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血塗れ聖女を拾ったのは

作者: 桜 みゆき

 全てに、霞がかかっていた。

 聖女だと祭り上げられて、その裏で神官たちに「教育」されていた時も。

 使えるようになったか確かめるため、初めて人間に「神罰」を与えた時も。

 人の形が見えないほどの高みから、戦場を真っ赤に染めた時も。

 敵軍の前に一人立たされ、彼らの返り血を頭から浴びた時も。

 そして――。用済みだと詰られ、かつて「敵」だと教えられた隣国を治める王の前に、和平の証として突き飛ばされた今も。

 ぼんやりと顔を上げれば、そこには無表情でこちらを見下ろす男がいた。

 ああ、わたくしは彼に殺されるのね。

 他人事のように、そう思う。

 いや、実際「他人事」だったのだ。

 己の生き死に。どこで何をするのか。その全てにおいて、決める権利を自分は持っていなかったから。

 きっと男はすぐにでも剣を抜いて、この首を落とすだろう。

 彼女はただ、その時を待つ。

 死ぬことは怖くなかった。いや――、怖いという感情すらあまりに遠くて、一匙ほどの感慨すらもない。

 ただ、これからは何もしなくて良くなるのかと、ほんの少しだけ喜びの気持ちが湧いた。だがそれも、彼女自身がその感情を「喜び」だと認識する前に消えてしまうくらい、淡いものだった。

 しかし、彼はいつまで経っても剣を持とうとしない。

 そうか。ここで手を下すのではなく母国へと連れ帰り、民衆の眼前で処刑をするのかもしれない。

 なんだ、まだ殺してくれないの。

 そんな落胆がよぎった時、何故か男は目の前に膝をついた。

「これが『和平の証』? 貴殿も粋なことをする」

 顎を掴まれて、なされるがまま顔を上げる。

 背後でへどもどと媚を売るこの国の王を、男は鼻で嗤った。

「まあ、いいだろう。その心意気に免じて、先程の条件を二割引き下げてやる」

 そして、男は彼女を妙に優しい手付きで抱え上げると、一枚の書状にペンを走らせる。

 和平が締結した、らしい。

「今後は良い付き合いをしていけることを願っている。なにせ、()()()の故国だからな」

 男は女の手を取って、その甲に唇で触れた。

「…………はい?」

 呆然と呟いたのは、彼女自身ではなかったが、抱え上げられたままの元聖女にも、珍しく驚きの表情が浮かんでいた。



     *



 聖女アルミラは、聖教国リミエール辺境の貧しい家に生まれた。

 輝くような白銀の髪に同じ色の瞳をした、貧民の子とは思えぬほど美しい赤子で、彼女は生後すぐに教会へ「保護」されると、程なくして聖女に認定された。

 保護、などと聞こえのよい言葉を使っていたが、物心ついたアルミラは既に、両親なる男女が金と引き換えに自分を売り払ったことを理解していた。

 生後間もない頃に引き離された故か、アルミラは顔も知らぬ親を寂しがることもなく、大人ばかりの世界に順応していった。

 せざるを得なかった、と言う方が正しいかもしれないが。

 アルミラの幼少期は、痛みと空腹が常に傍にあった。

 聖女としての「教育」は、幼い少女に年齢不相応の気品と、自身の持つ力に関しての知識を与えたが、感情は奪われ、心も鈍麻させられた。

 聖教国リミエールは、「神に与えられし力を使って人々を救う」という初代聖女の打ち立てた理念の元に建国されている。だが時代が下りその理念は形骸化して、今となっては世界の覇権を握らんとする教皇の操り人形――、それが「聖女」であった。

 もちろん、アルミラもそんな一人だ。

 聖女は元来、人を癒し導く存在だった。しかし、一度(ひとたび)攻撃へ転じれば、その威力は凄まじい。

 特にアルミラは、その「神罰」と呼ばれる、天から(いかずち)を降らせる力が歴代聖女の中でも取り分け強かった。結果として齢十歳を迎える頃には、戦場に立つこととなったが、それも当然の流れだろう。

 聖戦の名の下に、リミエールは領土を拡大していった。

 はじめは力が安定しなかったアルミラだが、日に日にその精度は増していき、周辺諸国にとって多大な脅威となったのはすぐのことだ。

 しかしアルミラが十五になった頃、とある国との戦争で大怪我を負うことになる。

 大国サーヴェリアンとの戦だった。

 当時の王太子が自ら先陣を切り、聖女を討ち取ろうとしたのだ。

 幸い――と言ってよいのか、深手を負いはしたものの、アルミラは生き残った。

 とはいえリミエールにとっての痛手であることには変わらず、傷が癒えるまでは、大規模な戦闘が行われることもなく日々は過ぎた。

 サーヴェリアンはその間に力をつけ、聖女の脅威に対抗しうる国家へと成長し――、そしてその四年後。

 まさに今、ついにリミエールを降して、和平協定を結ぶに至ったのだった。


 アルミラは自身を抱え上げる男の顔を、ぼんやりと視界に映す。

 こんなにも間近で彼を見るのは二度目だ。

「……あなた、国王になったのね」

 彼は、四年前アルミラに深手を負わせた、サーヴェリアンの王太子だった。いつの間にか、国王になっていたようだが。

 思いついたことを呟くと、彼は目を丸くして笑う。

「第一声がそれなのだな。おかしな女だ」

「…………そう?」

 おかしさで言うのなら、敵国の仇を抱えて歩くこの男の方が余程だろう。

 これから自分をどうするのかは知らないが、「我が妃」という先程の言葉が、冗談であるか、相手の意表を突くための軽口か、という程度は想像がつく。

 まあ、何が起ころうと、どうでもよいことだ。

 アルミラにとっては、自身の所有者が変わっただけ。もしかすると、すぐにでも飽きて殺してくれるかもしれない。

「それよりもお前、軽すぎるぞ。ちゃんと食ってるのか?」

「出されたものを残したことはないわ」

 それこそ、腐っていようが、泥や虫が入っていようが。

 そこまで言うのは億劫で最低限だけ返答するが、彼は訝しげな顔のままだ。

「本当か? ……まあいい、これから分かることだ」

 アルミラを抱え直した男は、そのまま無言で歩く。和平協定の会談はリミエールの教皇庁で行われており、彼にとっては慣れない場所のはずだが、その足取りに迷いはない。

 そして、ある部屋に辿り着いた彼は、アルミラを抱えたまま扉を開けて、中に入る。

 どうやら、彼が滞在している客室のようだ。

「陛下! お早いお戻りで……」

 側近の一人らしき青年が、こちらを見て瞠目する。アルミラと目が合って、更に蒼白になった。

「どうして、聖女を抱えているんですか!!」

「もらった」

「もらった!?」

「ああ、俺の妃にする」

「は……?」

 その発言には、さすがのアルミラも青年と同じ気持ちだった。

「冗談ではなかったの?」

「俺はそんなくだらない冗談は言わん。冗談だと思っていたのなら、何故黙ってついてきた?」

「……『なぜ』って? そう決まったから」

 男はまた訝しげな顔をして、何かを言おうとしたが、それより早く青年が叫んだ。

「返品してきて下さい!」

「断る」

「聖教国の聖女を『妃』になんか、できるはずないでしょう!?」

「それを何とかするのが、お前たちの仕事だろう。――さあ、そろそろ部屋から出てけ。二人にしろ」

「はあ!? 聖女なんかと二人にできるはず――」

「命令だ」

 冷たく言い放たれた青年は、グッと言葉を詰まらせて、しぶしぶ頷いた。

「何かあったら、すぐにお呼び下さいよ」

 青年はギリッとアルミラを睨みつけると、退室していった。

「やれやれ。本当にあいつは小言が多いな……」

 彼はぶつぶつと文句をこぼしながら、室内の出入り口とは別の扉を開けた。

 その先には大きなベッドがあって、なるほどと妙に納得してしまう。

 聖女は純潔を失うと力が衰え、次代に引き継がれてゆくとされている。そのため、()()()()()()()()()ことこそ無かったが、「奉仕」は命じられていたものだ。また自身の容姿は、劣情を誘うらしいというのも、なんとなく理解している。

 アルミラは、じぃっと男を見た。

「もしかして、知らない?」

「何がだ?」

「それとも、私から聖女の力を奪えるなら丁度良いということ?」

「……は?」

「『妃』だなんて言わなければよかったのに。『愛妾』、もしくは『性奴隷』だと正直に言えば、彼も怒らなかったのではない?」

「お前……」

 彼は絶句したように言葉を切ると、何故か溜息をつく。

「いかがわしい勘違いをするな。お前を抱くのは、もっと太らせて健康的にしてからだ」

「ふぅん……」

 変わった趣味だな、と思ったが口には出さなかった。なんとなく、一層呆れられる気がしたからだ。

「それより。お前、怪我をしているだろう。歩き方が変だった」

「怪我……?」

 男はベッドの縁にアルミラを座らせると、棚から箱を出す。

「ほら、我慢せず見せろ。どこだ」

「怪我なんてしてないけれど……」

 思い当たることがなく、正直に言ったのだが男は眉間に皺を寄せた。

「嘘をつくな。隠すなら服を脱がせるぞ」

「……脱げばいいの?」

 それで彼が満足するなら――、とアルミラは立ち上がって服を床に落とす。

 局部を隠した下着にも手をかけようとして、彼は慌てたようにそれを制止した。

「――いい、十分だ。一度服を着てくれ」

「……そう?」

 彼は頭を押さえて、暫し何かを考え込んでいるようだった。

 アルミラはそんな男の様子を、ただ不思議に思う。

 無数に浮かぶ変色した痣が、そんなに珍しかったのかしら、と。




 和平協定の日からすぐ、アルミラはサーヴェリアンへと移動した。

 自身を妃だと宣ったあの男――名前をファサードというらしい彼は、あの日以降アルミラを片時も離すことなく、甲斐甲斐しく世話を焼いていた。

 もっとも、そんな彼の行いが「甲斐甲斐しい世話」と称されるようなものであることをアルミラが理解したのは、暫く経ってからだったが。

 馬車から一歩も出ることなくサーヴェリアンの王都に到着し、王宮に着いた後もファサードに抱えられて彼の私室に連れて行かれた。

 一応、「王妃候補」という肩書が付いているそうだが、アルミラが顔を合わせるのはファサードを除けば、医者と故国でも会った側近、それから一人の侍女だけだった。

「……ねえ、あなた?」

 窓辺の花を換えていた侍女が振り返って微笑む。

「どうされました、聖女様?」

「もしかして、陛下はお暇なの?」

 そんなことを問うと、彼女はぱちりと目を瞬かせた。

「まあ……。どうしてそのようなことをお思いに?」

「だって……。あの人、殆どの時間ここにいるわ」

 今は珍しく――本当に珍しく不在だが、彼は四六時中この部屋にいるのだ。書類を読んでいることもあるため、仕事はしているようだが……。

 侍女はふふと笑って答える。

「それほど愛されていらっしゃるのですわ。片時も離れたくないほど」

「……そうなのかしら」

 アルミラが首を傾げていると、彼女はまた笑ってから扉の方を見た。

「もうじき戻られますわ。陛下本人にお聞きになってはいかがでしょう?」

「……そうね」

 そんな話をしていると、俄に廊下が騒がしくなって、ファサードが入ってくる。その傍らには側近の青年もいた。

「――ですから! そもそも聖――アルミラ様のことで、貴族の心象が良くないんですから、もっと発言に気を付けて下さらないと!」

「分かっている。だから、はっきり言ってやっただろう」

「そういう気を付け方じゃない、って言ってんですよ!!」

 側近はいつもファサードに怒っているような気がする。だが、誰もそれを気にしてはおらず、彼らの仲が良い証拠なのだと侍女が教えてくれた。

「お二人共、口論はほどほどにしてください。聖女様が驚いていらっしゃいますよ」

「……いえ、私は」

 別にどうでもいいのだけれど。

 しかし、それを言葉にするより早く、彼らはぴたりと口を閉じた。

「たしかに、アルミラ様の前でする話ではなかったですね。申し訳ありません」

「いえ……? お気になさらず、側近の方」

「…………ルネです。いい加減覚えてください」

 彼はいつもこう言うが、意味があるのかしらとアルミラは首を傾げる。

 何度交わされたか分からないやり取りに、ファサードが苦笑しながら隣に座った。

「まあ、追々覚えるだろう。アルミラ、寂しくはなかったか?」

「? はい。特には」

「……そうか」

 この問いも傍を離れた後は必ず訊ねられるものだ。返答も変わらないのだが、それを聞く度にファサードはどこか困った顔をする。

 アルミラにはそれが何故なのか、よく分からなかった。

「レネット、アルミラに変わりはなかったな?」

「はい。勿論でございます、陛下」

 侍女とも変わりないやり取りをして、ファサードはアルミラの髪を手で梳いた。

「ルネ、今日はもうくだらない会議はないな? 以後の仕事はここでする。用意を」

 側近は大きな溜息をついて、アルミラに視線を向けて微かに顔をしかめた。

「まったく。くだらなくないってんですよ。……はいはい、承知しました。すぐお持ちします」

 ぼやきながら側近が部屋を出るのに続いて、侍女も退室する。二人きりになると、ファサードはアルミラの頬にキスをして、指にも口付けを落とした。

 この行為に一体何の意味があるのか。

 いつも不思議でならない。

「……お前は本当に美しいな」

 ファサードの言葉に、彼を見上げる。

「だがその心が動けば、きっと……もっと美しくなる」

 彼が何を求めているのか、よく分からない。

 けれど、もし何か願いがあるのなら、叶えてあげたい――かもしれない。

 アルミラはファサードにやわらかく抱きしめられて、そっと目を閉じながら、そんなことを思った。




 サーヴェリアンでの穏やかな日々が続く。

 ファサードが傍にいることにも慣れ、アルミラはほんの少しだけ、部屋の外に興味を持ちはじめていた。

 けれど、自分はこの国の人々にとって、敵国の――それも沢山の兵士を殺した人間だから、きっと良くは思われていないことも理解している。

 側近の彼が度々アルミラを睨むのも、きっとそのせいだ。

 だがそれらは過去に自身が既に行ったこと。

 もうどうしようもない。

 頭を上げると目の前には、一面に死体の転がる大地が広がっていた。

 この光景をアルミラは過去に見たことがある。

 命令に従って「神罰」を与えた時のものだ。

 周囲に生き物の気配はない。その場で息をしているのは、自分だけ――。

 そう気付くと、ゾワリと悪寒が走った。

「あ……」

 自身の身体を見下ろす。薄い布地の真っ白なワンピースは、サーヴェリアンに来て以降いつもアルミラが眠る時に纏っている夜着だ。

 それが、真っ赤に染まっている。

「っ」

 息を飲む。

 その赤を払おうとした手も、血で汚れていた。

「あっ……」

 ぞわぞわと心に忍び寄る感情に、一歩後ずさる。

 一刻も早くここから逃げなければ。

 そんな衝動に駆られて、踵を返そうとした。

 しかし、その足首を取られて転んでしまう。

「っ――」

 振り向いたそこには、顔も判別がつかないほど腐り落ちた人らしきものが、無数にこちらへ手を伸ばしていた。

 まるで、アルミラを地獄に引きずり込もうとしているかのように――。

「ひっ……」

 喉を引き攣らせながらも、どうにか立ち上がって駆け出した。

 ――どこにいるの?

 アルミラは、ただ足を動かす。

 ――一体、()()()はどこに……。

 その時、手首を掴まれたような気がした。

 また、先程の人型の何かかと思って、振り払おうとする。しかし、その手首を捕らえる手は力強くて離れない。

「っ、離して……」

「――……ラ」

「やあ……っ!」

「アルミラッ!」

 聞こえた声にハッとして、アルミラは()()()()()()

「っ、あ……、へいか…………」

 そこは、いつもの寝台の上だった。

「随分、魘されていたな」

「……うなされて?」

 隣からこちらを覗き込むファサードを、不思議な気持ちで見上げる。

 あれは夢だったのかと、確認するように辺りを見渡すが、まだ真夜中らしくあまりよく見えない。

 だが、手首を掴んでいたのが傍にいる彼だと気付いて、途端に身体の力が抜けた。

「どうした、怖い夢だったか?」

「……怖い、ゆめ」

 その言葉が、心にすとんと落ちてくる。

 アルミラはゆっくり顔を上げて、またファサードを見た。そして、彼の服をきゅっと掴む。

「…………うん。こわい、ゆめ……だった」

「そうか。ならば、ほら。もっとこっちへ来い」

 彼が広げる腕の中へ、飛び込むようにアルミラは縋り付いた。

 そうだ。「怖い」夢だった。

 あれは確かに、「怖い」という気持ちだった。

 長い間、もやもやと形を成していなかった感情が、カチリと定まる。

 ファサードの服を掴む手に、アルミラはぎゅっと力を込めた。

 気付いてしまった怖さ。今感じている安心感。

 それらが、鮮やかに――鮮明になってゆく。

 アルミラは唇を噛んだ。

 これまでの自分を保っていたものが、足元から崩れ落ちていく。そんな予感に、微かな怯えを感じながら。




「……アルミラ」

 そっと呼びかけた声に返答はない。

 ファサードは、自身の腕の中で再び眠りについた彼女の頭を撫でる。

 銀糸の髪がさらさらと零れ落ちる様を横目に肘をついて、あどけない寝顔をじっと見つめた。

 アルミラに「感情」が戻りつつある。

 先程の表情で、ファサードはそれを確信していた。

 一体、故国リミエールでどんな扱いをされていたのか。彼女は、痛みにも自分の心にも酷く鈍感だった。

 初日に見た、痣だらけの肌がようやく癒え、骨と皮だけかのように痩せ細っていた身体にも、多少肉がついた。

 きっと、いずれ心も取り戻していくだろう。そう、ファサードも予想はしていた。

 実際にその日が間近に迫ったことを感じて――、つい眉をひそめる。

 アルミラが心身ともに癒されていくのは嬉しい。だが心が戻ったその時、彼女の背負う傷の重さは彼女自身を酷く苛むだろう。

 しかしそれは、ファサードがどうにかしてやれる問題ではない。

 傍にいて、手を握り、親愛のキスをして、抱きしめてやることは出来ても、それだけだ。

「アルミラ」

 そっと名前を呼んで、額に口付けを落とす。

「お前がもし――」

 いつか自死を望むなら。

 ファサードには、彼女の願いを叶えてやる覚悟があった。

 けれど願わくば。

「アルミラ、お前は気付いていないだろう? 表情を動かすのが下手なお前だが、『アルミラ』と名を呼ばれた時だけは、嬉しそうに微笑んでいるのを」

 いつも淡々としている彼女が、はっきりと「笑み」を浮かべた姿は、まだファサードもお目にかかれていない。

 だが、名前を呼ばれた時だけは、微かに嬉しそうな気配を滲ませている。

 それが、アルミラの発する「生きたい」という声だと信じていた。

 ファサードは彼女の手をしっかりと握りしめて、自分も目を閉じる。夜明けまでのもう暫しを、この少女のような女が穏やかに眠れることを祈りながら。


 しかし「平穏」な日々は、ファサードの予想よりもずっと早く崩れ去る。

「――陛下っ!」

 ある日の午後のことだ。

 レネット――アルミラに付けた侍女が、悲痛な声で叫んで、床に膝をついた。

「聖女様が姿を消されました! ――ルネ様とご一緒に!!」

 ファサードは驚いて目を見開く。彼女が告げたのは、自身が最も信を置く側近の名だ。

「……ルネと?」

「はい、ルネ様は聖女様を良くは思われておりませんでした。もしや、聖女様を害そうと……」

 アルミラに対して彼がとっていた険のある態度を口にして、レネットは唇を震わせる。

 ファサードはチッと舌打ちをして、身を翻して叫んだ。

「ルネの行方を探せ! 銀髪の女と共にいるはずだ! どちらも必ず無傷で俺の前に連れて来い!!」




「っ……」

 アルミラは腹部に感じた不快感に呻きながら、目を覚ました。

「……いたい」

 ぽつりと呟いて、そうだこの不快感は「痛み」だったと思い出す。

 それから、ここはどこだろう、と硬い床から身を起こそうとして失敗した。手を後ろで縛められ、足も同様に動かすことが出来ない。

 周囲を確認することも難しいが、ここがファサードにサーヴェリアンへ連れられて以来暮らしていた部屋ではないのは分かる。

 転がされていたのは冷たい石の上。雨漏りでもしているのか水の跳ねる音もする。空気が澱んでいて、気分が悪かった。

 何より――。アルミラは肩を使ってどうにか起き上がり、辺りを見渡す。

「あ、いた……」

 すぐそばには同じように縛られて、自分よりも酷く痛めつけられた青年が倒れていた。

「ねえ、生きてる?」

 近くまで寄って声をかける。

「ねえ、側近のか――」

「っ、こんな時くらい、名前で呼んでくれませんかね」

 呆れ混じりに睨み上げてくる彼に、アルミラは肩を竦める。

「だって……、そんなに重要だと思えなくて」

 そう言うと、今度こそ彼は心底呆れ果てたような顔をした。

「重要ですよ、アルミラ様。それに、本当は貴女にも分かっているはずです」

「え?」

「……『聖女様』と『アルミラ様』、どちらで呼ばれたいですか。それが答えです。――まあ、貴女には分からなかったようだがな、レネット」

 身体の痛みに顔をしかめながら起き上がった側近が、視線を向けた方向を見る。

 そこには、この部屋唯一の扉を開け、無表情で中へ入ってきた侍女がいた。

「あら、人を察しの悪い女のように言わないでくださいます?」

 くすくすと取ってつけたように笑う彼女に、側近が顔をしかめる。

「レネット、アルミラ様を拐ったのは何故だ」

 そう、アルミラは彼女に――彼女が手引きしたらしい男たちに誘拐された。

 今日は長い時間ファサードが傍にいられないから、とかでそばについていた側近は、それを阻止しようとして怪我をしたのだ。アルミラ自身も、連れ出す際に暴れるのを防ぐためか鳩尾に拳を入れられていた。

「何故、ですって?」

 笑っていた侍女の顔から表情が抜け落ちる。

「貴方には分かるはずでは、ルネ様?」

「…………復讐か」

「ええ、そうよ! そこの聖女に絆された、裏切り者などには理解できないでしょうけれど!」

 酷く興奮した侍女は、金切り声で叫んだ。

 側近はそんな彼女に顔を伏せて、皮肉げに片頬を上げる。

「絆された訳ではない。私だって……『聖女』は憎いよ」

「……なら。わたしのする事、止めはしませんね?」

 侍女が澱んだ暗い目でアルミラを睥睨する。彼女は後ろ手に隠していたナイフを構えて、こちらに歩いてきていた。

 アルミラはその刃の煌めきを見つめながら、ぼんやりと思う。

 斬りつけられるのは、あの時ファサードに殺されかけて以来。きっと――、とても痛いだろう。

 けれど。

 鈍く痛み出した頭に、アルミラは一度ぎゅっと目を閉じる。

 これは、自分がしてきたことの報いなのだ。

 侍女は「復讐」という言葉を否定しなかった。おそらくアルミラは、彼女の傷付けてはならないものを傷付けたのだ。取り戻せはしないほど、深く。

 ならば、仕方がない。

 命令されて、などと見苦しい言い訳をするつもりはなかった。

 だって、あれは確かに、私が行ったことだもの。

 アルミラは目を開ける。

 だが、そこにあったのは、侍女の姿ではなかった。

「……そこを退いてください、ルネ様」

 暗い侍女の声が響く。

 信じ難い気持ちで、アルミラも側近の背中を見つめた。

 彼は、二人の間に身体を割り込ませ、まるでアルミラをかばうようにそこにいる。

「――どうして?」

 アルミラの口から、ほろりと疑問が零れ落ちた。

 彼は聖女を憎んでいるとたしかに言った。それなのに、今も、ここに来る前も、どうして守ろうとしてくれるのだろう。

 側近は前を向いたまま、侍女から視線を外さない。だが、こちらの問いは聞こえていたようで、ぽつと返答があった。

「貴女は――、『アルミラ様』は、陛下の大事な方ですから」

 その言葉に、侍女は眉を吊り上げた。

「なら、貴方から殺してやるわ」

 振り上げられたナイフに、アルミラは息を飲む。

 自分も彼も手足を縛られて動くことは出来ない。それに、きっと彼はこの場から動きはしないだろう。

 無抵抗の人間に刃を突き立てることなど、とても簡単だ。

「……ファサード」

 彼に今すぐ助けてほしかった。

 でも、ここには自分しかいない。

 ならば、私が守らなければ、この人はきっと死んでしまう――!

「――っ! 神よ、()()に『加護』を!!」

 キンッ、と高い音がして、誰かが息を飲んだ。

「きゃあっ!」

 侍女の悲鳴と共に、ナイフが何かに当たって跳ねる音がする。

 アルミラは、はあはあと荒く息をついて、ルネの前に展開された結界を見つめた。

「せ、成功、した……?」

「アルミラ様、これは――」

「『加護』、といって……。対象を護る堅固な結界術よ。……初めて成功したけれど」

 アルミラは長らく聖女の力として「神罰」のみを使ってきた。――否、それしか使えなかったのだ。

 本来、聖女というものは癒し手の側面が強く、「神罰」も効果は強力だが、聖女自身に生命の危機が迫った時などといった限られた場で顕現するものだ。

 しかし、アルミラは歴代の聖女が得意としてきた、護りの結界を張る「加護」や、人々の傷や病を治す「祝福」といった力が一切使えなかった。その代わりのように、自在に操れてしまった「神罰」が、戦争の道具にされてしまったのだ。

「つまり、ひとまずは難を逃れたと考えても良いのでしょうか?」

 ルネの問いにアルミラは微かに眉をひそめた。

「いいえ……。私自身、これをいつまで展開出来るのか分からないの。だから――」

 そう説明している間にも、結界の色が薄くなっているのに気付く。

「天はわたしを味方したようね」

 結界に阻まれ、弾き飛ばされたナイフごと床に蹲っていた侍女――名前は、そう、レネット。レネットが立ち上がって、こちらを嘲るような表情で嗤う。

 もう一度ナイフを構え直した彼女が、どんどんと輝きを失ってゆく結界が完全に消え去るのを待っているのは明らかだった。

「……レネット」

 そっと名を呼ぶと、彼女の顔が忌々しげに歪む。

「あら、覚えて頂けていたなんて、光栄ですこと」

「あなたの目的は、私を殺すことなのでしょう? なら、ルネは関係がないわ。見逃してほしいの」

 どうにか彼に被害が及ばないように、と言ってみるが、レネットはハンと鼻を鳴らした。

「その男はお前をかばったのだから、同罪に決まっているわ」

「――そうか。なら、俺のことも殺すか?」

 突然割って入った声に、全員が息を飲む。

「……ファサード?」

 アルミラはそこにいる姿を、俄には信じられずその名を呟いた。

 ここに来るまでに何があったのか、傷だらけの彼はアルミラに微笑むと、レネットへ視線を移す。

「やってくれたな、レネット」

「陛下……っ」

「お前を信頼して、アルミラの護衛を最低限にしていたのが仇になった。まさか、暗殺集団を雇うとはな」

 ここまで辿り着くのに苦労した、と続いた言葉に、彼の負った傷の原因を悟った。

 そんな痛みを伴ってまで、来てくれたという事実に胸がきゅっとなる。

「陛下、わたしは……!」

「黙れ。言い訳は牢の中で聞いてやる」

 ファサードは、一息にレネットのいるところまで距離を詰めると、彼女の首に手刀を落とし、その意識を奪った。

「――アルミラ、怪我はないか?」

「ないわ。ルネが守ってくれたの」

「そうか……」

 アルミラの傍まで歩み寄った彼は、膝をついて顔を覗き込んでくる。

「……ファサード?」

 その時、彼の額から滴った血が、アルミラの頬に落ちた。

 彼が目を見開き、血を親指で掬い取る。そして、何故かその血をアルミラの口元に塗りつけると、そのまま唇を奪われた。

「っ? ぅん……」

 訳が分からず呆然としている間にも、彼の舌が肌をなぞって、隙間に割り入ってくる。

 舌を絡め取られたことに驚いて、びくりと身体を震わせると、ファサードはハッとしたように唇を離した。

「……しまった。お前から求めてくるまでは、耐えるつもりだったのに」

 よく分からないが、心がドキドキふわふわして、アルミラは離れてしまったぬくもりを少し淋しく思っていた。

 だから、こてと首を傾げて、ファサードを見上げる。

「もうしないの?」

 彼は眉間に皺を寄せて首を振ると、頬に残った血を舌先で舐め取った。

「…………しない、つもりだ。ただ、血を滴らせたお前は、本当に美しいからな。つい、理性が」

「ふぅん……?」

 もう一度首を傾げていると、ファサードは額にキスを落としてくる。

「お前に自覚はなかっただろうが、初めて戦場で(まみ)えたお前は、ゾッとするほど美しかったんだぞ。思えば一目惚れだったのかもしれないな……」

 初めて彼と会ったのは、アルミラが殺されかけたあの時だが、その直前に起こした「神罰」で、自分は頭から返り血を浴びていたはずだ。

 それを「美しい」などと宣った男に、さすがのアルミラも少々険しい顔になる。

「あなた、少しおかしいわ……」

「知らなかったのか?」

 ファサードがニヤリと笑った時、すぐ隣から咳払いが聞こえて、アルミラはハッとする。

 そちらを見ると、ルネが何とも言えない表情で呆れていた。

「お二人共。仲がよろしいのは結構ですが、そろそろ縄を解いてくれませんかね」

「ああ、そうだったな。すまん」

 素直に謝る彼に肩を竦めたルネは、今度はこれ見よがしに溜息をついて続けた。

「それと。アルミラ様は腹部を殴られておいでなので、先程のは嘘です、陛下」

 怪我はないか、というファサードからの問いに肯定を返したことを言われているのだと気付く。

「……アルミラ」

「そういえば、そう…ね……?」

 非難がましいファサードからの視線に目を逸らし、鈍い痛みを感じる鳩尾を撫でて呟く。すると彼らは示し合わせたように、どこか似通った呆れ混じりの笑みを浮かべたのだった。



     *



 その後、レネットは王都からの追放処分となった。

 まだ正式に「王妃」ではないアルミラ――王の客人に過ぎない平民を害そうとした、というだけで極刑には出来なかったからだと聞いた。

 だが本当は、彼女が胸に隠し持った「婚約者を殺した聖女」への憎しみを見抜けなかった、ファサード自身の負い目によるものだと、ルネは解釈しているようだ。……アルミラもそう思っている。

 アルミラ個人に、レネットに対して思うところはない。むしろ、そんな恨みを抱いていたにもかかわらず、随分優しくしてもらえたと考えているし、おそらく――アルミラはレネットのことを好いていた。

 だから、彼女の命が奪われるような結果にならずに済んで良かったと感じている。レネット自身が、処遇に関してどう思っているのかは、もう知ることは出来ないけれど。

「ねえねえ、ファサード。今日、ルネはどこにいるの?」

 ようやく部屋の外に出してもらえるようになったアルミラは、庭に用意された椅子に座って、隣にいるファサードに抱きつきながら、上目遣いで尋ねた。

「……最近、お前はルネのことばかりだな」

 機嫌が悪くなったらしい彼に、きょとんとする。

「だって、好きな人とは会いたいわ」

「好き……。アルミラ、それはどういう『好き』だ?」

「好きに種類があるの?」

「……小動物に感じる『好き』と、人間に感じる『好き』は違うだろう?」

 たしかに、と思ったアルミラは、首を捻ってうーんと考え込む。

 最近、難しい本も読めるようになっで、どうやら自分は読書が「好き」らしいと気付いた。

 その中で読んだ物語で、そう主人公は――、

「――お兄様に対する『好き』、かしら。想像なのだけれど」

 主人公の女の子が、大好きなお兄様に抱いている気持ちと似たようなものをルネに感じている、と、思う。たぶん。アルミラには兄はおろか、親もいなかったため、絶対にとは言い切れないが。

「そうか」

 ファサードの機嫌は少し直ったらしい。アルミラはほっとして、にこにこと笑った。彼にはずっと楽しく過ごしてほしいからだ。

「っ、アルミラ?」

「なあに?」

「…………いや。ああ……、そうだな。俺のことは? 俺のことは『好き』か?」

「……うん、すき」

「どんな風に?」

「その……、どきどきして、ふわふわして、ぽかぽかするの。でも、たまに胸がきゅうってなるわ」

 なんだか照れくさくなってしまい、ファサードから視線を逸らすと、彼がそれを追うように額に口付けを落とす。

「ファ、ファサード」

「俺もお前が好きだ」

 そんな風に囁かれると、頬がとても熱くなる。

「ひゃあ……」

 落ち着かなくなってアルミラはぎゅっと目を閉じた。唇に吐息がかかる。

 キスされてしまうのかしら――。

 あの日に一度だけされた唇への口付けを思い出して、胸が高鳴った。

 しかし、そこに肌が触れるよりも早く、別の声が聞こえた。

「――陛下」

 アルミラはパッと顔を上げる。

「「ルネ」」

 呆れた表情をする彼の、名を呼ぶ声が重なる。だが、嬉しくなったアルミラと違い、ファサードはどこか不満げな声音だった。

 何故だろうと思うアルミラだったが、ルネはそんな彼の態度に疑問を感じてはいないのか、やれやれとでも言いたげに肩を竦める。

「お止めするよう命じられたのは、ご自身では?」

「……それは、分かってる」

 まだ憮然とした様子ながらもファサードは、アルミラを抱き上げて自身の膝に乗せた。

「ねえ、ルネ。ファサードは何を怒っているの?」

「それは――……」

 彼は抱き上げられたアルミラの、頭の頂点から足先までをじーっと見つめて、溜息をつくと続ける。

「正直、陛下の杞憂ではないかと思うので言いますが。陛下はご自身の行いが、教会の糞ジジイ共の行為を思い出させるのではと、ご懸念されているんですよ」

「くそじじい……」

 珍しくルネの口から飛び出した、直接的な暴言に驚きつつ、アルミラは指で自身の唇に触れた。

 たしかに、彼の言うところの「糞ジジイ」に、顔を舐め回されたことはあるし、大変不快だった――と今思い返せばそう感じていた。

 けれど――、とファサードの顔を見下ろす。

「ファサードは『糞ジジイ』じゃないわ」

 アルミラは初めて自分から、その頬にキスをした。

 彼に触れられると、胸が高鳴ってどきどきする。心がふわふわして、飛び立っていきそうになるのだ。

「……アルミラ」

 ぽかんとするファサードに、アルミラは笑みを返した。

 きっとこの気持ちが「幸せ」と言うのだということに、アルミラ自身が気付く日は、そう遠くはないだろう。


Fin.

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