僕は絶対に家を離れない
ついに家を手離さなければならなくなった。
借金が重なって自己破産した結果だ。
僕は令和七年のカレンダーを見て呆然とした。三十七歳にもなって家を追い出されるなど、僕は考えたこともなかった。それも借金が重なって自己破産するなど想像したこともなかった。
僕は三十五年前に建てられた家の居間にいる。古いフローリングの八畳間だ。だが自分が我が家にいるという安心感は今の僕にはなかった。壁紙に少し傷みが現れているのを僕はぼんやりと見つめた。
僕は自己破産したのだ。
僕は子供の頃からこの岩手県沿岸の一軒家で暮らしてきた。父親が若くして他界した後、母親は看護師として働いて僕を育ててくれた。僕は地元の中学にも高校にもこの家から歩いて通った。初恋はこの家の電話(当時は固定電話だった)を通して淡く終わった。相手は高校の同級生の女の子で振られたのはこの家の電話で、だった(「あたし、『付き合う』っていう言葉キライなの」と言われた)。
僕の出た大学は地元の短大で、この家から列車通学した。僕が初めて女性と結ばれたのもこの家の自室で、だった。相手は短大の同級生の女の子だった。二十歳で就職して会社に通ったのもこの家からだった。初めて女性にプロポーズしたのもこの家で、結婚生活を始めたのもこの家で、だった。
その後、死んだ母親が遺してくれた数百万円をかけてこの家のリフォームもした。離婚して僕の結婚生活が終わったのもこの家で、だった。両親の墓もこの家から歩いて三十分ほどの寺にあっていつでも墓参りできる。
この家は山の上に開かれた丘にあって東日本大震災での津波の被害から免れることができた。僕が震災後の復興する町を見守ってきたのもこの家からだった。岩手沿岸で丘の上に家があるというのは津波が届かない場所に住居があるということで安堵できた。家は僕にあまりに多くの祝福を与えてくれた。
その家を手離さなければならないとは……。僕はショックで口がきけなかった。
この家の建つ丘を下りると港に出る。
港までは歩いて二十分。散歩には程よい距離だ。
かつて岩手沿岸の家々は、山と海の間の狭い平野に隙間なくびっしりと建ち並んでいた。その家々は震災の津波で多くが流されて、多くの住宅は山や丘の上に移転して建てられることになった。だから住宅地から港に出るには丘の坂道を下ることになる。
海はすぐ傍にある。防波堤を越えて港に出ると潮の香りがして、海鳥の鳴き声が聞こえる。ウミネコは文字通り猫のような声で鳴き、空の青と港のコンクリートを背景に汚れのない白い翼を羽ばたかせる。ウミネコは漁師たちが捨てる雑魚を拾って食べる。
東日本大震災の津波が起こる前と何も変わらない。町は土砂によって嵩上げされて新しい町になって様変わりした。だが漁師町の牡蠣とホタテの養殖の仕事も変わりないし、海辺で魚を探して飛ぶウミネコたちの姿も変わりない。
港の護岸されたコンクリートに腰かけて海の様子を見る。僕は初めて職を失った時にもこの港に腰かけて海を眺めたし、二度目に職を失った時にもやはりこの港のコンクリートの岸に腰かけて海を見た。釣り人たちの姿を目の端に捉えながら僕はずっと海の凪ぎやシケや、それらの移ろいを見ていた。
僕は子供の頃からこの町の海を見て育ったし、それはこれからも変わりない。僕は三十七歳だ。これからまだ三十年はある人生をこの岩手沿岸の港町で生きていくのだ。
確かに僕の人生には問題がある。僕は仕事を失って再就職できず、持ち家を失うところまで行った。だが一番の大切なことは僕がこの町に生まれて、この町で生きて、そしてこの町で死ぬということなのだ。
僕が産まれた産婦人科医院はこの町の駅の真裏にあった。そして僕が死んで入ることになる墓もこの町にある。ならば僕が生きる町は『ここ』なのだ。それが一番先に考えるべきことで、仕事と家を失ったことはその後で気にすべきことだ。少なくとも僕はそう考える。生まれた町の大地に両足が着いて立っていられる限り、僕は食べていくことにもお金を稼いでいくことにも困りはしないはずだ。
お金をくれるのは大地だ、と僕は思う。我々は大地に堅く立つ時、無意識的に堅い経済活動の大地に立ってお金を稼ぐことができる。家がある限り、僕はその大地の一角に確かに自分のための地所を保持することができ、家があるかぎり、住む場所にも着る衣服にも食べるものにも健康にも困ることはない。僕はそう思って生きてきた。
半年前、僕はこの家からの退去を命じる家裁からの書類を受け取り、思った。こんなたった数枚の裁判所からの紙切れでこの家を手離してなるものかと。僕はこの家から離れない。何者も僕をこの家から引き離すことはできない。僕は絶対にこの家を離れることはない。絶対に、絶対に、絶対に。




