
彼女は「ベランダ下から化け物が走り出た」というルルの話を再び思い出した。後で笑い話にでもすればいい、と思って彼女は庭の地面に体を伏せた。そしてベランダの下に体を這い進ませた。体全部がベランダの下に入り込み、彼女は家の床下の換気口のあたりにたどり着いた。大きくヒビが走っている。彼女は換気口の格子を手で掴んだ。そして力を入れて引っ張ってみた。
家の基礎部分のコンクリートが大きくずれて外れた。後には男一人が通り抜けられるくらいの穴が残された。
彼女はスマートフォンの明かりを点けた。家の床下に何者かが体を這いずらせたような痕跡が残っていた。
彼女は突然、強い吐き気を感じてその場で体を固まらせた。彼女は自分が目の当たりにしている事態に呼吸が荒くなるのを感じた。自分は途轍もなく巨大な暴力を目の当たりにしている、と彼女は感じた。自分はそんな巨大な暴力を傍らに置いたまま、その存在に気づくことなくずっとこの家に暮らしてきたのだと。
彼女は基礎部分のコンクリートをもとに戻して穴を塞いだ。それからベランダの下から体を引きずって再び庭に出た。
彼女は迷い、それからすぐに警察に電話をかけた。自分が目の当たりにしている暴力は不動産屋にトラブルとして報告するだけで済む話ではないと思った。これは警察と法の介在が必要とされる事件に違いない、と彼女は確信した。
警察のパトカーが到着するまでの二十分の間、彼女は命の危険すら感じていた。娘のルルの身も危ないとも思った。自分たち母娘はそれほど危険な暴力の渦の中心に置かれているのだ、と彼女は知った。そして警察の到着を待った。




